第十一部『満ちる死逢せ、白闇が拒む』
第百二十一癖『死せる剣見初める、嘆きの花嫁』
世間は夏場の事情に追われている中、俺は先月に起きた事件で目の当たりにしてしまった現象について今なお思い悩んでいた。
「……ふむ。やはりあの現象は普通ではないな。何故焔衣の剣は
物だらけの自室にてあの日に見た光景をリフレインさせる。
俺が気になっていること。それは
通常であればそれはあり得ないことだ。
聖癖剣とて権能による変化は受けてしまうものであり、大なり小なり影響は出るのが普通。
勿論権能の影響を回避する方法はいくらでもあるのだが、無対策であるにも関わらず影響を受けなかったことはどう考えても普通とは言えない。
それも一度ではなく二度も。最初の邂逅時の暴露撃も直撃していたに違いない。
剣に宿る自我が仮初めの人格を受け付けなかったのは当然として、肉体も拒絶出来たのは何故か。
技も使えていた点を鑑みるに支配すらされていなかったのは明白。
このことから無対策の状態で権能を完全に無効化したのが分かる。だからこそ異常なのだ。
「俺に集められる限りの資料を集めても理由が判明しないとはな。
【──分かんないよぉ】
【──原因不明だよっ】
「……やはり駄目か」
俺の考えに自ずと解答やヒントを出してくれる
あらゆる情報を得ることが可能な権能にさえ掴めないとなると、未知の情報である可能性も考えられる。確率として相当低いがな。
集めた資料を漁っても関連する情報は既知の物ばかりで収穫は無いに等しい。
この通り俺の疑問は現状手の届く範囲の知識では一切解決に繋がらないことが判明している。
実に不可解だ。この謎を解き明かしたくても解決には至らない無力感に苛まれている。
「……やはり知っているのはあの方たちだけか」
不満が心の中で強まるのを感じるが、実を言うと俺の疑問に対する答えを知る者たちがいる。
何しろ第一班にはその内の一人が在籍……もとい住み込みで働いており、当然それを聞きたださないわけがない。
だが結論を言うと得られた情報はほんの僅かなもので、満足行く結果とはならなかった。
その一部始終を少しばかり思い出そう。
†
「メイディさん。お時間よろしいでしょうか」
「分かりました。では少々お待ちください。もう間もなく仕込みは終わりますので」
絵之本の荷物を支部へと送り返した後、俺はメイディさんに相談を持ちかけた。
内容は当然焔衣の剣について。500年も生きる始まりの聖癖剣士ならば何か知っているのではないかという淡い期待を込めての行動である。
「お待たせ致しました。どのようなご用件でしょうか?」
「ありがとうございます。折り入ってお訪ねしたいことがありまして、昼間のことなのですが……」
仕事が終わるのを待つこと数分。作業の手を止めて時間を割いてくれたことに感謝しつつ、応接間にて当時の状況を詳細に説明する。
無言でそれを聞くメイディさん。全てを話し終えるのに数分かけつつ、最後にこう締める。
「
粗方の話を聞き終えると沈黙するメイディさん。
長いとも短いとも言える絶妙な静けさを保ちながら、その口が開く。
「閃理様の疑問は概ね把握しました。また以前と同じく好奇心に突き動かされているのでしょう?」
「恥ずかしながら、どうしても気になってしまいまして……。始まりの聖癖剣士であるあなたならば、何か分かるのではないかと考えた所存です」
俺の真意はあっさりと看破されてしまう。確かにこの行動も全て興味で行っているだけに過ぎない。
ただ、別に隠しているわけではないから知られたところで何ともないが。
そんな俺個人の考えなどどうだっていい。今大事なのは真相を知るかもしれない人物から話を聞き出せるか否か。
悶々と悩み続けるよりかはダメ元でも聞きに行くのが多少はマシというもの。だからこうして行動してるのだ。
「では結論を言いますと、
