三顧の礼

紫鳥コウ

三顧の礼

 竹林の奥から吹いてくる冷たい風が服の袖をなびかせ、円卓についた左手の爪の中に入りこんだ。その手の先では一匹の蟻が、群れから外れたのか、右往左往しながら帰る場所を探している。いや、帰る場所はあるのだ。ただ一緒に帰る仲間を探しているのだ。


 それは、先ほどから頬を右手に乗せて、腹の具合が悪いときのような晴れない表情をしながら、客人が去って行った竹林の小道を眺めている、諸葛亮の気持ちを代弁するに足りていた。とすると、去って行った客人というのは、なにを隠そうかの劉備である。そして附言するならば、この後代に名を残す軍師が劉備を帰らせたのは、これで二回目である。


 仲間に迎え入れたいという劉備の依頼を、あえて突っぱね、その度量を測ってみたものの、それは一度だけでよかったかもしれない。孤独に暮らす諸葛亮にとって、久々の来客である。あわよくば、この竹林のなかにひっそりと佇む一軒家から、平野に広がる都へと居を移すこともできたのである。


 天才軍師といえども、こうした、ひと同士の関係においては、我々となにも変わらないどころか、もしかしたら、我々の方がこのことについては長けているかもしれない。


 もう一度、劉備は現れるだろうかと不安に思った諸葛亮は、あえて劉備を悪人に仕立て上げて、かの紂王と同等の存在だと仮定して、妄想を繰り広げてみたが、天下統一への野望を熱心に語る劉備の表情の若々しさを回想すると、どうしても陰惨な物語を紡ぐことができない。


 先ほどから、あの一匹の蟻の状況は変わらない。が、それでも歩みを止めない姿を見ると、諸葛亮は、たちまち苛立ちを覚えてきた。親指の影に覆われた蟻は、ピタリと歩みを止めた。しかしながら、その蟻は動揺しない。諸葛亮の怒りは込みあげてくる一方だった。


 妄想において、劉備を悪人に仕立てあげることができなかった諸葛亮であるが、自らが妲己の如く酒池肉林に惑溺する悪辣さを引き受けることは容易であるらしかった。右手に頬を乗せたまま、自虐的な笑みを一瞬だけ浮かべた諸葛亮は、親指で蟻を潰そうとして、やはり思いとどまった。蟻を殺すような非道な真似をすれば、劉備はもう訪れてこないであろうと感じたらしい。


 今度は小道の方から冷たい風が吹いてきた。

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