行き止まりの廊下

第2話 行き止まりの廊下 〈1〉


 その家には、西京さいきょう焼きのために呼ばれました。

 西京焼きとは、京都の白味噌(西京味噌)に漬けた魚の切り身を焼いたものです。鰆や鱈が有名ですが、通常の味噌よりも麹が多いために鶏肉などを漬けて焼いても美味しいそうです。

 西京焼きを所望した家は、京都を走る花折はなおれ断層の真上、京大のグラウンドを見下ろす白川疎水の西側に広がる住宅地の一角にありました。

 門扉の横に駐車スペースがあるほかは、ブロック塀の中にみっちりと建物を詰め込んだような家です。

 インターフォンを押すと、すぐに女性が出てきてくれました。この家の家政婦をしているパキスタン人女性です。わたしの友人は彼女を「コマチさん」と呼んでいましたが、それは彼女が勤めている飲食店での呼び名でした。

 コマチさんは昼はこの家で家政婦として働き、夜は祇園の飲食店で給仕として働いているのです。

 そんなコマチさんから「西京焼きを焼いてほしい」と頼まれたのは数日前のことでした。

 なんでも、この家の主──コマチさんをはじめとする、わたしの友人たちは家の主を『ご隠居』と呼んでいました──が「西京焼きが食べたい」と言ったために挑戦したところ、味噌を拭き取らずに焼いて焦がしてしまったらしいのです。

 ご隠居はそれはもう怒って、コマチさんをクビにする勢いだったといいます。

 その話がコマチさんが夜に働く飲食店の店主に伝わり、その飲食店が入るビルの管理人に伝わり、巡りめぐって不動産をやっているわたしの友人の耳に入ったそうです。

 そうして「京都人なら西京焼きくらい焼けるでしょ」という偏見の元に、わたしが派遣されました。


 初めまして、の挨拶もそこそこにコマチさんはわたしを迎え入れてくれました。

 広い玄関の隅にスロープが立て掛けてありました。三和土を上がってすぐ右手にバリアフリー化されたトイレと、二階へ続く階段がありました。左手は和室です。

 廊下を抜けると広いリビングダイニングでした。カウンターキッチンからリビングが見渡せます。

 そしてリビングには大きな電動介護用ベッドが置かれていました。傍らにはポータブルトイレと歩行器とがありました。大型テレビが古いテレビドラマの再放送を垂れ流しています。

「ご隠居」とコマチさんがベッドの上の老人を呼びます。「西京焼き、焼いてくれる人です。来ました」

 ゆっくりと、ともすれば億劫そうに、老人はテレビから視線を外してわたしを見ます。頭の先からつま先まで眺め回してから、老人は「この女」とコマチさんを顎で指して鼻を鳴らしました。

「西京焼きもよう焼かんのや。信じられるか?」

「あ?」とうっかり物騒な声が漏れました。慌てて取り繕った笑みを作ります。「いや、そりゃご隠居だって、いきなりナンを焼けと言われてもうまく焼けないでしょう? おんなじですよ」