「やはり……! では、それをお教えいただくことは可能でしょうか……!?」
ビンゴだ。やはりメイディさんは
流石は始まりの聖癖剣士。予想を裏切らない知識量に思わず感服する。
だが、裏切らないのは予想だけだったのだが。
「しかし申し訳ありませんが、詳細についてのご説明は控えさせていただきます」
「なっ……!?」
返答はまさかの回答拒否。メイディさんは俺に
これは……何ということだ。いや、前回の件も同じようにされているためあり得ないことではなかったが、まさか二度もお預けにされるとは。
不服な気持ちになるが、無闇にそれを表情には出さない。しかし、それでも理由を訊ねていく。
「その理由をお聞きしても……?」
「はい。前回同様、焔巫女様のご命令というのもありますが、この件ばかりはマスターソードマンと賢神様から直々に口外を禁じられております。そのため、私の一存ではお教え出来ないのです」
「マスターに賢神まで……」
理由の解説には俺の予想を上回る人物の存在が引っ張り出されてきた。
まさか組織のツートップが絡んでいるとは。その二人が直々に止めているとなると、相当な理由を孕んでいることは間違いない。
これはつまり、
しかし、いくら元とはいえ十聖剣にそのような話があると聞いたことは一度もない。
まさかとは思うが、焔衣自身はそのことを知っているのだろうか? 後継者にのみ教えられる
「念のためもう一つお聞きしますが、その理由について焔衣は知っているのでしょうか?」
「いいえ、ご主人様には今回の件に関するお話はしておりません。もし仮に件のことを訊ねられた際は全て偶然にも連続で攻撃を外した、そういうことも稀にあるとご説明する予定です」
そうか……正直なところそれは意外だった。
焔衣にも擬人化が不発となった理由について一切の説明をしていないという。しかも、その件を訊ねられても誤魔化すつもりでいるらしい。
所有者本人にも言えない秘密、というわけか。
本当に知られてはいけない話なのだろう。秘匿にマスターたちが関わっている以上、詳細を知ることは不可能なのかもしれないな。
「分かりました。仕事中にこのような愚問にお答えするために時間を割いていただき感謝します」
「いいえ、私としてもお教え出来ないのが残念です。本来であれば閃理様ほどの人物であればお話しても問題はないはずですから」
今回の質疑に応えてくれたメイディさんに感謝の言葉を述べつつ、俺は部屋を後にしようとする。
前回と同様に非常に残念な気分ではあるが、機密に触れるというのであれば慎まなければ。
そんな思いの中で去ろうとした時──唯一の情報がもたらされることとなる。
「これは私の独り言ではありますが──ご主人様は
「……! ありがとうございます」
去り際の背中に語られた新情報。それが何かしらのヒントであることはすぐに見抜く。
情報を咀嚼するのは後回しにし、俺は二度目の感謝を口にしてから応接間を後にした。
†
……以上がメイディさんとの会話である。
結局のところ最後に教えられた情報も焔衣自身の身体的差の話でしかないのは
確かに焔衣は以前背中に傷を負った時、全治一週間はかかるはずの怪我を四日程度で治したことがある。
しかし人の回復能力には個人差があるわけで、ましてや治療に聖癖の力を使っていたのだから短期間での治癒も不可能ではない。だからその時はあえて気にしないでいた。
真相を明らかにするヒントになっているのか、あるいは調査を撹乱させる無関係な話なのかは依然として分からないままだが。
資料には載っておらず、
詰まるところこれ以上の調査手段を今の俺は持ち合わせていないということだ。
「マスターや賢神に直接訊ねるなど出来るはずもないから、やはり諦めるのが最善か。実に残念だ」
打てる手が無いことが確定してしまっている以上、もうこの件に首を突っ込むのは止めるべきだと理解はしている。
