201号室 〈4〉


 202号室から聞こえていた般若心経は、わたしたちが唱和するや途絶えた様子でした。

 一通り唱え終えたわたしたちは顔を見合わせます。

「宗派っ!」と思わず頭を抱えます。

「どの宗派でも唱えるよね、般若心経」と友人が顔をしかめました。

「そして呪いではない! むしろ徳は高い」

「確かに歌っぽいし……音痴と言えなくもない……」

「でも般若心経て……こんな時間まで粘って般若心経て……」

「アカンの?」

「せめてもうちょい気合いの入ったモンがよかった」

 もはや恐怖はありません。そも般若心経は仏教の教えを圧縮したものです。夜中に唱える是非はともかく、怪奇現象としては悪いものではないはずなのです。

「お経のお祓いって」友人は壁を指します。「どうやるの? やっぱりお経で対抗するの?」

「そも、お祓いは管轄外なんだけど」と前置きをしてから、わたしは大きく息を吸いました。そして202号室に向けて声を張ります。

「何時や思とんねん!」

 友人がぎょっとしたのがわかりました。気にせず、わざと標準語を外して凄みます。

「テメェがぎゃーぎゃー騒ぐから、コッチがこんな時間にこんな場所まで呼ばれとんねん。しっかも、般若心経なんつぅハードル低いモン唱えたくせに、コッチが乗ってやったら黙りってどーゆーことや、ああ?」

 隣室は静かなままです。

 はい、と友人に両手を広げて見せます。

「はいって……」友人は、なぜか小声でした。「どういうこと? なにさせたいん?」

「いや、言いたいこと言うといいよ。なるだけデカい声で、お気持ち表明しましょう。言いたいことは声にしないと伝わらないので。はい、どうぞ」

「どうぞって……誰に言うん?」

 わたしは壁を──無人であるはずの202号室を指します。

「……誰が、いるん?」

「さあ? 知らない。でも、般若心経をこんな夜中に、わざとデカい声で唱えるナニかはいるから」

 はい、と再び両手を広げて促すと、友人はぎゅっと両手を腹の前で握りました。

「えっと……深夜に騒がれると、困ります……」

 恐るおそるといった様子で友人は壁に話し、チラリとわたしを窺いました。わたしは肩をすくめて「もっと言ったれ」と小声でけしかけます。

「あなたが騒ぐせいで、わたしたちは無実の人をクレーマー扱いしてしまいました。その人だって出て行ってしまって……下手したら、慰謝料とか言われるところやって……」

 友人の声が消えそうなほど縮み、「そう」と低く、憤りを孕みました。

「住人、出て行ってん。家賃入らな物件維持できんやろうが」友人の語調が強くなり、完全に標準語が排されます。「おまえ一銭も払わんクセに、住人追い出してナンのつもりじゃ」

 もう友人はわたしなど見てはいません。それでも、うんうん、と大きく頷いて同意を示します。

「ほんで、ひとり追い出したら、また次か? ええ加減にせえや」

 ふっと室温が下がりました。

 咄嗟に強く床を踏みます。一度、二度、一度。

 友人が我に返ってわたしを振り返りました。にっこりと笑って見せて、両手を広げて「どうぞどうぞ」と続きを促します。

 けれど一度殺がれた勢いを取り戻せなかったのか、友人はまた「えっと」と気弱な語調に戻ってしまいました。

「……夜に騒ぐなら、出て行ってください」

「いや、そこは、騒がんでも出てけや、言うトコやろ!」

 思わず友人相手に突っ込んでから、わたしは室内を見回します。

 一瞬だけ感じた冷気は失せていました。なんの文言も唱えずとも、足踏みは十分な威嚇になったようでした。

 静まりかえった部屋で、友人は「以上、です」と俯いてしまいます。

 仕方なく、わたしは202号室側の壁に拳を叩きつけます。もちろん、壁を破らないように細心の注意を払いました。

「次騒いで」壁に口を寄せて低く言います。「無事で済む思うなや?」

 202号室は静まりかえっていました。声はもちろん、気配すら感じられません。

 それきりお経が聞こえることはありませんでした。

 一度怒鳴ったせいで目が冴えたのか、友人は一睡もせず夜明けを迎えた様子でした。



 件の足踏みで階下の住人を起こしてしまっただろか、クレームが入るかもしれない、と危惧したものの、友人からそういった報告が入ることもなく一月が過ぎました。

 あの夜以来、唸りが聞こえることはなくなったそうです。


「結局、あれ、なんだったの?」と友人に問われたのは春になってからでした。

 例のアパートが無事に満室になったという報告ついでにお茶でも、と誘われたのです。あまり美味しくないコーヒーを前に、わたしは「さあ?」と首を傾げます。

「ただの騒音?」

「移動する騒音?」

「まあ、そう」と適当に返事をしてから、友人の不満顔に嘆息します。「いや、まあ、持論はあるけどうまく説明できなくて」

 友人は黙って手を広げました。どうぞ語って、と促す仕草です。

「要は感情も声もデカいほうが勝つし、残るんだと思ってて……つまり、無人の部屋でしか騒げないやつは、無人の部屋であっても隣室とか家主とか管理人とかから怒られるとわかった途端に騒げなくなるんだよ」

「なにそれ、子供か」

「気が小さいんだと思ってるし、思うことにしてる」

「それがお祓いのコツ?」

「お祓いは管轄外です」

 言い切ったわたしに友人は「じゃあ」と嫌な笑みを浮かべました。

「金一封は要らないよね」

 じゃあ、の理論がわからず、わたしは「なんで?」と間抜けに問います。

「だって、実際にお祓い行為、っていうか怒ったのはわたしだから」

「いや、まあ、そうだけど……」

 迫力不足の説教と、けれどあの部屋の住人を追い出す権限を持っているのは他でもない友人であるという事実とが頭の中でぐるぐると回ります。

「ここは奢ってあげるから」

 友人はニヤニヤと笑いながら、恩着せがましく伝票を摘まみました。

「また、なにかあったら相談に乗ってね」

 もっと怒鳴り散らしておけばよかった、と苦々しく思いながら、わたしはケーキを追加で注文します。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る