第七十癖『縁は離れど、また結ぶ』
「予約って案外取れないもんだな。これもまた縁なんだろうな」
あの事件から数日が経過。その間にいくつかの変化が俺の周囲で起きている。
一つはビル倒壊の件。これはわりと大きな騒ぎになり、周辺一帯がしばらく通行止めになるなどした。
さらに所有者不明の廃ビルだったことも判明し、権利云々の問題が発生。
詳細までは知らんがそういった絡みの話で色んな業者が今も衝突中という噂も小耳に挟んだりもした。
全く大変だな。事件の真相を知る俺だが、さも他人事のように今日もパソコンを触っていく。
何も変化が起きたのは街だけではない。あの件を経て、俺も新しい変化を受け入れる決意を固めた。
それは隣家の命徒も同じく。もっとも今は家を出ており、現在は遠く離れた地にいるが。
寂しい気持ちはある。まさか地元に戻ってきてから僅か一週間もせずに旅立ったんだからな。
隣の家から俺の名前を叫ぶ日々がもう少し続くと思ってたんだが……まぁそれも仕方がない。
キーボードを打つ手を止め、少しだけ思いだそう。それは事件が起きた翌日にまで遡る。
事件から一夜明け、俺と命徒は改めて光の聖癖剣協会の人たちに呼び出された。
同じ時間に聖癖剣を持って、一緒に例のキャンピングカーへ。
何を訊ねられるかは分かっている。そしてその回答も同じく。
それらを理解していてもなお心臓の高鳴りは激しくなり、苦しいまである。
「よーくんは……本当に昨日のメールの内容で閃理さんたちに言うんだよね?」
「……ああ。俺は最初からそうするつもりだった。あんなことを経験して、余計に意思は固まったさ」
歩いて向かう途中、命徒から話を振られる。内容は丁度今俺が考えていた物と同じ。
これから会いに行く人たちに伝えなければならない俺自身の答え。それはもう決まっていた。
これには命徒も浮かない顔をしている。だがそれも仕方のないこと。
昨夜、家に帰った後にメールで今後をどうするかやりとりをして、お互いの意見を教え合っていた。
「そっか……」
「……うん」
命徒は俺の決断に不満を持っているんだろう。この無言が何よりの証拠。
沈黙のまま例の駐車場に到着。流石に心臓の鼓動が速まるな。
それはきっと命徒も同じ。深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、一緒にドアを開ける。
「あ、どうも。いらっしゃい。ささ、上がってってください。みんな待ってますから」
開けて早々焔衣兼人が真っ先に出迎えてくれた。言われて俺たちも中へと入る。
最初こそ命徒を狙ういけ好かん男だと思っていたが、実際は全くもって正反対な真面目な人物であったのだが。
ほとんど高校生と変わらない歳だというのに家事全般を難なくこなせるすごい男である。
もはや以前までのような敵を見る目など向けられない。今の俺が奴に勝てる要素はないからな。
時刻は昼だから何か作ってたんだろう。やけに様になっているエプロン姿のまま俺たちを中へ通す。
拠点のホールにはスパイスの効いてそうなカレーの匂いが漂っていて、軽食を済ませたばかりの俺も思わず腹に空きが出るほどだ。
「来たか。折角だ、もし胃に余裕があるなら君たちも食べていくといい」
「もしかしてメルの分、減ル? 減るならヤダ」
「大丈夫よメルちゃん。こういう時のために多めに作ってあるから」
連れられて入った部屋はダイニングルーム。そこには複数人の男女が
折角だから俺の記憶力でも試そう。この部屋にいる奴ら全員の名前を心の中で復唱する。
新聞を読んでいるのがこの拠点のリーダーである閃理さん。食い意地を張るのがメラニーだったか。
そしてその光景を優しく見守るのが封田さん。彼女はもう一つの班である二班のリーダーだ。
隣で何も言わずに本を読む凍原と、絵を描いている狐野。そして改めて焔衣兼人……よし、全員の名前は覚えた。
