第6話 夜会


 夜。カーテンすらも閉め切られた深い夜。月明かりの侵入さえ拒む昏い夜。闇を深める創意工夫がいくつも施された部屋は、黒いペンキの中で泳いでいるのかと錯覚するほどに、僕の視界を奪っていた。神であるルナに話を聞かれないように、外から差し込む光を極限まで抑えている。神から慈愛のみを授かるには、人間の謀略は余りに昏く、彼女からの保護を遠ざけてしまう。


 狭い視野の中に、一つだけ蝋燭が立っている。しかし、その蝋燭は心細く揺れ動くだけで、部屋全体を照らすほどの光量を持たない。息を吹きかければ、いつでも消せるような灯りだけが、この部屋で揺れることを許される。


 蝋燭は、とても曖昧にその周りに並ぶ人物たちを照らしていた。円卓を囲む者達は、木製の豪奢な椅子に腰かけている。光量の問題で、彼らの鼻から上を視認できない。彼らは、口元ではなく目元を隠し、音よりも存在を隠そうとしていた。そして、僕もその一人だ。何かのきっかけで、アルのように僕に気付く人がいるのかもしれない――そんな思いが、僕の存在をより希薄にしていた。


 月に一度の会議、それが今日を選んだ。暗殺者の存在により、月末に行われるはずだった会議は、二週間ほど時を速めている。世界中に教会を持つルゥナ教の幹部が集結するには、一週間と少しの時間を要した。議題は、目下の問題である教皇の死と暗殺者の存在についてとなっている。


「教皇様の訃報を民衆へ?」――幹部の一人が問う。

「いいえ、まだです。」――ペルが答えた。


 ペルは、この会議の進行を務めている。幹部たちと彼は、対等な関係に位置する。


「では、新教皇様の発表と同時に?」

「はい、そのつもりです。問題は、どう訃報を伝えるのか…かと。」

「なるほど。確かに、暗殺者に教皇様が討たれた…では、民衆の不安を煽るだけになってしまいますね。」

「それに、暗殺者に怯えるような態度を取れば、敵に隙を与えてしまいます。」

「それは…芳しくありませんね。」


 数分間、音すらもこの部屋から逃れようとする。誰もが口をつぐみ、妙案の降臨を待ちわびていた。とはいえ、神の介入を拒むこの部屋では、神託を得ることもできない。解決策を欲するのならば、自らの脳を働かせるしかない。精米する為に朝から回る風車のように、休むことなく思考を回すしかないのだ。この黒い風が止むまでは、大きな石臼を止めるべきではない。


「【聖騎士】の招集、それが最短かと。」――誰かが言った。

「聖騎士は、各地の治安維持を前提に組織されている。自衛の為だけに行使してしまえば、教会が武力を保有するという大義名分を危ぶむ可能性がある。信仰が離れていくことと、ルナ様への反逆は同義だと思え。」


 彼の反対意見を補足すると、ルナ教の教えの中に「我よりも人」という考え方がある。宗教組織と矛盾するように思える武力も、「他を守る為に」という信念を前提にしているからこそ、存在が許されているのだ。それこそ、信仰を集めるのにも一役買っている。地球でいうところのスーパーヒーローに近い存在として扱われていた。もっとも、架空と現実という大きな差はあるが。


「一理ありますが、最高戦力の極一部が、最短時間で修めれば?」

「ほう、つまり…【七元徳】を招集するのか?」

「全員を集結させる必要はありません。【枢要徳】の内、最も適切な二つを。」

「【知恵】と【正義】か。」――誰かが囁いた。


 【七元徳】とは、【知恵・勇気・制約・正義・信仰・希望・愛】の七つからなる聖騎士の最高幹部たちだ。しかし、聖騎士に幹部以上の身分はない。というのも、あくまでも聖騎士たちは、民衆を守る神の剣であり、教会の剣ではない。便宜上、彼らは独立しているが、組織的視点を強引に用いれば、ここに並ぶ幹部たちと同等の地位を持つ。七元徳のうち、【知恵】以外が会議に参加することはない。彼らの得意分野に知力はなく、武力としての存在価値を今も世界のどこかで存分に証明している。


 これら七元徳は、ルゥナ教の教えの中で二分されている。【知性・勇気・節制・正義】の【枢要徳】と、【信仰・希望・愛】の【対神徳】となる。ルナが人へ与えた教えが枢要徳、人が神へ捧げた思いが対神徳となっている。


「是非、君の意見が聞きたい。メイドとしての意見ではなく、【知恵】として。」

「もちろん、我々にお任せ下さい。最短かつ最小にて納めてみせます」


 ――僕の背後から、「アル」が答えた。


 僕は、なんとなしに彼女の指がその輪郭をなぞるのを感じた。


◇――◇――◇


 努力が嫌いだ。誰かと同じ労力を捧げても、恩恵は平等じゃない。でも、取り組むべき時を逃し、努力から生じる結果に永遠に手が届かなくなるよりは、もがくように労力を捧げ、少しでも距離を縮めるべきだと理解している。熱したガラスがゆっくりと形を崩すように、僕は頼りない労力を小夜に向けて捧げていた。


