第百三十六癖『花嫁来る、決戦の教会』
薄暗い部屋の中。ぴちょん、ぴちょんと蛇口から漏れる水滴が流し台の上に落ちる。
その音を聞きながら、私は盗んだドレスを抱えて蹲っていた。
「…………」
今の私は明らかに人らしい生き方をしていない。
いつもはこうして無気力でいるのに、不意に笑顔が浮かぶ。そうなると身体は勝手に動く。
買い物に出掛けたり、料理を作ったりと人らしい所作で生活を営むと、急に虚しくなってまた無気力状態に戻る。
あの出来事を経てからそれを繰り返している。端から見ればまるで操り人形のよう。
今は無気力の状態だ。でも、またいつどのタイミングで身体が動くのかは分からない。
笑顔になるのが──怖い。
だって次に笑ったら、あの時のように自分では無い何者かが私に人殺しをさせるに違いない。そう思い込むようになっていた。
「人、殺したのかな。本当に……私が……」
震える手を顔の前に持って凝視する。
いくら見てもただの手……だけど、私はこの手で人を殺している。
およそ一週間ほど前、私が街で暴れ出してしまった出来事。
そこで沢山の人たちを傷つけた。私自身の意思とは関係なく、何十人も。
「一体何なの? あなたは私をどうしたいの……?」
当時の光景を思い出しながら、腕の隙間から例の剣を一瞥。
今も段ボールの仮台座に突き刺さり、展示されるウェディングドレスさながら美しい形状を保っている。
今なら何となく分かる、あの剣の使い方。
青い花に触ると人は即死するし、刃部分だってどんなに浅い傷を付けても同じ効果を発揮する。
生き物を殺す力があの剣には備わっている。そして、私を操る謎の意識もだ。
これに私は操られている。いえ、乗っ取られているというのが正しいのかもしれない。
心の中に別の存在が住み着いているように、不意に何かを壊したいという気持ちが生まれ、気付いた時には身体がその意思に従って動いている。
そして、目の前で決まって起こるのが──殺人。
すでに私が知る限りでは数え切れないほど手に掛けてしまっている。
ドレスショップの店員、借金取りの男たち、そして先日の無差別テロ同然の行動────
もう私は詐欺の被害者じゃない。きっと端から見れば八つ当たりで人を殺しまくるモンスターだ。
人の死が幸せなんて、そんな考えが思い浮かぶ私は狂っている……!
「誰か……助けて……」
無気力状態と言う名の正気。誰に届くはずもない言葉を呟いた。
そんな時、誰からも返ってくることのないはずの部屋に、スコン、という音が鳴った。
「……! 何の音? ポスト?」
音の正体はすぐに気付く。ドアに付いているポスト口に何かを入れられた音だということを。
チラシも新聞も私は取っていないし、ネットで何かしらを注文した覚えだってない。
どこかの金融から催促の手紙でも来たのかな。最近はあんまり来てなかったけど。
妙に気になった私は、無気力に満ちた身体で玄関へと向かう。
「これは……差出人が書いてない。一体誰からの手紙なの……?」
ポストの取り出し口に入っている手紙。少なくとも金融機関などの物では無い。
むしろそれはどこか古風というか、まるで海外のドラマに出てくるような蝋印が押されたオシャレな雰囲気のある手紙だった。
封筒でもはがきでもない形式の手紙なんて、私初めて貰った…………いや、違う。
「昔、貰ったことがある。親戚のお姉さんの……結婚式の招待状。確かこういう感じの手紙だった……!」
ここでふと記憶がフラッシュバックする。
子供の頃、私が生まれて初めて結婚という概念に触れた思い出。
私を含めた大勢の人たちが式の主役である新郎新婦を祝福していた。
煌びやかな結婚式場、豪勢な料理、感動的なスピーチ。そして主役二人の誓いのキス。
綺麗なウェディングドレスで式場を歩く姿は、二十年近く経った今になってもなおまぶたの裏に焼き付いているほど。