今の俺には覚えなくていいことかもしれないが、まぁ一応な。
空いてる席に座り、俺たちは昼飯が用意される前にここに来た目的を果たす。
この考えを察されたか、閃理さんの新聞を読む手は止まり、俺たちの方を見てきた。
「二人とも、考えは決まったんだな」
「はい。最終的な結論は出ました。それを改めて全員に聞いて貰いたいと考えています」
問いに返す言葉を口にし、部屋の空気が変わる。
それぞれ別のことをしていた全員がこっちを向いて俺たちの言葉を待ち始めた。
まずは命徒から。肘先で小突いて事前に決めていた順番を順守させる。
「わ、私は──やっぱり剣士になります! 実際に怖い目にも遭いましたが、それ以上に剣士に興味が湧いたんです。理由としては確かに不真面目かもしれません。でも、私は本気です! これから新入りの剣士としてやっていきます! よろしくお願いします!」
大きな声で宣誓するかのように命徒は組織への加入を志願した。
先日から求められていた剣士勧誘の話を、命徒は改めて受け入れる判断をしたのだ。
敵の剣士に一時的とはいえ金属化というニッチ……もとい非人道的な拘束を受けていたのにも関わらず、剣士になる決断をしたのは勇気があると思う。
もっとも、命徒の場合は口には出さずとも漫画のネタになるからっていう本音があるからだろうけど。
「うむ、動機は何であれよく決めてくれた。では歓迎しよう“治癒の聖癖剣士”こと孕川命徒。ようこそ、光の聖癖剣協会へ」
部屋には歓迎の拍手が鳴り響く。全員が命徒の新たな剣士人生を祝福してるみたいだ。
これには当人も内心の照れを隠せないでいる様子。おめでとう、命徒。俺も祝福するぞ。
「次は幼内の番だな。急かすようで申し訳ないが、君の答えを聞かせてもらおう」
「はい。俺は──」
ただ──俺はこの勢いに乗ることは出来ない。心の中で全員に謝罪をする。
もう一度心を落ち着かせるための深呼吸をして、自らの考えを公表した。
「俺は……剣士になりません。この状況でこんなことを言うのもなんですが、やっぱり俺は剣士っていう責任のある仕事を請け負うことは出来ません。本当に、すみません」
言った。言ってしまった。俺の最終的な判断、それは剣士にならないというもの。
部屋の空気が一気に暗くなったのが分かる。
あの状況でこんな空気の読めない発言したんだ。白い目で見られても文句は言えない。
だが俺は自分の意思を変える気などさらさらない。これでも俺なりに考えがあっての選択だからな。
「……そうか。非常に残念だが本人の意思は尊重せねばなるまい。安心しろ、剣士にならなかったとはいえ、俺たちは君の判断を責めることはしない」
「本当にすみません。でも俺にはどうしてもやらないといけないことがあるんです。だから俺は剣士になれない……そう思ってます」
実を言うと俺が剣士を辞退したのは本心ではない。
本当は命徒に背中を預け、そして預けられるような剣士の姿を歳不相応に妄想したりもした。
今すぐ剣士に……なりたかった。俺を選んでくれた
でも今の俺ではそれに相応しくない。応えるどころか背中すらも預かれない人間なんだ。
「よーくん……」
「命徒、ごめん。俺は俺の戦いをする。お前は剣士としてこれから頑張ってくれ。遠くから応援してる……いつまでもな」
俺は改めて命徒に謝罪した。きっとあいつも背中を預け合える関係になりたかったに違いない。
今生の別れになるわけでもないのだろうが、それでもまた離れ離れの生活になる。
準備が整うその日まで──命徒を応援する。そう決めたんだ。
「剣を所持している以上、またいつ闇の刺客が来るか分からない。故に君には今から剣の所有権を放棄してもらうことになる。いいな?」
「はい。でも最後に一度だけ、剣を使ってみてもいいですか?」
「ああ、構わない。運動場を使うといい」
剣を放棄することで俺は闇から狙われなくなるのだという。それが剣士にならなかった者が必ず守らなくてはならないルール。