ただ、聖癖剣士の歴史という世間に秘匿された知識を知る喜びは計り知れない。
俺が世界中の支部を転々と異動する特命を担ったのは、世界各地の聖癖剣にまつわる歴史を学びたいと考えたのが理由の一つだからな。
日本支部の歴史の中で最も興味をそそられたのは、経歴の多くが白紙化されている伝説の剣士、先代炎熱の聖癖剣士に関する歴史。
マスターに膝を突かせたという逸話、旧体制時代の闇の聖癖剣使いを壊滅させた実績。名実共に今もなお世界最強と謳われるほどの実力者だ。
そんな創作の中でしか描けないような偉業を達成した人物がかつて実在していたという事実。それこそ歴史を知るに相応しいというもの。
まさかその末裔が俺の部下にいたことには正直驚いたがな。おまけに始まりの聖癖剣士との邂逅、判明する
今まではなるべく表に出さないようにしてきたが、ここまで新情報のラッシュが続くとこの興奮も隠しきれないというもの。
歴史家を名乗るつもりはないにせよ、隠された秘密を知る千載一遇のチャンスを易々と逃したくない……そんな欲望が今の俺にはあるのだ。
「とはいえ少しばかり俺も頭を冷やす必要があるな。目先の情報に囚われすぎてしまうのは良いことではない。今しばらくの間は詮索は控えておこう」
しかし俺とて三十路に迫る年齢だ。善悪を弁えることは造作もないし、何より稚拙な言動をするほど若さを自覚しているわけでもない。
目の前の欲に囚われると足下を掬われると幼い頃に賢神から言われている。
自制こそが今の俺が出来る最善の行動だろう。そこを忘れてはいけない。
「確かアイスが冷蔵庫に残っていたな。それでも食べて落ち着──」
【──アイスは全部食べられちゃってるよぉ】
【──犯人はメラニーのお姉ちゃんだよっ】
「あいつ……。またか」
が、ここで予想に容易いことが起きていることを知る。メルの奴がまたも盗み食いをしたらしい。
何故ばれると分かって同じ事を繰り返す……。しかも全部は流石に食い過ぎだぞ。
いつものことだと言えばそうとしか言い返せないのも事実ではあるが、メイディさんが来てからは目に見えて頻度が落ちていただけに油断していたな。
「仕方ない。注意しに行くか」
あいつが盗み食いなどをしたら一応は叱ってやることにしている。それでも結局同じ事を繰り返すが、しばらくは控えるためやらない理由は無い。
逃げられる前に足早に移動。ダイニングルームに到着すると、すぐに扉を開ける。
「メル、また盗み食いか。いい加減その癖を直したら──」
「せ、閃理ィー!
「いけませんよメラニー様。外部に助けを求めるなど言語道断。盗み食いを働いた分の罰はしっかりと受けていただきます」
扉を開けた瞬間、飛び込んできた光景に思わず口が噤まさる。
本来は皆で食事を囲むはずの空間は、今まさにメイディさんによる見事なまでのコブラツイストが炸裂するプロレス会場と化していた。
メルも格闘技にはそれなりに精通している方なのだが、様子を見る限り抜け出すこともままならないようだ。完璧に技が決まっている。
因果応報とはまさにこのこと。悪いがメル、俺はお前の味方にはなれないぞ。
「お前は本当に怖い物知らずだな。メイディさんの前で盗み食いなどと……」
「
「何でもと仰るのでしたら、盗み食いなどというはしたない行為は二度としないとお約束出来ますね?」
「すル! もうしないから離しテ~!」
妹分の蛮勇さ加減は尊敬出来る。当然悪い意味で。
そう呟いている間に無謀な約束を取り付けることによって拘束から解放されたようだ。
ふらふらとその場に数歩進むと、ばたりと倒れ込んでしまう。この様子だと相当キツく締め上げられていたようだな。
「身体痛イ……。メイディ、もっと加減して……」
「先ほど金輪際盗み食いをしないと誓ったのですから、同じ目に遭うことはありませんよ。もっとも、また繰り返したのであれば今の物より強烈なお仕置きを受けていただくことにはなりますが」
