第5話 10月1日

 夕食を咀嚼しながら、僕は思考にふけっていた。町中の小さなガラスケースで煙を吹かす愛煙家達のように、表情から感情が抜け落ちる。その様子は、洋服店のショウウィンドウに佇むマネキンのようであることを、内側にいる者達は知らない。ガラスという薄い境界線の内側には、色付きの煙が縦横無尽に動き回り、第三者的視線を毒殺している。僕の周りには、煙などないはずなのに、ショウウィンドウの中にいる愛煙家達のように、第三者的視点は死んでしまっていた。


「悩み事ですか?ぼっちゃま。」

「…え、あ…。」


 唐突にアルからかけられた声に意識が取られ、手に持っていたフォークが床に落ちていく。意外なほどゆっくりと動くフォークは、地面に着地するまでに幾度も回転していた。カチャリという音が僕の耳に入り込むと、ようやく意識が現実へと戻っていく。咄嗟にフォークを拾おうとすると、僕よりも先にアルが手を伸ばしていた。


 この世界での両親が死んでしまったから、この食堂には僕とアルしかいない。フォークへ手を伸ばす彼女を見ているようで、僕はこの広々とした空間を改めて実感していた。そこに悲哀は存在せず、ただ事実だけが床に落ちたフォークのようによこたわっている。アルは、フォークを拾い上げると静かに口を開いた。


「お二人のことは、残念に思います。ですが、お二人を思うあまり、ぼっちゃまが体調を崩してしまわれれば、それこそお二人を悲しませることになりますよ。」

「…あぁ、わかってるよ。」


 アルは、ショウウィンドウの外側から、僕の内側に悲しみを見出したようだ。両親が死んでから、まだ一週間と少ししか経っていないのだから、観察の結果というよりも推測に近いのかもしれない。恐らく、僕でも同じようにリースを心配しただろう。人の感情を推測するにあたり、外見的特徴よりも事前情報が勝ることは、何も珍しいことではない。


「実は、屋敷の外に出たくてね。」

「…残念ながら、それは出来ません。」


 率直に提案してみることにした。アルの返答は、大工が作る木造建築がごとく、僕の推測とずれがなかった。普通に考えれば、直近で両親が暗殺されている重要人物の外出など、認められるはずもない。アルは、余りに当たり前のことを言ったからか、例の癖が輪郭の上を通る。さながらメイドに注意をするような、感情の機微だったのかもしれない。


 余談だが、彼女は僕専属メイドのままだ。彼女への愛着というよりは、16年間が知らない情報を新たに受け入れることは、今の状況に適していない――と思い、僕から継続を提案した。しかし、元々その予定だったようで、ペルから「もちろんそのように致します」――と、返答されてしまった。両親の死という最悪を迎え入れた僕の側にいる人間は、なるべく僕との関係が深い人物であるように、ペルが気をつかってくれたのだと返答の後で気づいた。


 外出を提案した理由は、外の世界を観ることが、成長への重要なプロセスのように思えたからだった。殻にこもり、固まっているのは簡単なことだが、動くこともしなければ、当然のように成長の機会は遠のいてゆく。ベッドの上のミミズでいると、外から聞こえる子供たちの遊びまわる声が、僕を急かすような気がしてならない。子供という成長のシンボルが、まるで日光のように僕から日陰を奪うのだ。湿り気すらない焼けた大地にこそ、何故か成長がある。焼けた大地とは、人がその土地を食いつぶした代償であり、引き換えに成長を与えているのだ。では、湿った大地のどこに成長の機会があるのかというのが、目下の悩みだった。それこそ、湿っているだけではなく、種の一つでも埋まっていれば、後は豊かな土壌を養分に育つはずなのに、種も見つけることが出来ない。


 ふと、土の中を掘り返し、種の一つになりそうなことを思い出す。地下に暗殺者が幽閉されているはず。奴らを利用すれば、あるいは芽が出るのかもしれない。誰かを利用するのは気が引けるが、両親を殺した相手ともなれば、良心も呵責することなく、心温かく見送ってくれるはずだ。それこそ、本物の両親のように。僕は、早速アルへ声をかけた。


「暗殺者に会いたい。」

「何故ですか?」――驚いた顔で、アルが僕を見た。

「言いたくない。」

「まさか…復讐を?」

「いや、しないよ。しかるべき罰を受けるとしても、専門家に任せるべきだ」


 僕は、あえて椅子の向きを変え、アルの目を見て話すようにした。すると、彼女も僕の目を暫くジッと見つめ、それから溜息をつく。駄々をこねる子供をあやす母のように、どうするべきか考えているようだった。ねだられるままに菓子を買ってあげるべきなのか、拒絶を示し厳しさを教えるべきなのか、そのどちらを選べば子がもっとも成長するのか「我が子の為に」悩んでいる。僕の為にという前提のもと、ありもしない正解を導き出そうとする彼女は、とても信頼できる気がした。


「…わかりました。私も多少は無理を通せるようになりましたから、ぼっちゃまの望みと言う前提条件があれば、そうした場を用意することも可能です。」

「ありがとう。」


 一度会話が終わったように思えたが、いたずらを隠す子供のように、普段よりも感情をあらわにしつつ、アルがソワソワとしていた。何らかの覚悟を要するのか、一度だけ唾を飲み込むと、彼女はようやく口を開いた。


「ですが!その前に一つだけ確認させて下さい。…本当にあなたは、ぼっちゃまなのですか?失礼ながら、依然とは随分と変わっている気がいたします。」


 突然の核心をつく質問に、思わず言葉を失ってしまった。前世の16年という経験値だけでは、動揺を隠すことができなかった。僕の固まった表情を見たアルは、答えを聞く前に確信を得たようで、臨戦態勢へと移行してしまう。しかし、直ぐに攻撃を加えてくるようなこともなかった。


「とても不思議な感覚です。あなたがぼっちゃまであると、私の心が訴えかけてくるのです。ここであなたを捕縛すべきだという己が正義と、ぼっちゃまに対する愛情がせめぎ合っています。答えて下さい!あなたは何者なのですか!」


 端的に言って、彼女はとても辛そうだった。涙をためる憎悪と愛情を含む目を、敬愛と憎嫉をあべこべにして僕へ向けてくるのだ。その多くの感情を1ドット単位で表現する目が、僕に真実を告げるよう訴えかけてくる。初めて小夜のセックスを見たあの日を、何故か思い出してしまう。あの時、僕の心の中はぐちゃぐちゃだった。今のアルのように、愛情の中でもがき苦しむようなことはなかったが、少なくとも二つ以上の感情が、僕の価値観をぐしゃぐしゃに変質させていくのを感じていた。今のアルも、自分の中で育つ未知の感情に対して葛藤しているのかもしれなかった。真実を言ってしまえば、僕は拘束されるか、あるいは殺されてしまう可能性もある。それでも真実を与えれば、それをもとに彼女の中に新たな形が形成されるはずであり、確信もなく、その新たな形が僕を助けてくれる気がした。


「確かに、僕は「ぼっちゃま」…つまり「リース・ルナ・ネフィート」じゃない。でも、完全に別人かと言われれば、そうじゃないんだ。」

「…言っている意味がわかりません。」

「僕には、前世の記憶がある。正確には、16歳になった瞬間に、前世の記憶が目覚めたんだよ。それで、人格が前世のものになった。だから、僕はリースじゃないけど、同時にリースでもあるんだ。」

「…頭が…壊れそうです」


 アルは、臨戦態勢を解除してくれたが、調子が芳しくないようで、地面に膝をついてしまった。動悸も激しく、胸を揺らしながら深呼吸をしている。もうあべこべな感情を僕へぶつけることもなく、力なく床を見下ろしていた。僕は、彼女が会話ができる程度に回復するのを待った。もはや、夕食に当初の熱はないだろう。徐々に形成されていく彼女の新しい形も、熱が冷めれば固まってくれるはず。今は熱が発生して、一時的に彼女を苦しめているだけだ。ようやく息を整え、彼女は口を開いた。


「判断ができません。回答のない問題に挑んでいるようです。余りに…曖昧です。」

「僕もだよ。でも、明確なこともある。」

「…それは?」

「暗殺者の手が、僕へ迫っているということ。この危機を切り抜けるには、僕の成長が必要不可欠だ。僕の成長と、地下室が直結しているのなら、結論は一つだ。」

「確かに一理ありますね。あなたが殺されてしまえば、何かを選択する機会すら失ってしまうことになる。今の私にも、時間が必要です。この巨大な緊急事態を処理するには、私の脳は余りに矮小なようです。」


 迷いを振り払うように首を左右に振るうと、アルはようやく立ち上がった。それから僕をジッと見下ろし、指で自分の輪郭をなぞる。癖が出始めたのなら、普段の彼女を取り戻しつつあるということだろう。


「ですが、自分の感覚だけに従い、あなたの言葉を盲目に信じるには、教皇という立場は余りに危険です。丁度10年前の今日、何があったか覚えていますか?あなたの中には、ぼっちゃまの記憶も混在しているのですよね?」


 丁度十年前の今日、そんなに運命的なことがあり得るのかと思いつつ、僕は記憶の深海へ、ゆっくりと釣り針を垂らす。自分の記憶を辿る感覚というよりは、辞書をひくような感覚に近かった。その記憶がよほど大物だったのか、直ぐに釣り針へ大きな得物が食いついた。祈祷の間で、まだ幼いアルが同じく幼い僕に向けて、片膝をついていた。僕がマナを彼女へ振りかけると、血のように赤い液体へと変貌したマナが、彼女の輪郭をゆっくりとなぞる。赤い雫が目に入ろうとも、彼女が僕から目を逸らすことはなかった。


「そうか、丁度今日だったのか。リースは、毎年祝っていた。だから祝わない僕に違和感を覚えたんだ。彼は、いつも君へこの言葉をかける。「マナの祝福を君へ」――ここまで言えば、信じてもらえるかな?」

「…えぇ、信じます。」


 アルの輪郭を、人差し指の代わりに涙がなぞる。新たな形が形成され、それが彼女のなかで固着し始めているのかもしれない。もちろん、涙はリースへ向けられたものだろう。10年間という長い月日を、彼と過ごしてきたのだ。彼女を包み込む悲しみを計り知ることなどできない。時間が持つ価値は、誰かとの関係値に依存することが多い。あくる日の旅行の思い出も、誰かが横にいたからこそ、今を優しく照らしているのだ。彼女の涙の中には、記憶の中にだけ生きるリースがいる。一つ一つ零れる度に、小さな雫は食堂の床で寝転んだ。


「リース様。明朝、地下牢へ足を運べるよう手配いたします。」

「…うん、ありがとう。」


 僕は、呼び名が変わったことを、あえて指摘しなかった。新たな関係を作り上げることが、今の僕たちには必要だと思ったからだ。とにかく、今の僕には時間が必要なんだと、深く認識するいい機会だったのかもしれない。

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