虫箱 〈5〉
次にその家の異変を感じたのは、冬の少し前のことでした。
相変わらず薄暗い廊下には蚊取り線香のライトが灯っていました。
授業の合間の十分休憩のときに顔を出した母親が、前の週と同じセーターを着ていたのです。これまでは、同じセーターを続けて着ていることなどありませんでした。よしんば同じものだとしても、ブローチやネックレスなどで印象を変えていました。
彼の母親からは疲労がにじんでいました。にこやかに笑う顔はやつれ、乱れた口紅が唇から少しはみ出しています。
経済的に厳しいのだろうか、と下世話なことを考えました。
けれど彼はいたって普通に振る舞っています。子供には親の経済状況を悟られないようにしているのでしょう。
だからわたしも、気づかないふりをしました。
そして冬が本格的になったころ、授業を終えて家を出たわたしを、彼の母親が追いかけて来ました。
チラチラと雪の舞う夜なのに、カーディガンひとつ羽織っていません。
マンションの駐輪場でわたしに追いついた彼女は、「先生!」と掠れた声で小さく叫びました。
「あの、次の授業なんですが、お休みさせていただきたいんです」
彼からはなにも聞いていませんでしたが、わたしは「わかりました」と頷きます。
ちょうど次の授業のときに月謝が支払われることになっていたので、支払いを少しでも先延ばしにしたいのかもしれない、と失礼なことを考えました。もっとも、わたしは月謝が遅れたところで困窮しません。
だから理由を尋ねることもしなかったのです。
「では次は一週間後ですね」
寒いので早く家に入ってください、彼によろしくお伝えください、と応じて、わたしはその家を後にしました。
そして次の週、どれほどインターフォンを押してもエントランスの扉が開くことはありませんでした。
携帯電話に掛けてみたのですが、彼の番号も彼の母親のものも『現在使われておりません』という自動音声が流れるのみです。
彼の父親──わたしのアルバイト先の男性従業員です──に掛けてみると「家にはしばらく帰っていないからわからない」と答えました。
しばらく、とはどれくらいの期間なのかを問い質せば、もう三ヶ月以上だと言います。
浮気などではなく、ただ家に帰りたくなかったそうです。
家に誰もいないことを伝えると、彼は慌てるでもなく「そうかぁ」とのんびりと息をつきました。
「どこ行ったんやろな」
まるで他人事のような抑揚でした。
あるときから彼の父親は家にも帰らず、生活費も入れず、会社近くのアパートで暮らすようになったそうです。
けれど彼の母親は生活レベルを落とすこともせず、かといって働きに出ることもなく、貯金を切り崩してそれまで通りの生活を続けていたのだと聞きました。
「あいつがね」と彼の父親は、のちにぼそっとこぼしました。「虫がいるて騒ぎ出したんですわ。夏の終りごろやったかなぁ。虫嫌いな女やったけど、もうノイローゼみたいに虫が虫が言うて……。そんな家、気ぃ休まらんやん?」
だから家を出たのだと言います。中学生の息子に全部を押しつけて、自分がアパート暮らしを始めた言い訳をします。
「勉強勉強で息子とも遊べんかったし……あいつのせいで散々や」
まるで自分ひとりが被害者のように嘆きました。
彼が母親とともに母親の実家のある信州へと引っ越したと聞いたのは、しばらくしてからです。
アルバイト先の廊下で会った男性社員から「せっかく勉強教えてもろたのに、すまんかったな」と詫びられたときでした。
「信州って、どんなトコですか? 山のイメージしかなくて」
「そうそう。めっちゃ山。くっそ田舎やで。冬はスキーできるし」
「じゃあ、冬は息子さんとスキー三昧ですね」
「ああ、せやなぁ」男性社員は苦笑します。「いちおう、父親やしな。会いに行ってやらんとなぁ」
「……夏はまた虫採りできますね」
「虫ぃ? やらんよ。俺、虫苦手やし」
「前、息子さんとオニヤンマ採りに行かれてましたよね?」
「ええ? オニヤンマ? あのでっかいトンボ? いやぁ、無理無理。あんなでっかいモン、怖いし絶対無理やわ」
そう笑うと、男性社員は「ほなな」と手を挙げて去って行きます。廊下に彼の足音が反響していました。
オニヤンマを父親と捕まえたのだと誇らしげに教えてくれた彼の顔が思い浮かびました。
オニヤンマが怖いと言った男性社員の声が、いつまでも耳から離れません。
むしり取られたトンボたちの複眼が、カサカサと乾いた音を立てていた無数の頭が、乾いたオニヤンマの透き通った羽が、廊下にみっしりと敷き詰められているような錯覚を抱きました。
なぜか、無数のトンボに囲まれた彼があの箱を作っているさまを、想像しました。
とはいえ、あの箱と彼の母親のノイローゼと間に因果関係を結ぶことなどできないのです。
箱は箱にすぎないのですから。
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