「もー、ヤダ~……!」
この宣告には流石のメルも震え上がる。逃げるようにダイニングルームから出て行ってしまった。
まぁ、これで少しは懲りただろう。しばらくは盗み食いなどの行為は控えるはずだ。
「手を煩わせるようなことをさせてしまい申し訳ありませんメイディさん。メルの手癖には俺も焔衣も困らされていたもので、あれくらい言ってもらえて助かります」
「いいえ、お気になさらずとも結構ですよ。それに、あれくらい手を焼かせる方が可愛いらしいというもの。むしろ嬉しく思っているくらいですから」
俺はここにはいない同じ盗み食いの被害者でもある焔衣の分と併せて今回の非礼について詫びを入れる。
本人はそこまで気にしている様子ではなさそうだが、迷惑をかけてしまったことに変わりはない。誠意を持って頭を下げた。
メルには後で俺からも一言注意しに行くか。メイディさんだけに怒らせても悪いからな。
部下の粗相を叱るのも上司として大事なことだ。
「閃理様はどのようなご用件でこちらへ?」
「あ、ああ。俺は仕事の合間にアイスでもと思って来たんです。そうしたらメルの盗み食いを
メルの件は一旦横に置き、俺がここへ来た理由を訊ねられた。
嘘をつく理由もないので俺は素直に説明をする。もっともアイスが全て食われたことは承知の上だが。
「そういうことでしたか。ですが冷凍庫の冷菓は全て食べられてしまったので在庫は……。申し訳ありません。もう少し早く気付けていればこのようなことには……」
案の定謝罪を入れるメイディさん。アイスを切らしてしまったのは
移動拠点内は外とは違い気温は一定であるから暑くて居苦しいということはないのが幸いだな。
仕方ない。ここは潔くアイスは諦めて冷たいドリンクでも──
「その代わりというのもなんですが、私お手製の冷菓をご用意致しました。生乳100パーセントのミルクアイスクリームでございます。こちらをどうぞ」
「そ、そうですか。ではありがたく……」
不意に手渡されるのはひんやりと冷たい容器。中に入っているのは純白のアイスクリームで、ご丁寧にスプーンまで付いている。
勿論こうなることも予想済み。準備が良すぎると一周回って驚きすら生まれないな。
ここ数週間でこの方がどのような人物なのかも分かりつつある。
剣にまつわる知識の豊富さもそうだが、何より未来予知レベルの手際の良さは特に目立つ。
察知や推測だけの
もっとも本人の気性から頼まれなければしなさそうではあるが。
「そろそろご主人様のおつかいが終わる頃合いでしょう。私はお迎えに向かいますので、少々席を外させていただきます。食べ終えた容器はそのままシンクへ置いておくだけで結構ですので」
「お気遣い感謝します」
そう言うとメイディさんは空間跳躍の権能を使い、遠くの店舗に送り届けていた焔衣を連れ戻しに消えていった。
……こんなことを考えてしまうのも本人たちに対して失礼なことだと承知の上だが、焔衣の手伝いなどあの方にとっては不必要なことかもしれん。
今まで第一班の家事全般を焔衣が担っていたが、メイディさんが来てからはそれらを行う必要が一切無くなったからな。
そういった点でも人間離れ──いや、本当に人間を辞めている存在なのだと
「……! これは、なんて美味なアイスだ。ここまで美味な物は初めて食べるぞ……!?」
渡されたアイスを一口食べると、その味に思わず驚愕してしまった。
文字通り溶けるような滑らかな舌触り。舌全体を包み込むミルク感はしつこくなく、それでいて甘すぎず……ううむ、なんだ? 良い例えが見つからない!
俺も世界中を異動しながら美食を嗜んで来た男。特に甘味に対しては人一倍厳しいつもりでいる。
しかし、俺の舌をこのアイスは一口で唸らせた。これが500年生きる者が作り出す味なのか……!?