あの時のことは全て当時の私にとってこれ以上無いくらいの衝撃的な出来事。
その結婚式に参加した経験が今の私を形作る基盤になったと言っても過言ではない。
沢山の人から幸せになる私を祝福してもらいたい、それに強く憧れていたんだ。
「……っ!」
一瞬だが印象深い記憶を思い出し終えると、私はその場で手紙の封を切る。
焦りと期待。一体これには何が書かれているのか。
もしこれでただの無関係な内容だったら虚しいものはない。でもそんな肩を落とすような結果になるとは思えなかった。
何しろ私はあの時のことを覚えている。街中で暴れ出した私を止めに来た人たちのことを。
そこであの女性は約束してくれた。私の、最愛の婚約者を────
「こ、これは……」
薄暗い部屋の中でも可読性に問題は無い。
恐る恐る便箋に書かれている文字数がそう多いとは言えない文章を読み解く。
『親愛なるあやめへ。明日の午後十八時、いつかに二人で見に行った教会で待っています。そこでもう一度、お話をしましょう。 上出院幸介より』
「あ、ああ……。まさか、そんな…………!?」
手紙を読んだ私は思わず自分の目を疑った。
文末に書かれた名前。それはまさしく目の前から消え去ったはずの婚約者の名前だったからだ。
筆跡だって間違いない。少し丸みを帯びた可愛らしい書き方は本人の文字と酷似している。
本当に……本当に見つけ出してくれるなんて。こんな奇跡、起こるなんて思わなかった。
この内容は無気力だった身体に大きな衝撃をもたらす。数歩後ずさってそのままへたり込んでしまうほどに。
私にとってあの人からの応答はそれほどのリアクションをせざるを得ないレベルの事態だ。
「幸介さん……幸介さん幸介さん幸介さん! 良かった、やっとまた会える……!」
あれ以降、正気を取り戻している時の私は何度も繰り返し考えていることがある。
それはあの人たちが約束を守るとは思えないということ。
当時の約束は正気じゃ無い私の暴走を抑制するための嘘だって、内心うっすらと思っていた。
でもほんの僅かな期待感に賭けて今日まで大人しくしてきた。正気じゃ無い時でも殺人行動に駆られなかったのはそれが一因だと思う。
このまま何も変わらず時間だけ過ぎるのを待つだけかと半ば諦めかけていた今、まさか期待通りの成果を出すだけでなく、手紙まで寄越させるなんて!
こんなに嬉しいことはない。向こうから……あの人がもう一度私との会話を望んでいるという事実が私の心を震わせる。
「ふふ、ふふふふ。明日あの場所に行けば、また……!」
嬉しさと感動、そして期待。それらの感情が満ちていくのを実感する。
無気力状態だった身体は今、猛烈に漲っている。
たった数行にも満たない文章で綴られた再会の約束に、歳不相応に興奮を抑えきれない。
「ああ、今度こそ……今度こそあなたを、死逢わせにしてあげなくちゃ……!!」
この時の私は強い喜びのせいで、心のどこかから湧き出るあの別人格にもう一度支配されたことに──気付くことが出来なかった。
†
我妻あやめさんとの約束の日、当日────
日本支部はこの日、慌ただしく動いていた。
理由は言わずもがな、作戦のリハーサル及び最終準備に取りかかっているからである。
「よし、改めて訊くが作戦の内容は頭に叩き込めたな?」
「一応……。ねぇ、マジで俺が行かなきゃだめ?」
「今回はコミュニケーション能力もある程度必要になる。お前に白羽の矢が立つのも当然だろう」
本作戦における重要な役割を、俺こと焔衣兼人が任されるという異例の出来事に戸惑うばかり。
曰くコミュ力と口の堅さを必須とする以上、その両方をそれなりに兼ね備える人物が適任……というわけで俺が選ばれたらしい。
アルヴィナさんに話しかける時もそうだったが、確かに俺は人との会話を苦と思わない。
