第7話 正義
運動ホールにて、今日も今日とて上へ向かって手を伸ばす。足を地面から離し、少しでも天井へ近づこうとするも、指先から天井までは、およそ二十メートル程も離れてしまっている。上へ上へというこのバービージャンプ運動は、疲労と天井への距離と相まって、絶望的な小夜との距離感を僕に連想させていた。運動ホールは、約二十数メートルほどの高さがあり、縦50メートル・横25メートルの長方形となっている。運動ホールということもあり、床は大理石ではなく板張りとなっている。これが一介の屋敷内にあるのだから、とんでもない規模感を惜しげもなく僕へ伝えていた。まだ外から全貌を確認したことはないが、記憶美術館に展示された朧げな風景画とは、少しだけ噛み合わない気もしていた。何らかの福音が、構造的限界を引き上げている可能性もあるのかもしれない。
2セットのバービージャンプを終えた。するとアルが静かに僕へ近づき、僕から2メートルくらいの地点で停止、真正面から僕を捕える位置を取った。僕は、まだ少し息が荒いものの、丁度よく体が温まり、これから到来する更に過激な運動への準備を十二分に終えている。徒手格闘における最短ルートは、模擬戦。それが彼女の確信に溢れる理論だった。彼女の指が、輪郭をなぞる。
「では、開始。」
アルが号令をかけ、僕へ接近する。上体は、ほとんど微動だにせず、行動の予感を削除している。唯一動く足元に注意を払えば、上体が繰り出す攻撃に対応できず、被弾を余儀なくされることだろう。一月では、とても彼女のような一流の戦士に対応することなどできない。もちろん、それは彼女も理解していて、僕との模擬戦では、蹴り抜きというハンデを設けていた。だから上半身だけに注意を向けていれば、ある程度対応できる――というのが、模擬戦実施当初からの僕の理論だ。
猫のように俊敏に、それでいて軽やかに僕へ接近したアルの右手が霞む。注視していても、完全にとらえられない。僕は咄嗟に頭を仰け反らした。先程まで僕の顔があった位置で、空気が振動する――少しだけ自分の頬が揺れたおかげで、そこを拳が通り過ぎたのだとわかった。見えないのだから、直感頼みで躱すしかない。
「減点1。」とは、アルの言葉だ。
アルの拳が、僕の腹部を貫いた。拳が腹の皮膚を通り抜け、背中へ突き抜ける。ごちゃ混ぜになった胃袋などの臓器を、満員電車に新たな乗客が押し込まれるように、ずらしながら強引に進んでいく感覚があった。
「ゴハッ!?」
言葉にならない叫びが、僕の口から飛び出す。胃袋に乗客がいれば、もれなく降車していたことだろう。なんとかフラフラと彼女から距離を取る。こんな酔っ払いが駅を闊歩すれば、線路へ落下する未来が目に浮かぶ。しりもちをつかなかっただけでも、褒めてもらいたいくらいだった。腹部の苦痛の中、減点によるバービージャンプ1セット加算が、脳裏に精神的苦痛まで持ち込み乗車させていた。
「悪手にございます。仰け反れば、腹部ががら空きに。敵が武器を持っていれば、苦痛ではなく死神がリース様のもとを訪れていたでしょう。」
アルの指が、その輪郭をなぞった。悪手を踏む僕は、メイドの雑な掃除と同様のストレスを彼女にもたらすみたいだ。とはいえ、僕を殴るたびにニンマリと笑う彼女を見るに、ストレスと快楽が混同している気もしている。異世界リースが持ち合わせないアルに関する新たな辞書が、僕の中でページ数を増やした。
終了の号令を聞かず休もうとする僕が悪いのか、こと戦闘訓練においては容赦のないアルが悪いのか、彼女はいつの間にか僕を間合いに収めていた。彼女の左手が霞むと、僕は体を仰け反らせるのではなく、右足を半歩背後へずらし、それから左足を軸に半身に構えた。腹部に空気の振動が伝わり、彼女の拳が通過したことを知る。そのまま間髪入れずに腰を曲げ姿勢を落とすと、今度は頭頂部に振動が走る。二手も躱せたのは、全ての模擬戦を含めると、累計3回目の出来事だった。更にそれからエビみたいに上体を「く」の字に曲げ、追撃の左フックをも躱す。三手目の回避は初体験、奇跡に近い数奇的現象にすら思えた。調子に乗った僕は、自ら右拳を突き出す。僕の渾身の顔面目掛けた右ストレートを、彼女は軽く顔を傾けて躱してしまった。アルの顔すれすれを、僕の拳が無意味に一般通過する。
「減点1。」
顔を傾けつつ、僕の右腕に重ねるように、アルは左腕を放った。所謂クロスカウンターが、僕の顎先へクリーンヒット。顎先が突然なくなったかのような感覚が、僕を駆け抜けると、次に脳震盪が全身の力を剥奪していった。膝から崩れ落ち、俯く僕の口元から、涎だけが動き始める。咄嗟にメイドとしての使命を思い出し、アルが僕の口元をハンカチで拭う。僕の代わりに動き始めた涎すらも、彼女により僕の意識と同じように消された。それからアルは、僕の肩を数度ゆすり、ようやく僕は意識を取り戻したのだった。
「あら、素晴らしい努力家ですわね。」