俺は最後の使用許可を取り、運動場を借りて名残惜しむかのように
【聖癖暴露・
命徒から教えて貰った聖癖暴露と呼ばれる技を発動。
それと同時に
「……ありがとう、お前のお陰で命徒に会えただけじゃなく、他にも沢山の縁を繋いでくれた。感謝してもしきれないくらいに。だから最後に──またもう一度命徒と会えるようにしてくれ。俺も次に会う時までにはちゃんとした男になるからさ」
感謝の言葉と厚かましいながらも最後の願いを望み、暴露撃は何も変化を起こさないまま終わった。
叶うかどうかは分からない。これから所有権を放棄するわけだから、縁も切れてしまうかもしれない。
でもいいんだ。これが気休めに終わったとしても、結んだ縁はどこかで繋がってくれるはずだから。
我ながら柄に合わないことをしていると内心思いながら、別れを終えて閃理さんたちの下へ戻る。
「もういいのか?」
「はい。
俺のプライベートを尊重してか誰もついてはこなかった。
だからあそこで何をしていたかは俺と
いよいよ別れの時だ。俺が運動場にいる間に準備を済ませたのか、封田さんが自身の剣を構えていた。
「幼内。
「分かりました。それじゃあ……」
全くどこまでもファンタジーな存在だ、聖癖剣は。
さっき謝ったのは少し無駄足だったんじゃないかとうっすら思いながら、
「
すると剣は一瞬だけ鈍く輝いた。といっても他にこれといった変化はないが。
今のが所有権の放棄が完了した証なんだろう。一瞬のことすぎて、実感も湧かないな。
そして、所有者のいなくなった
所有者未定の聖癖剣は次の剣士候補を発見すると、そこへ向かって飛んでいくのだという。
部屋の窓の柵に引っかかってたのはそういうことのようだ。不可思議さ加減はどこまでもだな。
封印を施せばそれの防止が可能。これを以て俺は剣士でなくなってしまった。
「
「お願いします。それと、命徒のこともよろしく頼みます」
最後に幼馴染みとして命徒の面倒を閃理さんたちに任せることを頼み込む。
「それじゃあやることも終わったことですし、みんなでお昼にしましょ! 孕川さんと幼内くんも一緒に。ね?」
「はい!」
「ありがとうございます。俺、カレー好きなんで」
そして舞々子さんは一通りの作業が済んだのを認めると、最後に昼食のお誘いをしてきた。
ああ、勿論拒否はしない。こんな良い匂いを嗅がされたら否応にもなく腹が減るというものだ。
昼食をご馳走になった後、命徒は剣士になるために必要な書類を書くため、二班の車に移動して居残るそうだ。
もう剣士とは無関係な俺はそのまま家へ帰る……前に、ある人物へ相談を持ちかけていた。
その人物とは閃理さん。何の用事かと訊かれれば、俺はあることを訊ねなければならないのである。
「閃理さん。少し、いいですか?」
「来ると思っていたぞ。
「ありがとうございます」
どうやら俺の思惑は見透かされていたようだ。
命徒から教えて貰っていたが本当に人の考えを読めるんだな、この人。
まぁそっちの方が俺としても都合が良い。場所を車の外に移し、一言感謝を述べつつ相談に移る。
「俺は昔……大学在学中に起業するっていう今になって思えば無謀な挑戦をしていました。お察しのことでしょうが不幸が立て続けに起き、最終的に経営困難となり、一瞬で廃業してしまいましたが」
口を開けば出たのはかつての失敗談。俺が夢を否定するようになった原因の話だ。
俺の将来の夢は企業の社長になること。我ながら俗っぽい夢だな。
しかし、その夢は簡単に散る。当時の創業メンバーに会社の金を持ち逃げされたり、そもそも事業が軌道に乗らなかったり等、困難ばかりが立ちふさがった結果、一年足らずで廃業届を出すことになったが。
「それ以降、俺は夢を諦めてしまいました。それどころか誰かが夢を実現させるとそれを恨んでしまうほどに。人として腐った人生を送っていたと思います」