でもかつてはコミュニケーションを拒んでいた時期を経たことのある人間だ。
それを多少なりとも知っている閃理から直々に指名を受けてしまうだなんてな。
果たして俺を選ぶという選択は正しいのか。肝心な時にヘマしがちな俺のせいで失敗とかしたら……。
「大丈夫よ。いざという時はまた私が守るわ。作戦通り隣に居れば良いから」
「う、ありがとうございます。あぁでも緊張するなぁ……」
不安になる俺だが、その横で励ましの言葉をかけるのはアルヴィナさん当人。
本作戦において最も重要なポジションにいるだけに当然の人選だ。
この人がいなければ死を覚悟した上でのごり押しという危険な作戦で我妻さんと対峙しなければならなくなる。
権能の抑制という特殊な封印方法だからこそ、お互いに傷つけ合うことを最小限にまで減らすことを可能とするんだ。
少なくとも剣士側の心配はない。俺の役目はあくまでも元婚約者の男を守ることだからな。
「目標が予定より早く到着する可能性もある。こちらも早めに現場へ行くぞ」
「囮役の方の準備は大丈夫かしら?」
「問題ない。奴は頼才が仕立てた服に袖を通している頃だろう。ついでに迎えに行くぞ」
目標の動きを警戒するのも含め、予定を少し繰り上げて待機場所に移動する。
勿論現場に行くのは俺たちだけじゃない。今回の大事な囮役にも来てもらう。
支部内を徒歩で移動。開放された一室に入ると、そこにその人物はいる。
「…………はぁ」
「どうやら着替えは済んでいるようだな」
「あら、来たってことはもう時間かしら?」
中には頼才さんを含めたスタッフ数名と、白いタキシードを来た男が椅子に腰を落として項垂れていた。
囮役を務める詐山優咲……いや、今は上出院幸介として準備を完了しているようだった。
「詐山、作戦の内容は頭に入れているな。我妻あやめを可能な限り無傷で確保するにはお前の話術が重要になってくる。抜かるなよ」
「はぁ……はいはい、分かってますよ。そう心配しなくてもいいですから」
作戦内容を覚えたかの確認をすると、詐山は気怠げに答える。
それにしても表情がなんだか優れない。まぁ相手にするのはかつて詐欺した相手な上に、その人が殺しにかかるんだからそうもなるか。
「そのタキシードには権能による即死に対しある程度の耐性を付与している。頼才、こいつは何回ほど耐えられる?」
「理論上では三回までは確実に耐えられるわ。でも服自体の耐久力は普通のタキシードと変わらないから、過信は禁物よ」
「三回か……」
詐山が着用しているタキシードは、頼才さんが錬金術を施した一品だ。
俺たちが装備する
身代装甲自体が試作品の域を出ない代物とはいえ、それでも即席でここまでの性能の服を用意出来たのは凄いことである。
「では最後の確認も終えたことだから、そろそろ出発するぞ。再三訊くが問題ないな?」
「ええ。勿論よ」
「緊張してるけど、まぁ何とかなるでしょ」
「…………」
囮役の確認を済ませると、今度こそ出発する。
俺とアルヴィナさん。そして無言の返事をした詐山を連れて車で移動。
空間跳躍を用いて道のりをショートカット。到着した先は厳かな教会だ。
暢気なこと考えている場合じゃないけど、俺初めてこういう所に来たわ。
ここは今回のために所有団体から特権課を介して使うよう許可を取ったとのこと。
そして、何故舞台が教会なのかというと────
「この教会……いや、チャペルと呼ぶのが正確か。この場所は我妻あやめと詐山が式場の候補に挙げていた場所だ。もっとも、それは叶うことはなかったがな」
「今その情報はいらないだろ……」
「知ってたけど最低だわこの人」
閃理の毒づいた豆知識に不満げな顔をさらに渋らせる詐山。
確保に協力しているとはいえ、やはり悪人だな。
当時のことをあまり掘り返してほしくないとは思っているらしい。