今になって始まったことではないが知識や技術だけでなく、料理の腕さえも想像を簡単に超えてくるな。
「…………」
「……メル、お前はもう十分食べただろう? これ以上は流石に太るぞ」
だがここで良くない者の存在を察知。つい先ほど部屋から出ていったばかりのメルがメイディさんの存在の消失に感付いてか戻ってきたようだ。
飢えた獣のような羨みの視線を俺に……正確にはアイスに向けられている。
こいつめ……。まだ懲りてはいなさそうだ。
「メル太らないもン……」
「お前もいい加減懲りろ。あの方がいる以上、もうこれまでのようにはならない。諦めて普通の食生活に直すんだ」
「そんなの出来たら苦労しなイ。メルはまだ半分昔のままだもン……」
言い訳として引っ張り出すのはやはりそれか。何度も耳にした話だな。
浮浪児時代はひもじい思いをしながら暮らしてきたことは知っている。メル自身の悪癖である盗み食いもそれに由来することだというのもな。
だがあいつも立派な大人。そろそろ精神面も成長して欲しいものだ。
「我慢と節制を覚えろ。嫌だと言い張ってもお前は大人だ。心も大人としての自覚を持て」
「うわーん、閃理がいじめル~……。……チラッ」
「バカめ、嘘泣きが俺に効くか」
「チッ。いいもン。閃理の部屋にあるスケベな本、焔衣に見せてドン引きさせるかラ!」
そう言い捨てて再び立ち去るメル。
普通なら焦って後を追う場面ではあろう。だが俺に関してはその心配はいらない。
何しろ部屋の汚さは焔衣も引くレベルだからな。
同じ片付けられない人間であるメルに俺の部屋に隠された秘蔵書を見つけられるわけがない。
どうせ何分も経たずに諦めるだろう。
故に安心してアイスを口に運ぶ。うむ、この味は完全に歴代記録を大きく上回ったな。
俺から満点のレビューを叩き出したアイスを堪能していると、不意にスマホから通知が鳴る。
「支部からか。となると内容は──な、これは……」
メールの差出人は予想通り。新しい指令でも発令されたのかと思いメールを開く……のだが、その件名に俺は目を開かせる。
その件名とは『緊急招集』。不吉な予感を思わせる四文字からは明らかに普段のメールにはない異様さを醸し出していた。
支部がこの件名で送るとなれば、相当なことが起こったというのは確実。
一体何が起きたというのか……件の内容をこの目で確かめる。
「…………!? まさか、そんなことが……!?」
メールに記載された情報を読み、まさしく緊急という文言を使うに相当する内容であることを悟った。
……いや、ある意味緊急という言葉さえ不足していると言っても過言ではない。
マスター直属の俺でさえ経験したことのない非常事態がこの日本で起ころうとしているのだから。
「まずい、早急に支部へ戻らねば……!」
アイスに舌鼓を打つ余裕さえ消え去った。すぐにメルを呼びに自室へと向かう。
それだけでなく、遠くへ買い物に出掛けた焔衣とメイディさんにもこのことをすぐに伝える。
ここまで焦ってしまうのも無理は無い。
何せ今日本で起ころうとしていることは、世界滅亡にも繋がりかねない脅威と成り得るからだ。
もう間もなくそれの使い手がこの国に顕現する。
現れたが最後、どれだけの犠牲者が出てしまうか
その悲劇を俺たちが未然に防がなけれなならない。
これから起ころうとしているのは聖癖剣に宿る権能の負の側面が引き起こす危機。
聖癖剣協会の歴史上最悪の権能。それを相手に日本支部が一丸となって戦わなければならないからだ。
†
見上げる空は真っ黒。本当なら満点の星空が見えるはずの空は都会が放つ光のせいで転々とした小さな光しか見えない。
ぬるい夜風が頬を撫でる。都会のビル群をコンクリートジャングルと例えた人はきっと天才だ。
ビルが多く建ち並ぶこの街じゃ風流なんて望めやしない。毎日が熱帯夜の息苦しい世界だ。
心が痛い。ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろう。
私はただ、幸せになりたかっただけなのに……。
「死ぬ時くらい、何もかも気にならない気分にさせてよ……!」
ああ、最悪。今日を人生最後の日にすると決めたのに、些細なことを目の当たりにして落ち込んでいる。
やる事なす事全てを世界に否定される。例えるならそんな気分だ。
ここはとあるビルの屋上。落下防止用の柵を乗り越えて、一歩踏み出せば真っ逆さまという場所にいる。
今の私じゃ自殺の名所にさえ行くことも叶わない。
手が届く範囲で手頃に死ねる場所なんてここくらいしか知らないから。
今から私は命を絶つ。何もかもを捨てて楽になるために。
「みんな、どうしてそんなに上手く生きられるんだろう。いいなぁ、私もああなりたかったな……」
眼下の世界を見下ろすと、そこには大勢の人たちがいる。
居酒屋などが近い場所にある通りなだけあって、酔っ払いや夜の店で働く人たちが多く見える。
誰もが笑顔で楽しそう。それがお酒の力に頼った物でもただの営業スマイルであっても、今の私にとっては酷く眩しい物だ。