「だが、今はそうではないのだろう?」
相づち代わりの問いに俺は小さく頷く。
そう、今のはあくまでも過去の話。本題に繋がる余談に過ぎない。
もっとも閃理さんからすれば他人のどうでもいい不幸自慢でしかないが。
「今回の件を経て、俺はもう一度夢を持つことを決めました。それは剣士になること。聖癖剣を持つに相応しい人間になってから、もう一度
剣士の戦いがどのような物なのかを経験した俺は、心にもない答えを他の剣士たちに公表していた。
だが本心では剣士になることを諦めてはいない。
むしろなりたい。命徒と背中を預け合う関係になるというのもそうだが、本来俺はなるべくして剣に選ばれたと気付いている。
この意思は相当に固い。本気でもう一度剣士になるつもりでいる。
「そうか。君の本心を聞けたのは嬉しいが、そのような回りくどいことをせずともいいだろうに」
「いえ、今の俺には自分自身の力で変わるという経験が必要です。自分の力だけでこの四年以上のブランクを取り戻さないといけません。剣の力に頼り切りにならないようにしないといけないんです」
確かに閃理さんの言うとおり、聖癖剣協会の指導の下で訓練をする方が効率的なのは分かっている。
だがそれでは意味がない。夢を憎み、いつしか自分自身さえ見下していた負の感情は俺自身の力で消さなくてはならない。
根性論……というか半分以上が気持ちの問題。これは一人で解消しなければ気が済まないのだ。
「ふっ、そうか。ではその固い意思に免じて良いことを教えてやろう。一度剣に選ばれた人間は剣士になれる資格を恒久的に得る。もしお前の準備が済んだらここに連絡するといい。それまでに
そう言ってくれた閃理さんは懐に忍ばせていた紙片を渡してくる。
名刺らしいこれは『光の聖癖剣協会日本支部人事部窓口』という文字と共に電話番号が記載されていた。
なるほど。これに連絡する時が俺の願った縁が繋がる日になるのか。早速縁の一つが巡ってきたな。
何から何まで……本当にありがたい。この恩は必ず返さなければならないな。
……ということがあったわけだ。ちょっと長く回想しすぎたか? まぁ何でも良いさ。
「おっともう時間か。それじゃ、始めるか」
時間を見ればもうすぐ運動の時間だ。トレーニンジムのネット予約ページを離れ、準備に取りかかる。
学生時代はかなりスポーツは出来ていた。今は見る影もなく腹は出っ張ってるが。
まずやらなければならないのは痩せること。太った剣士なんか見た目的にもマイナスだ。
世間ってのは風体一つで印象は大きく変えてくる。短い社長人生で学んだ教訓の一つを思い出すな。
サウナスーツを着込み、スポドリも常備。準備運動も忘れず行い、いざ市内を走り込む!
俺の目標。始めの第一歩は命徒の隣に立っても恥ずかしくない昔のような身体を取り戻すこと。
俗に言うダイエット。きっとつらい日々になるだろうけど、一度決めた約束は守りきってやる。
未来は努力で変えられる──。
最後までやり遂げることでそれを証明してみせる。
そして勿論、
いつ現れるかも分からない次の
†
「えーと……分量はこんなもんかなぁ?」
とある休みの日、俺としては珍しくお菓子の調理に臨んでいた。
普段はこういうのに手を着けないからあんまり作り慣れてない。遅々として作業する。
何でそれに挑戦しているのかと言うと、昨日めちゃくちゃ久しぶりにメイドさんの夢を見たからかな。
メイドさんとは言わずもがな、昔俺のじいちゃんの家で働いていた家政婦のことである。
俺自身、幼少期にかなりお世話になっていた人でもあるからな。家事が出来るようになったのも半分くらいあの人のおかげだし。
「まさか夢の中でお菓子の作り方を学ぶことになろうとはな……」
夢の内容も当然覚えている。どういうわけか指導を受けながらお菓子を作るというもの。
そのお菓子というのはプリン。ただし市販品のゼリーっぽいのではなく、プディングと呼ばれるガチな方のスイーツだ。
