201号室 〈3〉
一月半ぶりのアパートは、以前より寒々しくなっていました。季節が進んで冬に近づいたせいでしょう。
わたしがアパートに到着したときにはすでに、友人と不動産屋の男性従業員とが乗る白いセダンが表通りに停まっていました。
「どういうこと?」と乗り込みざまに訊けば、「それはこっちのセリフや!」と鬼のような剣幕で怒鳴られました。
「なんもないって、言ったやん」
「いや、なんもないて、ふたりで確認したやん」
標準語が外れた友人に合わせて軽い口調を装いましたが、友人は眉間のしわを深くしただけでした。
仕方なく「で?」と話を続けます。
「今度は203号室からクレーム来たって?」
「そう。202号室から、夜にうめき声がするって」
「前の歌って話はドコいった?」
「音痴すぎて歌に聞こえんとか?」
「あり得なくはないと思うけど……実際に聞いてみないとなんとも」
わたしたちは車を降りて、アパートの外階段を上がります。
と、廊下のどん突きにある201号室のガスメーターに札がぶら下がっているのが見えました。ガスが止まったままなのです。
「201号室って、まだ空き部屋?」
「この時期やし」
入居希望者が現れないのだ、と友人は嘆息して、202号室の扉に鍵を差し込みました。
不意に、ある可能性が浮かびました。
「あのさ、これ、201号室にいたらどうなると思う?」
友人は「どうって?」と首を傾げます。
「いや、前に音を聞いたのは202号室の住人で、そのときは201号室が空き部屋やったやん?」標準語が外れたことには気づきませんでした。「で、今は203号室の人間が音を聞いてて、202号室が空き部屋」
「……空き部屋で音が鳴ってるってこと?」
「人がいる部屋では音が鳴らないのでは? 前は201号室に泊まり込んでても、201号室では音が聞こえんで、でも同じ時間に202号室では聞こえてたっぽいし」
三人ともが廊下のどん突き、201号室に顔を向けました。
泊まり込みも二度目となると勝手知ったるものです。
男性従業員が「お泊まりセット」をとりに行っている間に、友人とわたしは202号室を確認することにしました。不法侵入者の生活音である可能性の排除です。
そしてもうひとつ、お互いになにを言うでもなく、別の可能性も探していました。
──呪具です。
呪いや霊障とは人間に観測されない限り成立しません。そして今回の騒音は観測者を求めて移動していました。202号室が空き部屋になったことで被害が203号室に及んだのだとすれば、それは前回の調査で呪いの可能性に思い至らなかったわたしの責任でもあるのです。
とはいえ、呪具などこれまでに二度しか見たことはありません。素人の呪具など作るのに手間ばかりがかかって、効力はイマイチなのです。
問題の202号室と、今夜泊まる予定の201号室、ついでにアパートの敷地も一通り捜索しましたが、なにも出てきませんでした。
わたしたちはまた201号室のフローリングの床にガスランプを置いて夜を待ちました。
前回の退屈から学んだのか、友人は漫画を十冊ばかり積み上げていました。わたしは前回同様文庫本を持ち込みました。
午前一時に友人が寝袋に入り、一時間半後に交代する約束をします。
それに気がついたのは午前三時の少し前でした。うっかり眠りかけていたのかも知れません。友人を起こす時間を過ぎていました。
んーんー、と冷蔵庫が唸っていました。そう思ってから、この部屋に冷蔵庫なんかないことを思い出します。エアコンを仰ぎますが、コンセントが抜けたままです。
んーん、と唸りが高くなり、低くなり、一呼吸途切れて、また唸ります。抑揚は「歌」と呼べなくもないものです。
寝袋を蹴って友人を起こすついでにベランダに出ます。ヒヤリと秋の匂いがしました。首を伸ばして階下を覗きます。101号室は真っ暗でした。
どこかの部屋でエアコンが動いている気配がしましたが、先ほどの音とは違っています。
表通りに停まっていた白いセダンから、男性授業員が出てくるのが見えました。わたしがベランダに立ったのが見えたのでしょう。
軽く手を挙げてから、部屋に戻ります。
体を起こした友人と眼が合いました。寝袋に足を突っ込んだまま、せわしなく周囲を見回しています。
鈍い唸りが、続いていました。
膝を突いて床に耳を当てます。じりじりと機械の稼働音がしました。階下の換気扇だか冷蔵庫だかでしょう。202号室とは逆にある壁に耳を当てても同じです。
202号室側の壁に耳を当てると、わずかに唸りがはっきりとしました。
なにか、言葉が聞こえた気がしました。耳を澄ませます。いつの間にか友人も壁に耳をつけていました。
唸りは数フレーズごとに息を継ぐような途切れがありました。
ややして、ふたりともが「あ」という顔になりました。
「お経……」と友人が呟きます。「なんだっけ、これ」
低い唸りは、お経でした。わたしは合うリズムを記憶に探します。
「……ぜーだいじんしゅ、ぜーだいみょうしゅ?」
自信なく唱えた言葉が、唸りのリズムに重なりました。友人も「ぜーむーじょうしゅ」と唱和してきます。
けれど、馴染みのある「ぎゃーてーぎゃーてー」の下りに達したあたりで唸りが消えました。友人とわたしのお経だけが201号室に響きます。
最終的に、般若心経、と締めくくったときには元の静けさが戻っていました。
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