第10話 適材適所

 ――敵が消えてしまった。


 僕は目を見開いて、敵の姿を探した。しかし、窓から入る月明かりには、何の引っかかりも無く、そのまま僕の足元を照らしている。すぐに、これが福音であると気づいた。それも「透明化」という、暗殺者にとっての最良の能力。この福音を持ってして、両親を殺したのか――と、僕の中で暗殺者への説得力が増した。


 僕ではなく、アルが両親付のメイドであれば、あるいは結果は変わったのかもしれない。しかし、彼らは誰も疑わないことを選んだ。異世界リースの記憶の中には、思慮深い彼らだけが映る。民衆を安堵させる為だけに、武力の全てを纏わなかった彼らに対して、尊敬の念が残っていた。


 ならば、誰が彼らの命に報いるのか。それは、息子である僕とリースの役目だと心から思える。


 まるで、運命がめぐり合わせたかの如く、敵と僕の福音は相性がいい。僕は、左手の人差し指を立てて、そっとこめかみに当てた。すると、赤い靄のような姿で、敵のシルエットが浮かび上がる。完全に姿を捉えることはできず、敵との福音の練度の差が顕著に表れていた。


 それでも、どこが頭部かくらいは見分けがつく。僕は視線を持ち上げて、敵の眼だと思われる個所を睨んだ。そうすれば、剣を振ろうとする敵の動きが止まった。それは「見えているのか?」と、僕に質問をしているかのようでさえある。


 読み合いをするつもりもなく、僕は敵の動きが止まった瞬間に飛び込んだ。今度の狙いは、顎でもこめかみでもなく鼻の中心、思い切りストレートを見舞った。思考の迷宮に迷い込んだ些細な隙に、僕の拳が差し込まれたようだった。


 鼻血を吹き出しながら、敵が仰け反る。透明化では、血液までは誤魔化せないらしい。そのまま「顎」「こめかみ」「金的」の順序で急所に攻撃を当てる。敵は苦痛や脳震盪で、何かを懇願するかのように膝をついた。


 これは実戦だ。手心は僕を殺す。落下していく敵の顎へ、更に膝の追撃。ドシャッという大きな音を立てつつ、敵が黒い布に沈んだ。完全に透明化も解け、明らかに敵は意識を失っている。


 次に僕を満たしたのは、勝利の実感だった。ひれ伏す敵を見て、多少なりとも優越感が育まれる。そのついでに、成長の実感が小さく湧いた。


 その5秒ほどの間に、敵が立ち上がったのだから、自分の愚かさには反吐が出る。


 殺気に目をギラつかせながら、銀色の輝きが僕の腹部を追いかける。致死量の油断が、僕の腹部に十字架を突き刺した。剣を辿って赤い雫が敵の方へ流れていく。剣の突き刺さった箇所が、あり得ないほどに熱い。


 今度は、僕が床に膝をついた。あぁ、死ぬ。実戦での油断と言う、致命的な僕の欠陥が、自ら僕を殺すのだ。あえて死に向かっていく愚かな自分を、僕は心から呪うことくらいしかできない。


 視界がぼやける。敵の姿も認識できない。そこにいるはずの暗殺者が、ぼやけて見えている。訓練を受けたとはいえ、素人が打撃で人を無力化するのなんて、無理だったんだ。絶望が、赤い液体となって、僕の代わりに床を占領していく。


 順調に死に向かう僕の背後で、扉が開かれた。同時に、敵が親指を咬み、透明化を発動して消えた。いつの間にか、敵の背後の窓が開いていた。本当に窓から逃げたのか、それとも透明化を活かした偽装なのか。思考だけが、僕の中を駆けまわる。そんな僕の真正面に、アルが屈む。


 あぁ、駄目だ。敵は透明化を使って、まだ室内にいる可能性がある。僕なんか放っておいて、敵を警戒しなくちゃ――忠告ばかりが心の中に沈んでいく。音のない言葉ほど、意味のないものはない。それが解っているはずなのに、こんなにも僕は無力なのか。これは異世界リースの意志だけじゃない。僕だって、彼女を守りたいんだ。


 腹部の鈍痛が、意識を奪おうと僕から赤を奪い続けている。でも、関係ない。僕から僕の大切な人を奪わせはしない。もう、何も奪わせはしないんだ。


 膝が笑えば、腰は歌っているのだろうか。力を込めようとも、芯が脱力しているかのような違和感がある。震える足腰を、強引に意志力で動かし続ける。立ち上がり、そのまま左手の人差し指をこめかみに当てると、再び赤い靄が見えた。


 窓横の、月明かりから隠れる位置。必殺の瞬間を待っているのか、僕を見て体が微かに揺れていた。お互いに、お互いが見えていることを理解している。僕ら二人は、息を合わせたみたいに、二人で同時に動き始めた。赤くて細い靄が、僕へ直進してくる。やけに鈍重に見えるそれが、片手直剣であることは明らかだった。空いた右手で剣をどかして、そのまま左ひじを突き出した。こめかみから指を外すと、視界から靄が消えるはずなのだが、今回は消えずに残っている。あぁ、そうか。これが成長なのか――と、こんな時に納得していた。


 肘は、美しく敵の鼻に突き刺さる。どちらも前進していたから、互いの勢いが激しくぶつかり合った。所謂、カウンター状態であり、敵は大きく仰け反って、そのまま仰向けに倒れていく。しかし、壁際だったこともあり、頭部を壁面に直撃させて、ずるりと滑り落ちていく。壁には、赤い染みが残っていた。今度は、明確に無力化した感覚があった。


 安堵から、敵と同じく僕も崩れ落ちる。そんな僕を、アルは優しく受け止めてくれた。即座に僕の腹部に左手を当てると、拳を作ってから親指から中指までを立てて、円を描くように撫でた。すると、みるみる内に、傷が回復していく。逆再生を見ているかのような速度だった。


 あぁ、これがアルの福音なのか、と納得したのと、僕が気を失うのは同時だった。

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