番外編 3
番外編 残り香
毎朝、家中のタオルを取り替えて、洗濯機に入れます。その日の天候次第ではキッチンマットや枕カバー、シーツなども投入します。
わたしの母は洗濯物を干す場所や洗濯ピンチが無限にあると思っているらしく、天気の良い日などは「これも一緒に洗って」と山のような洗濯物を押し込んだりもします。
その日の洗濯物の量に合わせた無香料の洗剤を入れて、風呂の残り湯を吸うホースを湯船に浸け、洗濯スタートのボタンを押します。
洗濯機がゴンゴンと壁にぶち当たりながら働いている間に、顔を洗い化粧をし、朝食を摂ります。
そうして時間に追われながら洗濯物を干して、出掛けるのです。
初めてそれに気がついたのは、一日中よく晴れた日の夕方でした。
春の夕日に目を眇めながら洗濯物を取り入れ、部屋の中央に洗濯物を積み上げて一枚ずつたたんでいるときです。
ネコがたたみ終えた洗濯物の上にすかさず座るので、たたんだ洗濯物は少量ずついくつかの塔にしていきます。ネコが座っていない塔にたたみ終えた洗濯物を重ねていくのです。洗濯物はパリパリと痛いくらいに乾いていました。
ぐちゃぐちゃの洗濯物の山から一枚のタオルを引き出したときです。
ふっとお線香が薫りました。
近隣の家であげたお線香が我が家まで流れてきたのでしょう。開けっぱなしにしていた窓からは夕の少し湿気た風が感じられました。
けれど次の洗濯物を手にしたとき、それまで薫っていたお線香が遠のきました。風は変わらず部屋に吹き込んでいるのに、です。
外から漂ってきた香りではなかったのだろうか、と窓へ視線をやります。
視界の端に、さきほどたたんだばかりのタオルが引っかかりました。わたしがいつも使っているバスタオルです。
そっと膝に引き寄せてみると、ふわりとお線香の匂いも戻ってきます。顔を近づけてみると、匂いも強くなります。
──お線香は、わたしのバスタオルから薫っていました。
バスタオルの前後に干していたタオルを探しだして鼻を近づけてみますが、乾いた洗濯物の匂いがするだけです。他の洗濯物を嗅いでみますが、やはり無香料洗剤の名残を感じる程度です。
わたしのバスタオルだけが、まるで薫衣香を
「え、なにこれ……」
気持ち悪い、と思うと同時に、まあいいか、とも思っていました。
そもお線香の匂いは嫌いではありません。我が家には仏壇も墓参りの習慣もありませんが、あの匂いを嗅ぐとどこか懐かしい気持ちになるのです。
それに。
「別にええやん」と母もケロッと言いました。「仏さんのご飯は線香なんやし。悪いモンとちゃうやろ」
お線香の煙は清浄を司るものです。悪いものどころか、好いものなのです。
ですから、わたしはその夜も、お線香の薫るバスタオルを特に気にすることなく使いました。
それから、ときどきわたしのバスタオルはお線香の匂いをまとうようになりました。
いつもカラッと乾いた洗濯物をたたむときに気づきます。
最初こそ、近隣の家から流れてきた香りが移ったのかとも思いましたが、残念ながら我が家の近隣の家はほぼ無人でした。
洗濯物を干しているベランダの真向かい、ブロック塀を隔てただけの裏の家は人の気配がありません。
裏の家の住人が引っ越して来てからずっと、閉め損ねたカーテンから室内が丸見えなのです。掃き出し窓の三分の一ほどまではみ出した本棚がカーテンを邪魔していました。
もうずっと、家財道具もそのままに、誰も帰っていない様子でした。部屋の中央のこたつには、中古車情報誌が置かれたままになっています。
もちろん、そんな家で線香をあげているはずもありません。
左斜め裏の家はといえば、老婆が孤独死したきり、新たな住人は入っていません。
我が家からは、その家の窓がテープと厚紙で補修されているさまが、はっきりと見えていました。老婆の応答がないために、救急隊員が窓を割って様子を見に入った名残です。
幸い発見が早かったので──老婆が亡くなる二日前、元気にベランダで洗濯物を干している姿を見かけていました──一月もすると荷物が運び出され、売家の看板が掲げられました。
荷物を運び出した親族がお線香の一本でもあげたのだろうか、とも思いましたが、売家になってからもわたしのタオルに匂いが移ることがあったので、あの家から漂うものでもないのでしょう。
右斜め裏の家はといえば、大きな平屋でした。我が家からは庭と縁側だけが覗えます。
線香が似合う造りではありましたが、住人は火を禁じられている様子でした。
認知症状の出た老婆と、足腰の危うい老人とのふたり暮らしなのです。
週に何度も彼らの子供たちらしき中年の男女が入れ替わり立ち替わり訪れては、すさまじい怒声を響かせていました。おそらく老夫婦の耳が遠いために、子供たちは大声で話していたのでしょう。おかげで会話が筒抜けでした。
キッチンがIH式に改修されてしまったために、老夫婦は使い方がわからず食事もろくに作れなくなったようでした。
その結果、ふたりは庭で魚を焼こうとし、訪れた息子夫婦にマッチやライターから七輪や炭など、あらゆる火の元を取り上げられたようです。
右隣の家は、これまた住人が帰らない家でした。
住人は中年の女性ひとりきりです。年に一度か二度、深夜の二時や三時に帰ってきてはごうごうと掃除機をかけ、翌朝の七時には出掛けていきます。そのまま何ヶ月も戻って帰って来ません。
「別荘みたいに使ってはるみたいやね」と三軒隣の女性は言います。
唯一まともに人が住んでいる左隣の家は、若夫婦です。最近子供が生まれたようで、お線香をあげている余裕もなさそうです。
そも、どこかの家がお線香をあげていたとして、どうして何枚も干してあるタオルの一枚だけに香りが移るのでしょう。同じメーカーの色違いである母のバスタオルは無臭のままです。
干す場所や洗濯物の配置を変えても、わたしのタオルだけがお線香の匂いに満たされるのです。
「お迎えが近いんよ」と母は笑って言います。
「お香で迎えてもらえるほど、徳高くないし」とわたしも笑って答えます。
「誰かが迎えに来てくれてるんちゃう?」と揶揄する母に、わたしは苦笑します。
わたしのタオルにお線香の香りが移るようになってからは、もう五年以上が経っています。
本当に誰かがわたしを迎えに来てくれているのなら、わたしはその相手を知りたいと思っています。
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