我妻さんがああなったのも、詐山自身がこんなことに協力せざるを得なくなっているのもほぼ全部自分のせい。不満を口にする権利は無いんだなこれが。
それはそれとして、この教会風の内装をした
今回の作戦を開始するにあたり、いくつかの条件が揃った場所を探す必要があった。
それは目標が到着可能な範囲にある人気の少ない場所というもの。
即死の権能を宿した花弁が拡散すると甚大な被害が出るのは先日の件で証明されている。
前回と同じ轍を踏むわけにはいかないため、閉鎖空間に誘導する案を廻警部が提案した。
元婚約者の立場である以上、詐山から聞き出した情報を元にこの教会を選んだというわけだ。
目標の誘導も元婚約者からの再会を望む手紙という形で思い出の場所に誘い込めば楽になる。体力の消耗も狙えるおまけ付き。
被害低減と誘導を一度に両立させるまさに一石二鳥。流石に冴えてるぜ、特権課。
「俺や廻警部などの一部の剣士はチャペルの側で待機している。目標が近付いてきた際は
「分かったわ。もしもの時はお願いするわね」
目標の確保と無力化を行うのは俺とアルヴィナさんの二人だけだが、何も本当に俺たちのみというわけではない。
教会の近くには他の剣士たちも集まる予定であり、作戦の失敗などの理由によって想定していた通りの動きが出来なくなってしまった時用に出てきてもらう。
可能な限り身も心も無傷の状態で事態を収めるのがベストだが、それは理想論。
強硬手段で取り押さえることも視野に入れなければこの暴走を止めることは出来ないんだ。
「では俺は戻る。二人とも、頼んだぞ」
そう言って閃理は教会から出た。
文字通りここからが本番。向こうから連絡が来るまで待機することになる。
時間にしておよそ二時間。時の流れが異様に長く感じる静寂さの中で、突如として声が響く。
【──目標が近付いてきたよぉ】
「……来た。焔衣くん、詐山さん。用意はいいかしら?」
「はい、俺は大丈夫です」
「え? な、あいつがもう近くに来たのか……!?」
報せが耳に届いたのは俺とアルヴィナさんだけのようで、突然のスタンバイに詐山は困惑の表情を浮かべていた。
まぁ
何はともあれちんたらとする暇はない。予め決めていた定位置につき、花嫁の来場に備えるとする。
元婚約者の男が見つかってからというものの、トントン拍子でここまで事を進めることが出来た。
禁忌の聖癖剣を再度協会の管理下に置き直す──そのために多くの組織が関わっている。
日本支部を中心にロシアのモスクワ支部。特権課を含む警察組織に加え、少しだけ闇の聖癖剣使いも協力し、事態の鎮圧に貢献してくれた。
仮にもここで止められなければ、俺たちの努力虚しく全滅したら、日本には隠蔽不可能のジェノサイドが発生してしまう。
そうなったが最後、闇側が
バッドエンドの先にあるのは更なるデッドエンド。無論、そうさせるつもりは毛頭無い。
【──目標は敷地内に入ったよっ】
【──教会の中に入るまで、あと──】
続報。
この時点ですでに教会の入り口の前に立っていると言っても過言じゃない。最早居ないと言う方がおかしいだろう。
【──さん、にぃー】
【──いちっ】
カウントが進むごとに俺たちの間に走る緊張の糸が張り詰める。
そして最後の一つを数えた時──教会の扉を開ける音が鳴り響いた。
寸分の狂いのない完璧なタイミング。俺は視線に気付かれないよう顔を僅かずつ動かして後方を見やる。
白いウェディングドレスに身を包んだ花嫁の姿。
スカートの裾がほつれているが、そんなことなど気にしていないかのように笑顔を浮かべている。
「……やっと、やっと会えた。幸介さん……!!」
ついにお出ましだ。本気の──今一番強力な状態となった“死の聖癖剣士”のな
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