晩夏のカサブランカ

@ikenosayuki

晩夏のカサブランカ

青春時代は黄昏の時間だ、と思います。世間では、力強い生命の春のように言われることも多い高校生時代だけれど、私は寧ろ夏の終わりの夕暮れのような心持ちを覚えるのです。というのもそれは、2年前のあの出来事があったからです。


私はその頃女高等学校に進学したばかりでした。ですからいっぱし大人になれたような気分で、随分と浮き足立っていました。けれども、浮き浮きしていた理由はそれだけではありません。実は、この来る夏休みにある計画を立てていたからです。それはある小説作家のお墓参りのために十駅も先の街までひとりでゆくというものでした。本はあまり得意な方ではない私ですが、偶然にも、その作家先生のご本だけは好きだ、と思えるような作品に巡り合えたのです。古い時代の作品でした。どれほど有名なのか私は分かりませんが、間違いなく文豪の内に数えられている方です。元来、文学とは無縁のたちでしたから、お気に入りの書物と共にする日々は想像していたそれよりもずっと瑞々しくて楽しくて、もしかしてこの頃よく聞く「文化的な生活」ができているんじゃないかしら、なんて気付いてひとり喜んだりしたものです。だからそんな先生の文学忌をお参りできるのは光栄なことでもあり、また初めてのことでどきどきとすることでもありました。カレンダーに付けた赤い丸は日に日に増えてゆき、あともう幾日、あともう何日、思うと、不思議とそわそわした気分になったものです。


さて、そうしてその日がやってまいりました。文豪の文学忌の今日は、暦でいえばもう夏の終わりの頃です。けれども外気は真夏が盛り返したように暑く、汽車を降りる頃には、日差しの中で自分の影が白くぼんやりと映るほどです。駅の周りの中心街から離れていくにつれて、蝉は遠く眠りを誘うように延々と声を響かせ、途中で継ぎ足した墓参り用のばけつの水は、ぽちゃんぽちゃんと規則正しい音を立てて、見知らぬ住宅街を歩く私の後を静かについてゆきます。文豪の墓は、街の少し外れたところの、小さな寺の敷地内にあるのです。お寺の名前が電信柱に書かれているのを見て、ふぅ、ようやく着いた、と汗を拭いました。



ここに来るまでの道ではほとんど誰ともすれ違わなかった程、往来人はまばらでしたのに、文豪の墓場には沢山の人がいました。ひっそりとこんなにも多くの人が集まっているのを見て、文豪の紡ぐ繊細で美しい文章を愛する人が沢山いるのだ、となんだかありがたいような気持ちになりました。とはいえ、大人ばかりでしたので少々怖気付いてしまって、私はもそもそと人々の列の一番後ろにつきました。またひとり、またひとり、と人々は思い思いに墓参りを終えて帰ってゆき、私が花束を手向ける頃には、もう誰もおらず、沢山の白百合の花束が文豪の小さな石碑を取り囲んでいました。私もそっと、花束の銀紙をすっと奥に押し寄せて、心ばかりだけれどもお水をかけて、お辞儀をして、あとを去ろうとしたのです。


その時でした。文豪の石碑より、3つ4つほど離れた石碑のところに、誰かがいるのに気づいたのです。はっと息をのみました。夏の昼下がりの日の中で上から下まで真っ黒な服を着た美しい女の人が、真っ黒の百合の大きな花束を抱えて、美しく凛とした姿で立っていたのです。百合は、カサブランカでした。他のどんな百合よりも、立派で、上品な咲きざまでした。


目が、合いました。女の人は、私を見ると穏やかに微笑して「こんにちは。」と挨拶をしました。優しく、慈悲深い、穏やかな声でした。(あんなにいいこんにちはを、私は前も後にも聞いたことがありません。)私は不思議となんとも言えない神聖な気持ちになって、ゆっくり頷くように挨拶をお返ししました。それを見た女の人は品よく、でも気さくなように「今日は、どちらからいらしたの?」と尋ねます。私が地元の駅の名前を言うと、「あら、遠くから…」と少し驚いてまた微笑みました。私も「お姉さまは、どちらからですの?」聞いてみますと、「いいえ、私は作家先生のお墓前りに来たわけではないの。」と少し照れたように、軽く握った手を口元に少しだけ押し当てて、私よりも、2つ3つほど歳上なのでしょうか。おしろいと紅をさしたお顔はなんとも優美で、高尚な憂いがほんのりと佇んでいました。雅。大和撫子。手弱女振。そんな言葉が、まさしくぴったりでした。


「でもね。」お姉さまは少しだけ寂しそうなお顔をなさって、「貴女のような、若い人は中々来てくれないの。だからね、私、とても嬉しいのよ。」そう言って、彼女はそっと私の手を柔らかく控えめに包みました。私は、お姉さまが何のことを言っているのだが、ぴんとこなかったけれど、お姉さまの言葉から、なんだかまるでお坊さんが説いてくださるお説法のようなそんな朴訥な気持ちが感じられて、私はただ、お姉さまのその澄んだ瞳を見つめながら、少し顔を赤くして頷いていました。


「また、来年も来ると思います。」と私が言うと、お姉さまはちょっと驚いた顔をして、それからまた穏やかに笑いました。そのあと、彼女は片手に持っていた黒い花束を真向かいの煤けたお墓に置いて、ゆっくりと、丁寧に水をかけていらっしゃいました。その姿を、私はじっと黙って見届けていました。さっと涼しい風が通ると、お姉さまはもういらっしゃらなくて、夏の青い空が私を境内にぽつねんとひとり残していました。つんとした、それでいて柔らかい百合の香りが、あたりを包み込んでいました。


あれから、3年ほどの月日が経ちます。私は毎年晩夏の季節になると、あの文豪のお墓に足を運びましたが、ついぞあのお姉さまと再びお会いする事はありませんでした。いったいあのお姉さまは誰だったのでしょう。文豪には、3人も娘さんがいらっしゃったと聞くから、そのうちのどなたかだったのかもしれません。けれども、ひとり部屋の窓際で本を開き、花の薫るような繊細な文豪の文章を辿るときなんかには、あの日のお姉さまは、文豪先生本人だったのではないだろうか。そんなふうに思うのです。今でもあのカサブランカを持った立ち姿を、真夏のかげろうのように思い出すことがあります。









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