201号室 〈2〉
夜の十時を過ぎたころ、電気の通っていない201号室に寝袋を抱えた友人が来ました。なにやら大荷物を抱えた不動産屋の男性従業員をひとり従えています。
わたしはといえば、近所の小さなうどん屋で夕食をとり、コンビニで買った懐中電灯と文庫本で時間を潰しているところでした。
唖然とするわたしの前に、ガスランプだのトランプだのスナック菓子だのが並べられます。
「キャンプ?」と呆れるわたしに、友人はニヤっと笑いました。
「せっかくだから楽しまないと」
「不法侵入者がご帰宅なさるやもしれんのに?」
「そのための男手です」
友人は男性従業員を親指で示してから、彼を振り返りました。「もういいよ」と手を振ってあっさりと部屋から追い出します。
「表の車で待機させるから」
気兼ねなく朝まで楽しもう、と友人はさっそく炭酸飲料のペットボトルを開けてスナック菓子の封を切ります。まるで緊張感がありません。
フローリングの床にガスランプを置いて、頼りないオレンジ色の光の中で菓子を頬張りながら時間を潰します。カーテンのない掃き出し窓に自分たちの姿がおぼろに映り込んでいました。
とはいえ、友人が楽しそうにしていたのも、隣室の──クレームをつけてきた202号室の住人の生活音が消えるまででした。
端的に言えば、友人は飽きたのです。
そもそも、目的は騒音の調査です。話に夢中になって聞き逃したのでは意味がありません。ぼそぼそと囁き声で交わす会話も途切れがちになります。ガスランプの柔らかい明かりは想像以上に眠気を誘いました。
午前一時を過ぎたあたりで、交代で眠ろう、という話になりました。
「午前七時まで、一時間半ずつ寝よう」と提案したときにはもう友人は寝袋に入っていました。「まあ、いいけどね」とひとりごちて、わたしは読みかけの文庫本を開きました。
本の内容は覚えていません。ガスランプの揺らぎのせいか、常に眠気がありました。
時折、202号室側から小さな悪態が聞こえました。午前三時ごろには、ごんごんと壁を叩かれました。
なにか聞こえているのだろうか? と耳を澄ましても、なにも聞こえません。ベランダに出てみましたが、どこかの部屋のエアコンが稼働している音がするだけです。それだって室内にいて気に障るような音量ではありませんでした。
そうしてなにも聞こえないまま、冷ややかな夜が明けました。
わたしたちは寝不足の腫れぼったい瞼で朝を迎え、登校前の202号室の住人を捕まえました。
線の細い男子学生でした。脱色した黄色い髪は根本付近が黒くなっています。
彼は友人が不動産屋だと知ると途端に不機嫌顔になりました。
「いつになったら隣、黙るんですか」
「……隣、空き部屋なんですが」
「じゃあ誰かが住み着いてるんですよ。警察呼んだ方がいいんじゃないですか」
吐き捨てるように言って友人を押しのけた彼に、わたしは「昨日も」と尋ねます。
「音、してました?」
「してましたよ!」
「三時ごろ?」
壁が叩かれた時間でした。
「そーですよ!」
「話し声?」
「だから! 歌ってんですって、へったくそが、延々と!」
ひっくり返った怒声を残して、彼は外階段を乱暴な足取りで下りていきました。
入れ違いのように、表通りに停めたセダンで夜を明かした男性従業員が上がってきます。手にはコンビニの袋を提げていました。どうやら朝食を買ってきてくれたようです。
201号室のフローリングの床で朝食を囲みながら、我々はひとつの結論に達していました。
誰も歌ってなどいないのです。一晩泊まり込んで、201号室に侵入者はなく、騒音も確認されず、表通りから見ていても異常がなかった。
つまり歌が聞こえているのは、202号室の彼だけなのです。
「幻聴ってカウンセリング? 精神科?」
「さあ?」
と無責任で不謹慎な会話が交わされ、それっきりでした。
一月ほどして202号室の住人は部屋を引き払ったそうです。
その報らせを受けたとき、もはやわたしはそのアパートのことすら忘れかけていました。友人ですら気に留めなかったそうです。
それから二週間ほどして、203号室の住人から「深夜にうめき声が聞こえる」というクレームが入ったのです。
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