スイーツ作りの経験こそゼロではないが、それでもここまで本格的な物は初めて。
夢の記憶とネットの海から拾った近い作り方が記載されたページを頼りに再現していく。
「ふぃー、七人分ともなればやっぱり大変だな。ってかオーブンに全部入りきるかこれ……?」
とりあえず班全員分の用意は完了している。卵液を型に流し込み、後はオーブンで加熱するだけ。
せっせこと型を中に入れてスイッチオン。焼き上がるのを待つだけだ。
果たして上手くいくかな……? スイーツ作りに限った話ではないが、初めて作る料理ってのは大体最初は上手くいかない。もしそうなったら最悪だ。
まぁ
「こんにちはー! ……ってあれ、焔衣くんだけ? 他のみなさんは……?」
「あ、孕川さん。閃理たちは買い物に出てますけど」
焼き上がりを心配していたら、不意にとある人物がダイニングルームに入ってきた。
孕川命徒さん──つい先日、剣士になった人だ。
とはいってもまだ支部の所属先決定のメールが届いてないから完全な意味では剣士じゃないけど。
「買い物!? うそ、何も聞いてないんだけど!?」
そんな年上の後輩はどうやら舞々子さんたちに置いてけぼりを食らっていた模様。
現在、俺と孕川さんを除いたメンバーは前回同様ショッピングモールにて買い物中だ。
俺が同行していない理由としては、このお菓子作りもそうだが前みたく俺を狙って襲撃を起こされないように、とのこと。余計な心配をかけてくれるぜ。
「えぇー、折角漫画でも読んでもらおうかと思ってたのに……」
「漫画? それって自作のですか?」
何やら孕川さん、持ち前の趣味で描いていた漫画を持って来たみたいだ。
そういえば漫画家になるのが夢で上京してたんだっけ? そんな物をチラつかされれば気になるのが人の
俺とて漫画はわりと読む方だ。実家にはそこそこの量の漫画もあるわけだし、ぶっちゃけ読んでみたい。
「ちなみになんですけど、それって俺が読んでも良いものだったり?」
「あ、勿論! むしろ読んでほしいな。もし良かったら感想とかも聞かせてよ」
読んでいいかを訊ねたら快く許可が下りる。
これで焼き上がりを待つ間の暇つぶしには困らなくなったな。さて、どんなお話なんだろうか。
そしてバッグから取り出される分厚い封筒。おっ……と、これはちょっと予想よりボリューミーだ。
「えっとね、中に入ってるのがこの間完成したばっかりの新作と、私が聖癖剣を手にした日に没を食らった傑作の二つ。直接的な繋がりはないけど前後編みたいな構想で描いたから新作を先に読んでたら嬉しいな。あ、それともし気に入ってくれたなら他にもまだ未発表の原稿が……」
「あっ、はい……。ちょっと落ち着いて……」
封筒を受け取った瞬間まくし立てるように孕川さんの熱い自作トークが炸裂。うぉ……この人多分、かなりガチの人だわ。
このままでは話だけでプリンが焼き上がりそうなので早速封を開けて読んでみる。
普段は本の形で漫画を読んでるから、こういう一枚一枚独立したページで漫画を読むのはかなり新鮮。
そうして俺は孕川さんの漫画を読んでいく……のだが、思えばちょっと軽率な判断だったかもしれない。
俺は忘れてたんだ。世の中には様々な人がいるということを……。
「ん~……、
「今戻った。どうだ、スイーツ作りは上手くいった──……焔衣?」
「…………おかえり」
漫画を二作品分読み終わった頃に閃理たちが拠点に戻ってきた。
しかし、そんなことを気に出来ないほどに俺の心は深く沈んでいた。いやぁ、ちょっとな……。
「あら? え、ど、どうしたの焔衣くん!? そんなに落ち込んで……何かあったの?」
「いえ、ちょっと……はい。大丈夫です」
「全く平気そうに見えないのですがそれは」
椅子に座り、テーブルに肘を立てて頭垂れる俺。目の前には読み終えたばかりの分厚い原稿用紙。
