自己嫌悪と夜

木兎太郎

自己嫌悪と夜

第一章:夜

第1話 自己嫌悪

 毎朝、僕よりも先に自己嫌悪から目を覚ます。叔父の家の裏にある雑木林、地面には苔が自生しており、まるで絨毯のようになっている。子供の頃、その絨毯を興味本位でめくると、沢山のミミズが蠢ていた。その姿は、ベッドの上で朝を嫌い、最後まで駄々をこねて抵抗している僕に酷似していた。


 朝だというのに、締め切られたカーテンのせいで、僕の部屋は薄暗かった。目が覚めて直ぐに朝日を浴びてしまうと、心地のいい眠気眼に強引に別れを告げているようで、僕はその時間がとても嫌いだった。朝日を受け入れるのと、見て見ぬフリをしている現実を受け入れるのは、とても似ているからなのかもしれない。


 リビングの机の上、その皿の上には、一枚の食パンが乗っている。平日の昼間の電車みたいに、スカスカな広い皿は、その周囲に沢山の空白を持ち合わせていた。空白の中に、一つの純白がある。目を通すと、それは「先に出ます」とだけ書かれた30センチくらいのチラシの裏紙だった。今時、新聞なんて取っているのは、母くらいなものだろう。


 母は、昔からとてもまじめな人で、不登校気味な僕のことを嫌っている。でも、強引に学校に行かせる訳でもなく、こうして自分のペースで何かを変えるのを、ひたすらに待っているのだ。僕が何かを変えようとすることが出来る人間なのだとしたら、最初から不登校になどなっていないだろう。厳密には不登校ではなく、週に一度のペースで深い沼を進むように、学校へ足を運んでいる。日差しに焼かれるのが先か、沼の中に沈んでゆくのが先か、学校へ足を運ぶたびに、僕は憂鬱と戦争をしている。僕の持つピストルでは、憂鬱の一人も殺せそうにない。憂鬱を殺すよりも、日差しや沼から逃れる方がずっと簡単だから、今日までの日常を意味もなく形成しているのだ。


 味気のない食パンを、ジャムもつけずに咀嚼していると、口内の水分のほとんどが食パンに食べられてしまった。食事は必ずしも能動的ではなく、受動的だったりもする。そのまま食パンが僕を食べつくしてくれたら、学校に行くか思案する必要もなくなると言うのに。今日も僕だけの暗殺者は、胃袋の中で鎮座することを選んだ。冷蔵庫にあるはずのお茶へ手を伸ばす気力もなく、適当に歯ブラシをして、適当に顔を洗って、適当に制服に着替え、適当に台所へより、適当に靴を履き、適当に扉を開け、適当に鍵を閉め、適当に外へ出た。


 日差しが僕の目を焼く。夏の終わりとはいえ、まだ随分と暑かったから、ブレザーには家で留守番をしてもらっている。空からも、地面からも熱が立ち上るから、遠くの景色が少しだけ歪んでしまっていた。ぼんやりと薄目で見た景色みたいで、僕が俯瞰から世界を見下ろしているのだと錯覚しそうになる。後ろから車がクラクションを鳴らさなかったら、歪む世界のはざまで、僕はいつまでも佇んでいただろう。一歩一歩を進める度に、灼熱と空間の歪みが、僕と学校を断絶しているように感じられた。


 下駄箱には、完成間近のジグゾーパズルほどの隙間もなく、今日日世界が健康であることを僕へ告げていた。こいつを蹴飛ばしてやったら、空白が増え、少しでも世界が僕へ近づいてくれるのかもしれない。僕が自分の手を汚し、強引に空白を増やしたところで、歯痛ほどのダメージしか与えられないというのに、その瞬間を手繰り寄せるべきか、下駄箱の前で少しの間だけ考えていた。


 教室へ向かうと、いくつものコロニーが、土のない蟻の巣みたいに日常を作り上げている。僕と母以外の声は、夏休みを挟んだから一月半ぶりだった。彼ら彼女らの触角に、僕の存在は引っかからないようで、忙しなく歩き回ることもなく、自らを守る関係性の中で、外の世界への探求心は失われてしまっている。


 先生は、頻繁に僕へこう質問する。「友達がいないからか?」――一週間ぶりに学校へ向かうと、決まって職員室へ呼び出され、もはや定型文ほどに聞きなれた会話を繰り広げる。心配というよりは、同情の色合いが強い先生の目を見るのは、とても苦痛だった。何度「違う」――と、否定しても、先生の結論を覆すことなどできず、決められた場所に嵌める為のピースを、僕へ要求しているみたいだった。僕よりも二倍近く生きているのにも関わず、他のピースを探せずにいる先生には、もう何の期待もしていなかった。あるいは、樹木のように年輪を重ねれば重ねる程、皮膚が頑強さを身に着け、内側の柔らかさを隠そうとするのかもしれない。柔らかければ簡単に壊れてしまうから、分厚い樹皮でそれを守っているのだ。今日が夏休み明けの初日でなければ、定型文的会話が繰り返されるのかもしれない。その時間が来ることに、僕はすこしだけの怯えを覚えていた。


 ガラガラ――教室の扉が開いた。黒い日誌を持ち、先生が教卓へ向かう。その迷いなき足取りは、聖人君主か、はたまたどこかの教祖かのように、僕らに己が自信を押し付けようとしているように思えた。先生が来ると、コロニーは散り散りに砕け、残酷な遊びをする子供のスコップが、巣へと挿入されたのではないかと思わせる。