「リース様、最低限の筋力は、必要不可欠です。」――アルが僕を見下ろす。


 七元徳が知恵、彼女の本職はメイドではない。僕の専属メイドになる前、彼女はメイドとしての作法以外に、【知恵】の先代たる彼女の父親から、戦闘訓練を施されていた。代々の務めとして、教皇の子を守る役目を知恵が司る。


 僕は、所謂バービージャンプに取り組んでいる。運動に必要とされる筋肉のほとんどに刺激を与えることが出来る万能トレーニングだ。地球の知識として知っていたが、まさかこの世界にもあるとは知らなかった。


 ①腕立→②起立→③跳躍→④頭上での拍手→①に戻る。1セット十回で、翌日に全身筋肉痛を引き起こす。一度に多くを動かすからこそ、負担も大きくなる。


 アルには、肉体鍛錬を師事している。「福音」に関しては、自分で取り組む方が高効率らしい。もちろん、それもアルからの助言だ。一日に一度だけ地下牢へ赴き、黙秘を続けたい暗殺者から取り留めもない情報を絞り上げる。もはや僕は、彼らの血縁関係まで知りえていた。まるで雑巾みたいに、情報を絞り上げる度、暗殺者がくたびれていくように思えた。僕の福音に肉体的負担がある――ということではなく、軟禁という状況や、情報の開示という行為が、彼らの暗殺者としてのプライドを摩耗させているようだった。


 会議から一月が経過し、僕の肉体には、ささやかな変化が起き始めている。腹筋が縦に薄く割れ、力こぶが少し成長し、顎がややシャープになった。思った以上に得られぬ恩恵に、僕は少しのもどかしさを感じている。累積していく努力と、結果のイメージが乖離していく度に、虚しさが影を長く伸ばす。僕の背後に潜む黒が、早く結果を生み出せと追い立ててくる気がしていた。


「~~8、9、10。終了です。」――アルが手をパチンと合わせた。


 その声が聞こえた瞬間、僕は地べたに崩れ落ちる。既に5セットを終え、凄まじい疲労感が僕を蝕んでいる。初日は1セットで貧血を起こしたから、5セットという明確な数値は、達成感を与えてくれる。但し、それ以上の疲労感があり、逃げ出そうとする自分と毎日のように戦う必要があった。


 意識が混濁していくなか、僕は初日にアルから授けられた絶望的な助言について思い返していた。


「教皇様であるリース様には、致命的な弱点があります。」

「弱点?」

「はい。教皇様とは、その宗教の象徴でなくてはなりません。ルナ様は、とても優しく、平和を愛する神様であられます。そんなルナ様の代弁者となるべき教皇様が武装していたら、どう思いますか?」

「たとえ護身の為でも、少し首を傾げるかな。」

「その通りにございます。ですので、短期間で徒手格闘を修得して頂きます。七元徳が一つ、知恵流ですから、厳しい訓練になりますよ。」

「そ、そんなに極める必要あるのかな?」

「武装した敵を素手で完封するには、およそ2~3倍の力量が必要になります。福音を含めても、1.5倍は欲しいところですから、大いに極める必要があるのです。」


 彼女は、指で輪郭をなぞりながら、得意げに僕へ説明した。異世界リースは、彼女の心強い武闘派な一面を知らなかったみたいだ。短い期間とはいえ、彼女のことはある程度解ってきたけれど、どうにも本来の得意分野はメイド業務ではないようだ。


 とはいえ、ほとんどの時間はメイドであり、16年間がそんな彼女の一面を知らなくても何ら不自然ではない。アルの鍛錬は、僕が寝静まってから行われるらしい。


「そう言えば、もうすぐ【正義】が来ます。」

「えっと、七元徳の一人がってことだよね?」


 混濁する意識の中、アルが言葉という名の水を、僕の脳にかけてくれた。曖昧になった現実とのつなぎ目を何とか縫い直し、僕はアルの報告に耳を傾けた。


「えぇ、その通りです。あらかじめ情報収集をお願いしておきました。その報告とともに、新教皇様であられるリース様との謁見を希望しています。」

「もちろん会うのは構わないけど…。」


 ――と、僕は言葉尻を濁した。というのも、16年間に語り掛けても、異世界リースは何も答えてくれなかったのだ。一度だけ正義と会っているようだが、その際も挨拶だけで、会話すらもしたことが無いみたいだ。正義に関する事前情報は、無いに等しい状況だった。


 期待感と不安感をごちゃ混ぜにした擦りガラスみたいにぼやけた曖昧な感情の中、僕はトレーニングを続けるしかなかった。

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