聞き覚えのないソプラノが、少し遠くから僕の耳をゆすいだ。意識が朦朧としていたから、何も考えずに音を辿るように頭を動かした。すると直ぐ側で涎を拭ってくれたアルの顔を、超近距離から見つめることになった。目を見開き、少しだけ頬を赤く染めたアルは、何故か僕の頬を優しく撫でる。真っ白な肌に薄い朱がさし、彼女の印象そのものを一段階ずらした。潤む瞳が、彼女が抱く僕への忠誠の意を、何か別の感情へ置きかえようと脳へ訴えかけてくる。いつの間にか鼻先が触れそうな距離にいる彼女から、顔を逸らすことができなかった。彼女の吐息の音がするたびに、お互いの体内から放流された空気が交換される。まったく不快感が無く、もしかすると16年間は、アルへ特別な感情を抱いていたのかもしれなかった。僕と16年間が共有したのは、果たして記憶や体だけなのだろうか。火照る脳が、僕の感情や思考をより曖昧にして、いたずらに解像度を下げていく。檻のように決められた範囲しか持たない水たまりに浮く水黽が、風に吹かれて意識の外側にずれゆくように、僕も理性の外側に身を置こうとする。既に脳震盪は治り、言い訳としての役割を果たせない。理性や思考が僕を妨害しようと、徐々に視界の隅から迫りくる。
「お邪魔かしら?」
ソプラノは、とても近くから聞こえた。鼻でビックバンが起きたかのように、僕とアルの顔は高速で遠ざかった。焦ったのか、僕の涎が付いたハンカチで、額についた宝石のような大粒の汗を、アルは拭っている。僕も熱っぽい頬を冷ます為に、顔を数回振った。そんな僕たちの様子を、至極おもしろそうに女性が見下ろしている。16年間の辞書には、彼女は乗っていなかった。
「邪魔ッ!…ではありませんよ。」
何故か「邪魔」の部分を強く強調しつつ、アルが立ち上がった。女性とアルが暫く見つめ合うと、先に目を逸らしたのはアルだった。そうして女性は、アルから僕へ視線を移行した。ふと目が合うと、女性の黄金色の瞳が印象的だった。光を乱反射する彼女の白髪は、よほど細いのか小さな風を捕えて少し舞う。金をあしらったチャイナドレスのような純白のドレスを纏い、何故か室内だというのに傘をさしている。ややタイトなドレスが、彼女のボディラインを明らかにしており、それがどの男性から見ても魅力的なのは明らかだった。
「お久しぶりにございますわ。私(わたくし)は七元徳が正義、リリック・フォールン・ペトロイカですわ。覚えておいでですか?」
謁見と言うには、余りに粗末に正義は現れた。そんな彼女の貴族の作法を知り尽くしているかのようなお辞儀は、異世界リースから彼女の記憶を引き出してくれた。初対面の時も、彼女は丁寧なお辞儀をしてくれたはずだ。朧げにしか映らない彼女の顔の記憶も、作法の中にぼんやりと内包されている。
アルからリリックに関して聞いたところ、彼女の趣味は詳細な日記をつけること。その日記には、その日の出来事すべてがイラスト付きで解説されており、最後には善悪の判定により締めくくられる。物事の善悪のみを行動の指針とすることから、リリックはとても扱いにくいんだそうだ。但し、それが「善」だと判断された場合、七元徳が正義の名のもとに必ず実行されるらしい。善悪において、最も重要なのは「視点」なのだとアルから聞いた。立場が変われば、当然「善悪」の判定が変わる。ことルゥナ教に関しては、リリックの善悪の判定基準が曖昧になるらしい。不明瞭さを上手く利用することによって、ある程度ならリリックを操舵できるみたいだ。
「あ、あぁ…ごめんなさい。正直あんまり…随分と昔のことだったから。」
「素晴らしいですわ。多くの方は、美しい女性の前では、覚えていると嘘をつきます。ですがリース様は、正直に答えてくれましたわ。正直は善なのです。」
とても嬉しそうに、リリックは微笑んだ。雲間から太陽光が差し込んだかのような朗らかさが、心を洗い流す。正直が善だという彼女だからこそ、自分が美人だという真実を否定しないのだろう。真実の否定は、もっとも嘘に近い場所にある。
「それで、調査は進んでいるのですか?」――とは、アルの言葉だ。
「えぇ、もちろん。ですが、芳しくはないですわ。敵の規模は、想定以上になるかもしれませんわね。それこそ、私達二人で対応するのも、手に余るかも…。」
「果実だけ収穫できればいいのです。樹木ごと対処する必要はありません。ルゥナ教を害した暗殺者組織を仕留めた。その名目だけが必要になります。」
「ようは、前教皇様の訃報を、大衆へ発表するにあたって、教会の威光を示せるような形にする必要があるわけですわね。」
「その通りです。」
「では、こちらを。」
リリックがアルへ紙の束を渡した。僕の角度からじゃ、何が渡されたのか解らないけれど、推測するに調査報告書だと思う。たった一か月という期間にして、相当な厚みがあるように思えた。初めて見る辞書の厚みに、とんでもない未開の情報量を予感するのと同じく、報告書の厚みに僕は静かに戦慄していた。その厚みが、あたかも敵の規模に直結しているような気がしてしまうのだ。
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