 僕と先生の定型文みたいなホームルームを、窓際の席に陣取る僕の耳は受け付けず、只々窓の外へ思いをはせることを選ばせた。早々に帰宅を望んでいるのではなく、とある人物の来訪を心待ちにしているのだ。


 その人物は、僕が窓を眺めてから、数分後くらいに校門に現れた。夏休み明け、久しぶりに学校へ来ようと思った理由は、彼女にある。いや、彼女「だけ」にある。久しぶりに彼女を見たくて、意味もなく意味もない学校へ来たのだ。でもこの感情は、明確に恋ではない。言葉を選ばなければ、彼女を見るのは駅前に溜まるホームレスを見るのに似ていた。僕が佇む深淵は、彼女に比べればまだまだ浅く、ふとその気になれば浮上できる――彼女を見ると、そんな気が湧いてくるのだ。


 まるで夜を宿しているみたいに、彼女の体の所々には、大きな青あざがある。夏服は、そんな彼女の数多くの軌跡の隠ぺいを許さなかったみたいだ。もう少しの良識が彼女にあれば、あの沢山の夜を隠そうとするのかもしれない。でも人が空を隠せないように、彼女もまた夜を隠せない。夜から逃げるのであれば、隠すべきは自分の目であり、そうした生徒が大多数をしめる。ほとんどの教師が夜を嫌い、出来るだけ遠ざけようとする。大きな白い布の後ろに、強大なライトを照らせば、集まるのは夜ではなく虫だけ、教師の網の外に、彼女は漂っているように思えた。そうして彼女の体に増えていくだけの夜は、まるで世界から彼女が欠けていくみたいで、儚さと憂いの中にだけ、彼女の美しさを表現していたのだ。別段、特別容姿が整っているだとか、そういうわけではない。含む空気を晴れ着のように纏い、初めて彼女の存在は完結するのだ。


 彼女は、両親から酷い虐待を受けている。


 ホームルームが終わると、今日も僕は保険室へ向かった。体調は良好。保健室には入らない。その小さな窓から、中を覗くだけだ。それに、どちらにせよこの短い休み時間に、保健室は開いていない。養護教諭は、自分で用意した小さな窓を覆う為のカーテンが、完璧でないことに気付けづにいる。それか、この時間に生徒は来ないという絶対の自信があるのだろう。この学校は、珍しく男性の養護教諭を抱えており、そんな彼の下に、この時間に訪れる生徒がいる。彼女の名前は「小夜」。僕が教室の窓から目で追っていた子だ。


 いわゆる保健室登校であり、彼女の存在は教師たちにより、巧妙に生徒から遠ざけられていた。彼女から溢れ出す夜が、生徒の視界に触れないように、そっと。


 そうして、小夜は保健室でSEXをしている。


 保健室から、養護教諭の「大丈夫かい?」とか、「痛くはないかい?」とか、そういう声が聞こえてくる。窓からその光景を覗くと、養護教諭が優しく小夜を撫でながらも、彼女の体を汚していた。養護教諭の目には優しさなどなく、身の丈に余る性的快感という深海に、溺れてしまっているのは明らかだった。日常的に両親から暴力を振るわれ、逃れるために学校へ来れば、養護教諭の慰みものになる。小夜が繰り返す日常には、僕が繰り返す日常のような静けさなどなく、子供心に想いのまま描かれる秘密基地のような隠れ家もない。むき出しの夜は、朝日のもとで白日にさらされ、曖昧な時間に存在を揺らされている。


 だから僕は、保健室へ入った。偶然にも、鍵はかかっていなかった。


「だ、誰だ!!??」


 養護教諭が、僕を見て叫んだ。他の教員が来れば、困るのは彼の方だと言うのに、とても動揺しているみたいだった。そのまま僕は小夜へ近づき、彼女の手を引き、養護教諭から引きはがした。動揺と焦りからか、養護教諭の彼自身は、力なく俯いてしまっている。そこに先ほどまでの男らしさなどない。下半身むき出しの一人の男性でしかなく、ひたすらに震えるその体は、僕よりもどこか幼く思えた。それは、別に彼が全身脱毛をしていたからではないと思う。


 僕は、そのままカバンから包丁を取り出し、養護教諭を突き刺した。胸の下、少しだけ左側、手に移る彼の震えが、素早く一定のリズムを刻んでいる。ここが僕の目的地であり、迷路のように迷うこともなく、終着点を貫いているみたいだ。


「…あ、あぁァァァァァ…」


 僕が離れると、彼は直ぐに自分の胸元を確かめるように触る。手は大量の赤に包まれており、それが逆に現実感を奪っていた。僕は、笑っていたと思う。でも、僕よりも小夜の方が笑っていた。その瞬間、僕たちは同じだと確信できた。


 小夜の手を引いて、そのまま学校から離れる。僕も彼女も裸足だった。


 特に抵抗されることもなく、彼女は僕に手を引かれ続けていた。会話もなく、ひたすらに走り回る。まるで僕たちを捕まえようとするこの世界から、必死に逃げるみたいに。空だけが夜を要求できる、だから僕は走った。空に捕まらないように。


 それから一時間程走り、僕たちはトラックにはねられた。

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