虫箱 〈4〉
無数のトンボの頭が敷き詰められた箱を、彼は初めて恐れたのでしょう。
そこに詰め込まれたものを、初めて命の残骸だと意識したのかもしれません。
無数の命に恨まれた結果、オニヤンマの頭が消えたのだと考えている様子でした。
「さあ?」とわたしは首を傾げて見せます。「呪われてるかどうかは知らないし、わからない。呪われていると思うことで、自分に降りかかる不幸の全てが呪いのせいだと感じる状態、それこそが呪いだと思うから」
「……意味わからん」
「別になんともなくても、顔色悪いでって言われ続けると、体調が悪いような気がしてくる。そういう状態」
「洗脳ってこと?」
「まあ、そう考えてもいいかな。思考の変化だよ。自分の不注意だって、呪いのせいだと思っちゃう」
「でも、ホンマに箱開けてへんねん。開けたときには、もう頭なかってん」
「あ、うん。そこは信じてるし疑ってない」
彼はほっとしたように「うん」と息を吐きました。
「でも、これが自然に消えたとも考えにくい。たぶん、きみの知らないところで、誰かがうっかり頭を消してる」
「……誰が?」
「さあ? 誰が、かは問題じゃないんだよ。この箱にはきみの知らない時間が存在するってことが問題なの。きみが知らないうちに誰かが頭を持ち去る『可能性』が存在する。その可能性を考えつかない状態にすることが、呪いなんだよ」
彼は反論したそうに口をもごもごとさせていましたが、うまく言葉にできず黙り込んだようです。
わたしは「で」と強引に自分のペースに巻き込みます。
「この箱、どうしたい?」
「捨てたい」即答してから、彼は不安そうに顔を曇らせます。「捨てて大丈夫なん?」
「不安なら、お寺とか神社に預けてお浄めしてもらうと良いと思う」
彼は天井を睨んで少し考えます。おそらく近所の寺や寺院を思い出そうとしているのでしょう。
ややして「朝、塾行く前とか、開いてるかな」と呟きました。
箱を預ける先に思い至ったのでしょう。
わたしは箱を預ける前に、一度そこの人に話を聞いてもらうこと、箱は丁寧に持ち運ぶこと、などを教えます。
彼は素直に、そしていつになく真剣に、わたしの話を聞いていました。
次に会ったとき、彼はもう箱のことなど忘れているようでした。
夏休みが終ったことも重なり、彼はまた明るく、ときに生意気にわたしの授業に臨みます。
ひとつ、気になったのは、夏休みが終ってから、家のあちこちで電気式蚊取り線香を見かけるようになったことです。
これまで部屋にはハーブの入った虫除け匂い袋が置かれていたのですが、そこに蚊取り線香が追加されていたのです。彼の部屋だけではありません。
薄暗い廊下にぽつりと蚊取り線香のライトが灯っていました。玄関にも安っぽいプラスチックのケースに入った虫除けが置かれています。
どれも、家の調度品に似合っていません。
「虫が出るんやって。お母さんが嫌がんねん」
彼は大して興味もなさそうに、そう言いました。
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