私が最後に笑顔を浮かべたのはいつだったっけ。
少なくともあの事件が起きるまでは笑えていた気がする。
それが私の全てを変えてしまった。こうして自らの手で自分の人生を終わらせる決断に至らせるほどに。
「うぅっ……うっぐ、ひっく……。私の何が駄目だったのよぉ……。頑張って働いたのに、努力してきたのに、あんなのってないよぉ……!」
笑顔を失ってからもう何千回と泣いてきたのに涙はまだ涸れる様子すらみせない。
死ぬ直前にも関わらず、あの時の後悔を思い出して今も涙腺を壊してくる。
理想を求め、理想を形にするために苦労を重ねてきた。そのお陰で私はあと少しで夢を叶えるところまで来ていた……それなのに。
理想はいとも簡単に砕かれてしまう。考え得る限り最も最悪な形で私の人生は壊れてしまったからだ。
自業自得が招いたことだと分かっていても、こんなに悔しいことはない。
戻れるなら過去に戻って馬鹿をする私を止めたい。せめて家族には迷惑がかからないようにしたい。
でも、そんな願いは叶わない。過ぎてしまったことを今更無かったことには出来ないから。
「うぇぇん……! 駄目な子供でごめんなさい、馬鹿なお姉ちゃんでごめ──……」
止めどなく溢れる涙を拭うこともせず、私は一歩前に踏み出す。
そこには踏み締める床なんて物はない。遠くの家族へ謝罪をしながら、身体は地面へと落下する。
8~10階相当はある高さからの落下ともなれば、もうここから助かる手立てはない。
そう思うとむしろ安心感を覚える。落下中、遊歩道を歩く人たちには申し訳ないなと考える程度には諦めの境地にあった。
あと数秒で遊歩道は凄惨な現場になるはず。でもそれを目撃しても、みんな自分のことに追われてすぐに忘れていくんだ。
それでいい。私なんか誰にも必要とされてないんだし、居なくなったところで誰も気にしない。
いやむしろ……私という人間が存在していたことを一瞬でも大勢に知らしめることが出来ると考えれば、存外悪くないのかも。
最後の最後にはた迷惑なポジティブ思考に至ったところで私は周囲の心配を止めた。
さようなら、この世の全て。家族も友達、そして私を裏切ってくれた大好きな人。
もし来世も人間だったら、今度こそは幸せになりた────
「うぶぉっ……、ぎゃあっ!」
転生先へに淡い期待を寄せたその瞬間、来世行きのチケットは急遽取り上げられた。
代わりに胸を突くような痛みと、真横へ突き飛ばされたことによるビルの窓ガラスを突き破る痛みの二重苦に襲われてしまう。
真っ暗闇のオフィス内へアクション映画さながらダイナミックに不法侵入。
椅子と机を数台巻き込みながら壁に勢いよく激突したことでようやく止まってくれた。
「い、痛……え、な、何? 何が起こったの……!?」
あまりにも突然過ぎる事態に私は何も理解が出来なかった。
投身自殺を図ったら何故か助かってしまった。それも正体不明の何かに追突されたことによる半分事故みたいな形で。
今の出来事はアクション俳優ならともかく、ただの一般人じゃ今のは大怪我レベルの事故のはず。
でも不思議と苦痛には感じられない。ちょっと気になるくらいの我慢出来る程度の痛みだ。
それでも目を回すには十分な威力はある。状況を確認するために私はふらつく足で立ち上がった。
「痛てて……。うう、でも生きてる。う、生きちゃった──って、これは……!?」
何が起きたのか依然として分からない。でも、それの存在に気付いてしまう。
それが運命の出会いであることに気付くのにはそう時間はかからなかった。
「何……これ……? け、剣……?」
真っ暗闇のオフィスに突き刺さる一本の長物。それはつい先ほどまでは無かった存在だ。
それを見て無意識に息を飲む。何故ならその剣と思しき物体はこの世の物とは思えないほど美しく思えたからだ。
全体のイメージとしては白いロングドレスを着せたトルソーを彷彿とさせる形状。床に突き刺さるのは鉄の棒ではなく、鋭い刃ではあるけれど。
一目見て──それがウェディングドレスの風体をした物体であることは明白だった。
「綺麗……これが、私を助けてくれたの……?」
その美しさにもう一度空気を飲み下してしまう。身体は無意識にその剣へ歩み始めていた。
この剣がさっきぶつかってきた物で間違いない。絶望の淵にいた私から死を取り上げた剣。
これは夢? まさかここがあの世ってパターン? でも身体の痛みは感じるから現実のはず。
混乱したままにも関わらず自然と両足は動く。目も剣の美しさに奪われっぱなしだ。
そして──その剣の前に立つ。近くで見れば見るほど綺麗で魅力的。
……不意に思い出す。私が絶望した一番の理由。
それは本来着るはずだった憧れのウェディングドレスに袖を通すことなく、何もかも騙され奪われたことだって。
その瞬間、心の中に黒い炎のような何かが灯る。
この感覚はすぐに消えたものの、気付いた時には剣の柄へ手を伸ばしていた。
「────ぐぅっ!?」
そして柄を握り締めた刹那、私の手の中を伝って頭に凄まじい量の何かが侵入してくる!