二班の面々からめちゃくちゃ心配される。そりゃ見送る時は元気だったんだからそうもなるわ。
言わずもがな、こうなったのは全部孕川さんの漫画のせいだからだ。どうしてこうなった、俺が一番聞きたい。
「……そういうことか。孕川、お前……」
「ご、ごめんなさい。まさかここまで気分を落ち込ませるとは思わなくて……」
これには作者本人も困惑を隠せない。読者をここまで落ち込ませる漫画を描いたんだ。それも無自覚に。
確かに漫画としては面白い作品ではあった。でも、それ以上にヤバい内容だったのだ……。
置きっぱなしの原稿用紙を手に取る閃理。その瞬間、ウッと顔をしかめるのが見えた。
「……っ。幻狼、凍原。お前たちはこれを読まない方がいい。読んだら後悔するぞ」
「えっ。そんなにですか?」
「これは流石に見せられない内容ね……。何も知らずに読んだら性癖を破壊されてしまうわ。一生残り続けるレベルのね」
そう断言する舞々子さんもぱらぱらとページをめくり、険しい表情で内容を確認している。あんたもあんたでスゴい肝っ玉だだな……。
多分、これを没にした編集と俺は同じ感想を抱いてると思う。確かにこれは没にされるのも止むなしの怪作だ。
子供には読ませられない内容を文字通り孕んでいる。最年少の幻狼には特に駄目だ。
レーティングはRー18になるのは確実。それくらいヤバい作品だった。
「薄々気になってはいたものの、あなたの性癖は……こんな形をしていたのね」
「男の妊娠物なんて特殊嗜好にもほどがあるな……。しかも全編通して鬱展開にバッドエンディング。否定こそしないが、些か尖りすぎているぞ」
「そ、そんなにですか!? 多少特殊なのは自覚してましたが、そこまで言われるとは……」
流石の上位剣士もドン引き。つられて凍原と幻狼も同じ引き気味の顔をしている。
孕川命徒、この人の性癖は『ボテ腹』。ただしそれは男性妊娠、というものあった。
そもそもボテ腹を
良かった点は物語自体は面白かったことか。それが逆に忘れられない要因にもなってるんだけどな!
漫画だから何でもありとはいえ、ジャンルの棲み分けって大事だと思うんです。
これからはもっと読む人のことを考えて漫画を描いて欲しい。いやマジで。
心からそう思っていると、ピーッと言う音がどこからか聞こえた。
これは焼き上がりを教えてくれる音! それに気付いた時、俺はすぐにオーブンの前へ向かう。
「出来上がりは……お、いいね。はぁ──料理でここまで癒されあのは初めてかも」
「そ、そんなに言う……?」
蓋を開けると解き放たれる甘く濃い薫り。思いっきり吸うことで漫画の記憶が少し和らいだ気がする。
孕川さんには申し訳ないが、あの漫画は到底受け入れられそうにない。
気を取り直して容器を乗せた天板を持って台所へ。
本来なら冷蔵庫で冷やすのが正解だが、俺の剣があればそれをスキップすることが可能。
【聖癖開示・『ツンデレ』! 熱する聖癖!】
聖癖開示を発動し、プリンから熱を奪う。温度が下がり過ぎないよう調整と確認をしつつ待つこと数分。
「よし、こんなもんかな?」
容器に触れて良い感じに冷たくなったのを確認し、ようやく仕上がったと言える状態となった。
これで完成、と宣言しようか。心配なところもあるが、見た目は問題なく普通のプリンだぜ。
「出来上がったか。では味見といこう」
「ヤッター! メル、一番大きいやツ!」
言葉にはしないけど全部大きさも内容量も同じだからな。メルは食い物が絡むと途端に強欲になる。
とりあえず実食は必須。全員に俺のプリンを渡して一足早いおやつの時間にする。
改めて出来上がった物を確認。うん、匂いと見た目は共に及第点。肝心なのは味だ。
舞々子さんはスイーツも一級品の物をこさえられるプロ同然のお方。さらに閃理も実は甘味が好きだから、こういうのにはちょっぴり厳しかったりする。
果たして二人から合格はもらえるのだろうか……?
