虫箱 〈3〉


 無数のトンボの頭が敷き詰められた箱。その箱に、大きな虫──彼は昆虫ではなく虫と言いました。つまり、それはクモやムカデといった生物でもよいということでしょう──を入れるように、唆す。

 蠱毒の簡易版のように思えました。


 蠱毒とは、呪術の一種です。

 様々な生き物──毒蛇や毒虫、ムカデやクモといった小さいものが主流だとききました──を一つの壺に入れ、殺し合わせるのです。最後に生き残った一頭が、壺に入れた全ての毒虫の力をその身に宿した最強の呪いとなる。その呪いで害した相手の財産は、蠱毒を用いた者の手に入る。そう信じられているのです。


 殺し合いを省き、さらに勝者が後から追加されているとはいえ、箱いっぱいのトンボの頭です。「一寸の虫にも五分の魂」ということわざを考えれば、相応の怨念はこもっているように感じます。


 とはいえ、わたしは呪いを信じていません。

 呪いとは「呪われた」と知ることにより小さな不運に過敏になり、結果として自分自身を精神的に追い込むことだと、考えています。

 つまり、彼があの箱が呪具だと思わなければ、呪いは成立しないのです。

 わたしは彼の部屋の本棚を思い出します。教科書と参考書、問題集といった類い以外には、せいぜい歴史漫画が並んでいた程度です。おそらく彼の母親が漫画や娯楽小説を禁じているのでしょう。

 けれど彼は第六天魔王という、おおよそ歴史の授業では習わない言葉を知っていました。それは彼に、そういう知識を得る機会があるということに他なりません。

 学校の友人や図書館などで、彼は家で禁じられ情報に接しているのです。

 蠱毒や呪いといった情報に触れる可能性は五分五分に思えました。


 ひとまず、わたしはあの箱について考えることをやめました。

 そも、あの箱が本当に悪意を持って作られたのか否かもわからないのです。

 わざわざ、わたしが呪われている可能性を告げる必要はありません。



 異変が起きたのは、夏休みも終盤にさしかかったころでした。

 夏休みの間、彼は家庭教師に加えて塾にも通っている様子でした。わたしの授業は、塾から出される山のような宿題を監督し補佐するものになっていました。

 彼は目に見えて勉強に対する情熱を失い、長い夏休みに憎悪を募らせている様子でした。

 もうすぐ塾の夏期講習が終り日常生活が戻ってくる。彼はそれだけを楽しみにしているようでした。


 膨大な塾の宿題を片付け一息ついたときでした。

 彼は「ちょっと見てほしいんやけど」ととても弱い声で言いました。勉強机の引き出しから、あの箱を取り出します。

 青いかぶせ蓋の紙箱でした。彼は一瞬、蓋を開けることを躊躇したように見えました。

「ダニ湧いた?」

 ううん、と首を振った彼は、意を決したように蓋を開けます。

 大きなオニヤンマと、無数のトンボの頭が納められていました。以前と変わらず悪趣味な光景です。

 そう思ってから、異変に気がつきました。


 ──オニヤンマの頭が、ないのです。


 暗緑色の大きな目が、見当たりません。

「頭、なくなってん……」

「衝撃与えた?」

 彼は言葉もなく首を振ります。

「首の接続弱いし……」

「ないねん。どこにも」

 彼はそっとオニヤンマを摘まみ上げ、テーブルの上に置きます。箱には無数のトンボの頭だけが残されます。どれも、オニヤンマの頭よりずっと小さなものです。

 彼は指でトンボの頭をかき回しました。トンボの頭は思ったより浅く敷き詰められていて、指が動くたびに箱の底の白さがチカチカと覗きます。

「俺、箱開けてへんのに……お母さんもこの箱だけは絶対開けへんし、お父さんも入って来おへんし……」

 なぜ頭が消えたのかわからない、と怯える彼の前で、わたしは腕時計を確認します。彼の母親が部屋に入ってくるまでの猶予を考えます。

 五分少々といったところでしょうか。

 わたしはティッシュペーパーを広げ、その上にざらざらとトンボの頭を出します。以前アドバイスした通り、防虫剤が一緒に転がり出てきました。

 指先で頭をより分けていきますが、どう見てもオニヤンマの頭はありません。

 一通り確認してから再び箱に流し入れ、頭のないオニヤンマを乗せて蓋をします。

 そのままテーブルの下へと隠しました。

 テーブルに塾の問題集を広げ、通常授業を装います。ほどなく、彼の母親がお茶を持って現れました。十分間の休憩時間です。

 彼もわたしも、トンボの箱のことなどおくびにも出さず母親との談笑に応じました。


 彼の母親が出て行ってから、わたしは改めて箱をテーブルにのせます。

「頭がなくなるなんて」彼は母親の相手をしていたときとは別人のようにうなだれます。「誰も信じてくれんし」

「……この箱、なんやと思う?」

「え?」彼は顔を上げました。驚きよりも、怯えが見て取れます。

 その表情で、わたしは彼がこの箱の真意に気づき始めているのだろう、と察します。

「一寸の虫にも五分の魂」

 彼は青ざめました。テーブルから身を引いて、箱から距離をとろうとします。テーブルの角や床、そして母親が出て行ったドアへ視線を走らせてから、彼はあえぐように小さく言います。


 ──俺、呪われてんの?



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