「ああ?」と今度はご隠居が物騒な声を出しました。やけにドスの利いた威嚇です。「なんや、ワシがまちごうとる言うんか?」

「間違いとか正しいとかではなく、他所の国の食べ物は難しいって話ですよ」

 ご隠居は不愉快そうに鼻筋にしわを寄せて、わたしの作り笑いを睨み付けました。そのまま数秒、お互いに黙って見つめ合います。

 先に折れたのはご隠居でした。

「もうええ」とひらひらと手を振ってわたしたちを追い払う仕草をします。「はよ作れや」

 ご隠居の手に小指がないことに気づきました。両方ともの手に小指がないのです。左手に至っては薬指までが根元から切断されていました。

 なるほど、とご隠居の妙にドスを利かせ慣れた様子に納得します。その筋の人だったのでしょう。

 わたしは黙って踵を返しました。そのとき。

「アンタ」とご隠居が静かな声で言いました。「ワシが怖ないんか」

 はあ? と頓狂な声を漏らしそうになって、今度は呑み込みます。ゆっくりと振り返り、わざとらしくベッドの上に投げ出されているご隠居の両手に視線を落とします。

「不便そうだな、とは思いますけど……書き物するとき、小指ないとバランス悪くて腱鞘炎になりそうだし、約束するにしてもできないですし」

 ご隠居の頬にさっと赤みが差しました。揶揄されたと思ったのでしょう。

 構わず自分の小指を立てて、ひょこひょこと動かして見せます。

 そんなわたしの仕草に、ご隠居はそっと両手を握りこんで指の欠損を隠しました。

「まあ」わたしはと語気を弱めます。「魚一切れでうるせぇなぁ、とは思いますけど、怖くはないですよ」

「ああ?」と今度は元気な唸りが返ってきました。「なんやぁ、そん口の利き方は。何様のつもりじゃぁ、ワレ!」

 老人のヒステリックな叫びとは違う、腹の底から轟くような怒声でした。コマチさんが身を竦めるのがわかりました。

 だからこそ、わたしはへらっと笑って見せます。笑みを浮かべたまま、声を低めます。

「ナニサマて……ご隠居こそ、ナニサマのおつもりですか」

 刹那、なにかが飛んできました。

 反射的に身をひねります。「あ」とコマチさんが小さな声を上げて、額を押さえました。硬い音がして、床にテレビのリモコンが落ちました。

 ご隠居がリモコンを投げてきたのです。

 コマチさんは誰にともなく小さく「だいじょうぶ」と呟くと、リモコンを拾ってベッドの上に戻しました。

「いやいやいやいや」わたしはリモコンを取り上げて、テレビの電源を切ります。そしてリモコンをリビングのテーブルへと置きます。

「なにやっとんじゃ! 返せ!」

「いいですか?」ご隠居の怒声を無視して、わたしはふたりを交互に見ます。「殴り合ったら、我々が勝ちます。わたしたちは、怒鳴るだけの口に枕を押しつけることができます。腕力ばんざい」

 コマチさんは、わたしの発言の真意を測りかねている様子でした。ご隠居はただ黙って、消えたテレビに顔を戻しました。

 わたしはコマチさんを促してベッドに背を向けます。ご隠居がぼそぼそと何事かを呟いていたようにも思いましたが、無視しました。


 ようやく仕事に取りかかれることになり、わたしはまず洗面台を借りました。

 ちょうどキッチンの真横、廊下からリビングに入った右手側に脱衣所つきの風呂場がありました。脱衣所の洗面台で丁寧に、袖をめくって肘までを泡立てて手を洗います。万が一にも食中毒などを出すわけにはいかないからです。

 真新しいタオルで手を拭いて脱衣所を出たことろ、真正面に廊下が延びていました。

 なぜか強い違和感を覚えます。

 キッチンの裏の壁と家の壁とに挟まれた廊下でした。電気がつないせいで、昼なのにじっとりとした暗さが澱んでいます。

 廊下のどん突きに、ぼんやりと白いものが置かれていました。

 ──骨壺だ。

 瞬間的にそう思いました。

「どしたの?」とコマチさんに声を掛けられて、文字通り飛び上がりました。

「いや……あれ……」

「ああ」コマチさんは声を潜めます。「トイレとオムツのゴミ箱」

 え? と目を凝らせば、確かに白い円柱形のゴミ箱でした。ご隠居に配慮して目の届かないところに置いているのでしょう。

 それにしても暗い廊下の先にゴミ箱ひとつきりが置かれているさまは不気味なものがあります。

 不気味、と思って、気づきました。

 廊下のどん突きはもとより、左右にも扉がないのです。ただまっすぐに、壁と壁の間に、幅二メートルほどの廊下が延びているだけなのです。

 どこにもつながっていない廊下の先に、骨壺めいたゴミ箱だけが置かれていました。

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