緊張の一瞬。閃理と舞々子さんの口に俺のプリンが運ばれるのを見届ける。
「……! あら、思っていたよりも上手に出来たわね。とても美味しいわ」
「ああ、程良い硬さとなめらかさ。カラメルも苦みと甘みがバランスが良い。素直に美味と言える」
「うおお、良かったぁ~……!」
評価は無事合格だった。これには俺もほっと胸をなで下ろす。
いやはや、初めて作ったのに二人から一発でオーケーを貰うとは思わなかったぜ。
「うん、本当に美味しいです! お店のみたい」
「はい。封田さんの作る物とはまた違った舌触りと味で新鮮さを感じます」
「美味しかっタ! おかわりあったら欲しイ!」
「それはまた今度な。うん……おっ、懐かしい味」
幻狼と凍原も満足な出来映えらしい。メルはもう先に全部食って二個目まで要求してきた。
次がいつになるかは分からないけど、近々作ってやるさ。それまで我慢な。
俺も遅れて一口。うーん、この舌触りに味……想像してた以上に俺の思い出深い味を再現出来たわ。
実は昔メイドさんと一緒に作った物なんだ、このプリン。当時は失敗作もあったが、出来が良いやつは確かにこんな味だった。
まさか夢の中でメニューを思い出すとはな。しかも成功までするとはまさに夢にも思わないだろう。
過去を懐かしみながら食べ進める中、唯一感想を口にしていない者がこの中にいた。
「んん~……?」
「……あれ、孕川さん? どうかしました?」
それは凶悪性癖爆弾漫画を世に出そうとしていた剣士、孕川さん。咥え箸ならぬ咥えスプーンのまま深く唸っている。
また一口掬っては食べ、再び唸る。それを繰り返している。
まさか舌に合わなかったのかな? もしくはさっきのことで拗ねて天の邪鬼にでもなったか?
「あの~……もしかして別にって感じでした?」
「ん? あ、ごめん。別に美味しくないとか思ってないよ。これはめちゃくちゃ美味しい。でも……びっくりした。私、これと同じ味のプリンを食べたことある気がするんだよね」
「え、マジすか? それはどこで……?」
このプリンの味を知っているだと……? その返答に俺は思わず聞き返していた。
だってこれは俺の思い出のお菓子だぜ? それを前に食べたことあるだなんて信じられなかった。
気のせいだと信じたいところではある。
「うーんとね……。あ、思い出した。私、美大生だった頃は近いからって理由でおじいちゃん家で暮らしてたの。そこで食べたような気がする」
「美大生? いいなぁ」
幻狼が美大生の部分に反応したけど、それには一切触れずにしておく。
どうやら孕川さんは祖父家でこの味を覚えたのだという。じゃあなおさら分からないな。
これはコンビニや他の一般家庭で出される物とはひと味違う特別なレシピ。
偶然味が似通ったにしても、あっちで出されたのが同じとは思えないんだが。
「いやだからってこれと同じ物が出されるとは思えませんって。だってこれ、昔メイドさんが教えてくれたレシピですし……」
「メイドさん? いたよ。おじいちゃんの家に住み込みで一人」
「えっ。ま……マジで!?」
今の言葉って……聞き間違いか!? メイドさんが住み込みで働いてたの? いや、え、嘘でしょ?
衝撃的発言により、俺は脳どころか全身フリーズする。いや今の聞いて落ち着けるかってのよ。
……まさか、そうなのか? もしかしてその人だったりしないだろうか? いや待て。流石にそれはちょっと早計じゃないか。落ち着け俺。
全国にメイド名義で働いてる家政婦なんて何百人いると思ってるんだ。まず確率的にあり得ない。
それに孕川さんの祖父家で働いてるメイドと俺の知ってるメイドさんが同じ会社勤めの可能性もある。
同じお菓子のレシピを共有していて、それの味を覚えてる人間がたまたまはち会っただけ。そっちの方が確率的に現実味があるだろう。
「うん、多分外国の人かハーフですごい綺麗な人だった。仕事がすっごい早いし失敗してるところは一回も見たこと無いかも。課題も手伝ってくれたこともあるし、何なら上京中に何回か仕送りでお菓子も貰ったこともあるよ」
外国人っぽい美形で、なおかつ仕事が完璧で気が利くって……それ俺の知ってるメイドさんの特徴とかなり一致してるんだが!?
