第2話 解放


 文字通り、目が覚めた気分だった。眠りからの起床ではない。空に投げた紙飛行機が、思い通りにならず自分の足元に落ちた時のように、ふとそれは戻ってきたのだ。「それ」とは、僕の「記憶」。今日は、16歳の誕生日。丁度、地球で僕が死んでしまった時の年齢と重なる。今日と言う日が選ばれたのは、偶然なのか意図的なのか、僕には知るすべがない。両親の記憶のない子猫が、親猫を探すに等しいほどの無理難題なのだと思う。


 もちろん、この体が有する本来の16年間の記憶も、僕の中に同居している。幸福に満ち溢れるとても素晴らしい人生だった。母に愛され、父を尊び、理想の息子だったと言える。しかし、僕が「目覚めた」瞬間、僕と言うこれまでの16年間は、地球にいた彼に侵略されてしまったのだ。僕が僕であることを考えている今がある以上、「同居」という僕の表現は傲慢であり、「侵略」という言葉選びが適切だったように思える。かつての人類が、隣人を滅ぼすことで得てきた英知を、平和の中で風化させていたからこその失言だった。


 目覚めた時、僕はベッドの上に眠っていた。その質感だけで、地球の生活水準とは比べ物にならない程に裕福な家庭であることが理解できた。綿と羽毛では、藁と苔ほどに明確な違いがあるように、敏感な僕の体は、その小さな差を緻密に感じ取っていた。記憶を辿れば、直ぐに答えが見つかるはずだと言うのに、お気に入りのドラマの最終回を見ず、あえて泳がせておくように、何か変化が起きるまで、回答者を沈黙させる。この広大な装飾に満ち溢れる部屋を観察していれば、沈黙の時間などあっという間に過ぎて行ってしまった。


 コンコン――扉がノックされた。


「はい?」――僕は、扉の向こう側について、あえて知らないフリをした。

「アルにございます。ぼっちゃま。」――向こう側から、美しいソプラノが響いた。

「あぁ、どうぞ。」


 扉が開かれるのと、そこから入る風により彼女の綺麗な黒髪が揺れるのは、ほとんど同時の出来事だった。春風が運ぶ花の香りに近い匂いが、この部屋に充満する。それは不快感の一切を消し飛ばすほどの力を持ち、激高している獅子にですら静寂を与えるように思えた。良き香りは、目覚めの悪い者を強引に手なずけるには、もっとも有効な手段なのかもしれない。


 彼女は、「アル・エルアルド」。僕専属のメイドだ。


 清純さを絵にかいたかのような黒髪の女性で、朝ドラに出るような爽やかさと言うよりは、夜を冷血に守る門番のような印象を受ける。それは、厳しさと優しさを兼ね備える日本刀のような彼女の切れ長な瞳がもたらすのかもしれない。すらりと長い脚は、ロングスカートの腰の位置から察することができ、腰という情報源は、同時に彼女の全体的な均衡のとれた素晴らしいスタイルを、懇切丁寧に説明していた。一見して、非の打ち所がないメイドに思えるが、彼女には少し変わった癖がある。


「おやようございます。」――アルは、丁寧に深々とお辞儀をした。

「おはよう。」

「素晴らしい朝ですから、神様も良き目覚めかと。」――彼女は、笑みを浮かべる。

「…うん、かもしれないね。」

「それでは、祈祷へ向かいましょう」

「あぁ、わかった。」


 そう言うと、彼女は右手の人差し指を、右耳たぶの少し下くらいから、自分の輪郭をなぞるように顎まで動かした。車が坂道を下るように滑らかな動きだった指をピタリと停車させ、最後にワイパーが雨水を削ぎ落すように、指をピシャッと織り込む。作られたアルの拳という球体は、日に何度も目にすることになる。彼女の一連の癖は、真面目な勤務態度から生成されている。僕専属のメイド、つまるところ館の主人の息子のメイドとは、メイド長や副メイド長、それから父専属、母専属のメイドに続き、5番目に偉いメイドとなる。五番目とは、実に絶妙な数字であり、未だに彼女が僕だけに関することだけではなく、メイド本来の役割を果たさなければならない状況にあることを示している。但し、どちらかと言えば管理業務に近い。屋敷を歩き、窓枠を右手の人差し指で撫でる。埃が残っていれば、担当メイドを呼びつけ、淡々とその事実を告げる。指摘されたメイドは、彼女に必死に謝り、直ぐに掃除をやり直す。この屋敷で暮らしていた16年間の僕が、その光景を何度もダビングするように焼き直していたのが巡る。


 そんな清廉で清純で生真面目な彼女が、今日も満面の笑みで僕を見ている。その笑顔は、少しだけある目覚めの不快感を、いとも簡単に吹き飛ばしてしまう。そうして彼女の後に続き、自室には沈黙者のみを残し、回答者を連れ部屋を後にした。メイドが主人の前を歩くのは、この世界では別段変わった光景ではない。男ばかりが戦う地球とは、防衛に関する価値観が随分と異なるからだ。

 

 廊下は、羽田空港の通路のように、過剰なほど広い。建物は、白を基調としており、ルネッサンス時代の城を思わせる。等間隔に廊下の壁面に並ぶ柱のふくらみが、美しさを一段階上へ向上させている。その柔らかな輪郭は、なんとも女性的であり、無機質でありながら特有のなまめかしさを含んでいた。廊下には深紅の絨毯が敷かれ、無機質さを軽減させている。一歩踏み込むたびに、絨毯は僕の侵入を優しく受け入れてくれた。


 関心を引き連れて歩くこと5分程度、ようやく「祈祷の間」に到着。五分と言う距離は、地球の常識で言えば近所のコンビニまでの距離であり、自宅で完結できる長さではない。ここがもう地球ではないのだと、僕は改めて実感していた。


 広い天井には、大きな天窓があり、そこには我らが崇拝する女神:ルナを描いたステンドグラスがはまっている。彼女は、慈愛に満ち溢れる表情で、一人の少年の顎に手を伸ばしていた。色付きの窓ガラスを通し、彼女から差し込む光が、祈祷の間から現実感を剥奪している。ステンドグラスは、天井だけではなく、扉から見て正面の壁にもある。とても大きなそれは、同じく彼女を描いているが、天井の一コマとは違った姿でこちらを見下ろしていた。胸元で手を貝のように組み合わせ、何かに祈っているようだ。例えば、キリストも神の言葉を聞く神であったように、ルナもまた神の言葉を聞く神であり、神という名の大樹から零れる木の葉を、その手に握りしめているのかもしれない。


 ここにきて、ようやく僕はルナのように回答者の口から言葉を承ることにした。流石に地球の記憶には、この世界の神への祈祷の作法などない。単に手を合わせ、適当に数回お辞儀をするにしては、この祈祷の間は余りに豪勢だった。特に、これが自宅なのだから、自分が参拝客ではなく、より神の側にいる人間なのだとサルでも解る。


 正面にあるステンドグラス、その手前にはルナからみて横向きに長机がある。長机には、手のひらサイズの器を満たすように白い粉、同じく隣の器を満たす赤い粉が並んでいる。右手にある白い粉は、「遺灰」だ。これらは彼女が集める信者たちの遺灰であり、亡くなった信者の遺族が、我らが教会へ納める。


 第一段階として、手を合わせルナへ三十秒ほど祈りを捧げる。それから遺灰を右手で握りしめ、彼女へ払うように投げるのだ。地球の常識では、まずありえないほどの罰当たりな行動ではあるが、世界が変わるだけで文化とは随分と変容する。16年と言う長い月日が、空から降る膨大な雨を側溝が吸収してしまうように、僕から違和感を取り去っていた。更に、現実が地球を置き去りにする現象が起きる。


 少しだけステングラスが光ると、遺灰は青い炎を放ち、最後には花火のような火花を放ちつつ、完全に世界から抹消されてしまったのだ。そこには、夏の終わりに河原の空へ咲く花のような儚さがあった。その光景を目にすると、自然に涙が溢れる。これは16年がもたらした涙であり、僕の涙ではなかった。自分の意志を凌駕する肉体の反応とは、かくも不思議な感覚を僕へ与えていた。僕ではない――そう否定する自分の中に、その涙を心地良く感じる自分がいるのだ。自己陶酔に近い感覚が、敵対する矛盾感を優しくなだめている。違和感が消えていくのも時間の問題であるように感じられた。それは、16年間が育んだ記憶と言う名の落ち葉が、新たな僕という植物を育んでいく栄養素に感じられ、決して敵対すべきものではないと感覚的に理解しているからなのかもしれない。降り注ぐ雨を受け入れるのに、恐怖心などない。


 赤い粉は、「神の血」と言い伝えられる木の実「マナ」を乾燥させ、粉末状に加工したもの。そのまま「マナ」と呼ばれている。マナを左手で握り、今度は自分の頭頂部へ振りかける。すると、先程まで粉末状だったはずのそれは、ステンドグラスから差し込む光が強まるのと同時に、赤い水へと姿を変え、頭部から僕をなぞるように床へ流れる。赤い絨毯は、零れる水をスポンジのように吸い込んでしまった。赤い布を湿らすと、少しだけ濃い色合いに変わるはずだが、絨毯には何の変化もない。既に乾燥しているからだろう。とかく、この場に地球の常識は通用しない。


 最後にもう一度だけ祈りを捧げ、僕はアルへと振り返る。その時には、僕の体から水分の形跡は完全に抹消されている。水分が僕の何処へ吸収されたのか、その答えはまさしく神のみぞ知るのだろう。


「お疲れ様です、ぼっちゃま。」――朝のように、彼女はまたお辞儀をした。

「ありがとう。」

「では、お次は朝食にございます。」

「うん。」


 祈祷の間から食堂へは、ほとんど時間を必要としなかった。記憶を辿れば、神の側で食事をすることは、一日の祝福を身に宿す為に必要なことなんだそうだ。食堂は、廊下の横幅を増やし、天井から豪華なシャンデリアを下げている。中心には、祈祷の間と比べ物にならない程に豪華で大きな長机が設置されている。大理石を掘り抜き作られた机であり、触れるとひんやりと冷たいはずだ。だからこそ、大理石が持つ冷徹さを軽減させる為に、大きな布が被せてある。銃器をむき出しで保存せず、布で隠す理由と似ている。劣化を防ぐためだけではなく、銃器が持つ本来の力を使用者から隠す意味もある。明確に人を殺める役割を持つそれらは、常に人の側で人を見てはいけない。その黒い眼は、覗き込む先に恐怖だけを与えるからだ。


 既に、食堂には両親がいる。最初に父が、次に母が、そして僕が祈祷をする。家族全員の祈祷が終わるまでは、決して朝食を口にしない。宗教から得る教えは、そうした作法にまで行き届いていた。僕が席に着くと、両親が手を合わせる。お手ての皺と皺を丁寧に合わせるそれではなく、指先を織り込み貝を作り上げるのだ。全員が手を合わせると、暫く目をつぶった。


 祈りは口にせずとも、神が大きな手で掬いあげてくれる。そう信じているのだ。神へ祈ろうとも、何の救いもない地球とは違う。祈祷がもたらす超常現象、それは遺灰が放つ青い炎により、神がいる証拠を僕の目へ焼き付けていた。


 

 


 

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