ゼロイチ
井部 強
第1話 塊
「ならお前は…何故地獄に落ちたのだ?」
羅喉(ラゴ)が絞り出すように言うと、それはようやく「顔」のようなものを上げた。
地獄に青空は無く、太陽も星の瞬きもない。あるのは血染めの月、亡者たちに狂気を染み込ませるためのそれだけだ。
それでもいつものように羅喉の業務は開始される。地獄の鬼は疲れない。それでも一仕事終えれば、酒と亡者の手足とで一日の締めの晩酌はある。決まった時間に今日も、罪人たちが地獄にやってきた。繋がれてのろのろ、きょろきょろと、しかし肉体は最も美しかったその時のままだ。閻魔閣下に聞いたことがある。何故老人のままでなく、強く元気だった姿にしてやるのかと。
「価値の無いものを傷つけられても心は痛まない。罪を苦痛で贖うここでは、誰もが最も素晴らしかったものを失う。最大限の浄化を与えんがための工夫だ。」
こんな質問をしたのは羅喉だけだった。周りの鬼はみな阿呆だな、という目で馬鹿にしながらも、閻魔閣下に物おじせず問い掛ける姿にある種の畏怖を覚えたものだった。そういう存在は仲間以外にはとことん嫌われるものだ。
「おぅい、ラゴ!今日のオモチャだゾ!」
陽気に手を振る鬼は武曲(ムゴク)というお調子者で、亡者のはらわたを背中から引き剝がしては首飾りを作るのを日課にしている変鬼だった。羅喉は値踏みするように引き連れられた亡者を一瞥し、ため息をついた。
「今日は十人もいるのか。どれも貧相で喰らいがいが無さそうじゃあないか。」
言うや否や、羅喉の膝目掛けて蹴りが見舞われた。視線を下すと肌に墨を入れた筋骨隆々の男が手枷を嵌めたまま睨みつけている。他の亡者は狼狽えるばかりだ。
「イキの良いのがいるだろ、ラゴ!痛かったか?ン?」
面倒そうに一つ吸い、羅喉は「アッ」と発した。計二十枚の鼓膜が破れ、立っているのは羅喉と武曲だけになった。蹴りでは鬼は倒せないと悟ったのか、男は遁走しようと試みているらしい。無論、平衡感覚を失った脚は地面を捕えていないのだが。
「今日も踝だけ潰して追いかけっこか?ラゴ、工夫が必要だロ?」
「よせよ。」
低くクク、と嗤うのは羅喉が最大限楽しんでいる時だけだ。だが、それも一瞬のものだった。
十一人目が居たのだ。まだ立っている、いや直立している。地面に二本何かが伸び、人の形をしてはいるが、明らかに人ではない。それは塊、零と一の羅列であった。数字の零と一のだけが絶え間なく、目まぐるしく入れ替わり、そこに存在していた。
「なんか珍しいのが居てなぁ、手枷も嵌められなんだ。まぁ列にはついて来るし問題はないだろ。水子か何かかノ?」
羅喉は凄まじい違和感を覚えた。形容しがたい、不快な感覚だった。その感情が何であるかも理解できなかった。少なくともこいつには耳が無い。いや、目も鼻も口も──それどころか、仏様がお救い下さる魂が、果たしてあるのだろうか?
ゼロイチ 井部 強 @pakumana
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