いやだがもう少し待て。あのメイドさんがいたのは十年弱くらい前の話。
当時の年齢が若く見積もって二十代だとしても今は三十代。確かに現役でおかしくはないが……。
もしかすると海外から派遣とかして日本に籍を置いてる助っ人メイドかもしれん。ここまで疑うのもなんかアレな気もしないでもないが……。
「白熱しているところ悪いが焔衣、お前が疑っているその人物の名と孕川の知っているメイドの名前を言い合えば解決するんじゃないか?」
「そ、それもそうか。いやーでもちょっと怖いわ。これでもし違ったらただ単に恥ずかしいし」
するとここで閃理が横やり……ではなく解決策を講じてくれた。
なるほど、それなら確かに分かりやすい上に真実もはっきりする。人物予想が外れたらただの恥だけど。
あー、ちょっと待て。やべぇー……ドキドキしてきたぞ。未確定とはいえもしものケースになったら俺はどうすれば……。
「とりあえずその案採用で。孕川さん、いっせーのーせで言い合いましょう」
「オッケーオッケー。それじゃあいくよ。いっせーのーせ──」
言い合いの案を可決し、孕川さんと揃えてメイドさんの名前を出し合うことに。
当たってほしいとも思う反面、外れてもほしいと思っている。さて、結末は如何に……?
「メイディさん!」
「サーベリアさん!」
タイミングを合わせ、ついにその名前を口にした。
お互いにバラバラの名前──のように思えるだろう。この時、俺の中に渦巻いている感情を声に出していた。
「ほ、本人だった…………!!」
そう──俺の知るメイドさん『メイディ』さんと、孕川の知るメイド『サーベリア』さん。これは姓と名の関係性なのである。
外国の人だから『メイディ』が名で『サーベリア』が姓。だからフルネームは『メイディ・サーベリア』なのだ。
「う、うっそー!? そんな偶然ってある? これも縁とか何かかな!?」
まさかの──いや、なんかもう薄々勘付いてはいたが、よもや本当に同一人物だとは思わないだろう。
お互いがお世話になったメイドが同一人物であるという事実に孕川さんも大げさに驚いている。
俺も同じだ。こんなことが実際に起きるなんて……。人生ってマジで何が起こるか分からないんだな。
だがこの場でメイディさんのことについて驚いているのは──何も俺たちだけではない。次の言葉でそれを知ることとなる。
「お、お前たち……今、なんと言った?」
「え、どうしたの閃理……。ってか舞々子さんまで固まってどうかしたんですか?」
いきなり閃理は俺たちの会話についての詳細を訊ねてきたのだ。
それも目を大きく開かせて同じように驚いている模様。舞々子さんも口に手を当てている。
「今メイディ・サーベリアと言ったんだな? 本当にその名前で間違いはないんだな!?」
「えっ何!? 閃理も知ってるの?」
ガタッと席を立って俺の両肩を掴みかかってくる。閃理がここまで強く反応するって相当だぞ。
そんなにスゴい人なのか? あのメイドさんは。
確かにめちゃくちゃ仕事出来るし一般家庭の家政婦をするにはもったいなさ過ぎるくらいだとは思うけど……。
ごくりと息を飲み込みこんで、物々しい雰囲気の二人が説明をしてくれる。
その話に俺は────
「いいか、よく聞いてくれ。詳しい説明は後にするが、その人物は……いや、その方は俺たち聖癖剣士に深く関わっている」
「むしろそれ以上の存在よ。数十年の間行方を眩ませていた、私たち光の聖癖剣協会が長年捜索している剣士の一人。それが──」
メイディ・サーベリア。またの名を“異次元の聖癖剣士”にして“始まりの聖癖剣士”。
あの人は──ただのメイドなんかじゃない。その事実を前に俺はどんな表情をすればいいのか分からなくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます