第81話 甲状腺機能の話。

 内分泌疾患の中で糖尿病(インスリンの作用不全)と双璧をなすほど患者さんが多いのは甲状腺疾患である。であるが、典型的な症状を呈しない場合には見逃されることが多い疾患でもある。特に、高齢者の甲状腺機能低下症は気づかれないことが多い。


 たまたまけがをして、自宅で生活ができないとのことで入院となった患者さん、身体所見で両下肢ともひどいnon-pitting edemaを認めた。この方はうっ血性心不全も重度、末期腎不全があるが、浮腫の原因はそれではなく甲状腺機能低下症ではないか、と考えた。新入院患者さんを受け入れるときには、必ずカルシウム、マグネシウムと甲状腺機能を評価しているのだが、果たして患者さんは、TSHが>200と著明な甲状腺低下症を認めた。甲状腺ホルモンであるチラーヂンSの内服を開始、漸増し、それに伴って急速に下腿浮腫は改善した。粘液水腫による浮腫だったのである。


 また、甲状腺機能亢進症は頻拍などの症状があり、甲状腺腫も目立つことが多く、「甲状腺機能亢進症」と診断をつけるのは難しくないのだが、本当に甲状腺機能が亢進しているのか、自己免疫などで甲状腺に炎症を起こし、甲状腺が破壊されて甲状腺ホルモンが漏れ出しているのかを区別するのが難しい。教科書的には放射性ヨードを使ったシンチグラムで、ヨードの取り込みを見るのが確定診断となるが、実際のところはなかなか診断がつけづらい。甲状腺刺激抗体の値などを見て、本物の甲状腺機能亢進症なのか、亜急性甲状腺炎で甲状腺が破壊されているための甲状腺ホルモン上昇なのか、考える必要がある。


 そして困ったことに、甲状腺機能亢進症も、甲状腺機能低下症も時に命にかかわることがあるのである。


 とある日の朝の振り分け、90代男性の意識障害の方が入院していた。ERから入院させてくれたのは消化器内科の秋山部長。消化器内科以外の臨床力も本当に優れていて、甲状腺機能を評価、著明な甲状腺機能低下症を確認し、「粘液水腫昏睡」と適切に診断をつけて入院を上げて下さっていた。Up to dateなど、アメリカの教科書では、ステロイドを投与し、十分かつ速やかに甲状腺ホルモンを補充すること、と記載されているが、たまたま指導に来ていた当グループ設立当時からの内科トップであった内分泌学を専門とする山下先生は、

 「教科書に書いてあるように急激に補充すると、特に高齢者では心筋梗塞を起こして命にかかわるので、チラーヂンはゆっくり漸増するように」

 とアドバイスを下さった。患者さんは、2年次研修医の先生に主治医をお願いしたが、しっかりと診てくださり、チラージンをゆっくり補充していき患者さんもゆっくり改善。2か月の研修期間の終わりころに、患者さんは歩いて帰ることができた。


 複数の臓器障害を伴う、高度な甲状腺機能亢進症は「甲状腺クリーゼ」とよばれ、前述の粘液水腫昏睡と同様に、本来はICUで管理する疾患である。


 とある日の夕方、循環器内科あてに頻拍の患者さんが紹介された。循環器内科の坂谷部長が診察し、甲状腺機能亢進症と診断、頻拍に対して、βブロッカー 1Tを処方し入院としていた。カルテを確認すると、入院後も患者さんは夕方から深夜にかけて、動悸、胸の苦しさを繰り返し訴えられており、その1錠のβブロッカーでは効果不十分であったようだが、特にそれ以上の処置をされていなかった(なぜその時点で内科当直医を呼ばない!!)。翌日の未明、患者さんは心肺停止となり、当直医のCPRで心拍再開。ICUに転床となっていた。


 朝の振り分けの時に、主治医未定でICUに患者さんが入院されており、カルテを見ると、上記のような経過だった。坂谷先生に主治医の継続をお願いするが、

 「心肺停止蘇生後だから、総合内科でよろしく」

 とのこと。私の循環器内科の師匠であるが、さすがにそれはないだろう、と思った。夜間帯の受診なので、どうしても深夜帯は手薄になるが、初期対応、あるいは夜間帯の異常時指示を慎重にしていれば、患者さんはCPAにならなくても済んだのではないか、と強く思った。


 患者さんはまだ50代と若く、ご家族も20代の子供さん、動悸がひどい、とのことで前日入院したのに、次の日には心肺停止で明日の命もわからない状態となっており、当然ご家族は当院に対して不信感で一杯。このような症例をほかの人に振るわけにもいかないので、振り分け担当者の私が主治医を引き受けた。病状説明を行ない、病態の理解をいただくのにとても苦労した。患者さんは2週間ほどで、心肺停止後低酸素血症で永眠された。最後まで患者さんの家族は私たちに不信感を持っていた。それは仕方がないことだろう。初期治療を適切にしていれば、失われなかった可能性の高い命である。


 そういう意味で、医療の世界では、知は力である。知識があることで、命を助けることができるのである。また逆に、知識がないことで、患者さんの命を危険にさらすのである。



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