まるで脳全体を洗うような、痛みの代わりに心地よさがある不可思議な感覚。
一瞬不味いとは思ったけど、柄を握る手を離す前にそれは完全に止まる。
正体不明の感覚に飲まれた衝撃で放心状態へ陥るも、思いのほかすぐに意識は鮮明さを取り戻した。
そして変化が──私は不思議と幸せな気分に満ち足りていた。
「……そうだ、そうだよ。私、なんで自殺なんかしようと思ってたんだろう。世界はこんなにも幸せで溢れているのに」
ぼそりと呟く。その言葉の内容は先ほどまでの絶望を訴える物とは大きく変わっていた。
自分が凄まじい変化を遂げたという自覚はある。
何せ本当にさっきまで自殺しようとしてただなんて信じられないと思えているくらいだから!
心情の変化に伴いおもむろに床へ突き刺さる剣を抜くと、スカートの様に刃を隠す鍔は裏返ることでブーケのような形へと変貌を遂げた。
まるで大きなナイフ。ウェディングケーキに入刀する用のナイフみたい。
分かる……! 私、今笑顔を浮かべている。作り笑いなんかじゃない、幸福に満ちた笑顔を!
未だによく分からないことは多いけれど、間違いなく理解出来たこともある。それは──
「自殺を思いとどまらせてくれたのはこの剣のお陰なのかな。少し……いや。かなり元気になれた。よく分からないけど、ありがとう」
間違いない。この剣との出会いはまさに運命。
もう絶望とは無縁とさえ言い切れる。あの一瞬で私は完全に生まれ変わった。
不思議な多幸感に包まれながら、感謝の気持ちを込めてエンブレム部分に額をくっつけた────次の瞬間。
「────…………あ」
なに、これ……!? 私のじゃない、誰か別の人の思考?
また頭の中に流れてくる目や耳じゃ感じ取れない何か。
無限に続く……終わらない、止まらない、止められない!
ノイズのような奇妙な思考は、次第に鮮明さを露わにする。それが何を言っているのか……分かる。
幸せ幸せ
幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ
幸せ幸せ
死せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ逢せ幸せ幸せ
幸せ死せ 幸せ幸せ
幸せ死せ幸せ幸せ幸せ幸せ逢せ幸せ幸せ幸せ幸せ
幸死幸せ
幸逢幸せ幸死幸せ幸せ幸せ幸せ幸せ死せ幸せ逢せ
幸せ幸せ
死ア逢セ
「あ…………」
不意にがくりと全身から力が抜ける。膝を突いて床に這いつくばってしまう。
私の頭の中を無限に駆け巡った何か。脳をなで回すような感覚はもう無い。
何も感じない……でも、不思議と妙な考えが頭の中にあった。
「────…………行かなきゃ」
抜けた力が戻ると、唯一力が抜けること無く掴んでいた剣をより強く握り締める。
よく分からないけれど……でも何となく何をすればいいのかは分かる。
「……
私、
例えどんな困難が立ちはだかろうとも、あの人へ
この気持ちを──早く分けてあげないと。
そうしなければ本当の幸福は訪れないから。
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