第60話 10秒で診断できるか?

 とある日曜日のER。理由は忘れたが、ERにはその時間は私と1年次初期研修医の二人だった(ふつうは九田記念病院ERには3人の医師がいるはず)。7:30の引継ぎから30分ほど経った8時ころ、ホットラインが鳴った。50代の女性でひどい倦怠感を主訴に搬送したいので受け入れをお願いしたいとのこと。1週間ほど前から倦怠感がひどく、4日前に近医を受診し「風邪」といわれたが改善しない、との救急隊からの情報だった。血圧はやや低め、それなりに頻拍、酸素飽和度は酸素2L投与下で97%とそこまで悪くない。

 「わかりました。来てください」

 と伝え、研修医の先生に、こんな人が来るから用意をしておこう。と声をかけた。


 10分ほどして患者さんが搬送されてきた。ERの入り口で見た瞬間に何となく、

 「あっ、これヤバい」

 という感じがした。当院のストレッチャーに移乗したとたん、患者さんが

 「あぁーっ!」

 と声を出して意識を失ってしまった。すぐに除細動器(+モニタ)を胸につけ、研修医の先生がアンビューバッグで呼吸をサポートし始めた途端に心肺停止となった。

 「何が起こっているんだ??」

 と把握できないままに心肺蘇生術(以下CPR)を開始。ERの医師が一人足りないので、動脈ガスが取れない。心臓マッサージを交代しながら、後輩がアンビューバッグで呼吸をサポート。手が足りないので内科当直の先生にも降りてきてもらい、CPRを継続した。モニターではPEA→Asystoleとなった。採血、ガスの結果も出たが、当然心肺停止後の採血なので、電解質は狂っていて、アシドーシスも強い。ただ、トロポニンは陰性、炎症反応は低値だった。BUN/Creもおかしな値ではなく、1週間前からの倦怠感とうまくつながらない。

 何が原因かさっぱり分からず、心拍も再開しない。とりあえず、CPRを継続しながら全身のCTを撮影しようと判断。CPRをしながら患者さんを放射線科に移動した。私がプロテクターをつけ、心臓マッサージを継続。撮影の瞬間は人工呼吸を止め、被曝を避けるため後輩にCT室から出てもらい写真を撮影した。頭部CTでは明らかなクモ膜下出血や橋出血などはなさそうだった。CPRを再開し、次はその時だけCPRを止め、胸腹部のCTを撮影した。ディスプレイ上に出てくる、再構成する前の画像を見て大変驚いた。大動脈解離などはなさそうだが、両肺に多数の腫瘤影があり、胸水が少量、心嚢液が大量に貯留していた。すぐにCPRを再開しなければならないので、CTのディスプレイをちらっと見ただけでのざっとした評価だが、悪性腫瘍の肺内多発転移、胸水、高度の心嚢液貯留があり、CPAの原因は心タンポナーデ(心嚢液が急激に貯留し、心臓の動きを妨げる状態)だと判断した。


 CPRを継続しながらERに戻り、心嚢液のドレナージを試みた。心臓マッサージを10秒ほど止め、セルジンガー式CV line挿入キットを用いて剣状突起の右側からblindで心嚢を穿刺。血性の心嚢液を400mlほど回収した。その後、心臓マッサージを再開しながら心嚢内にCV lineを挿入し、持続して排液をしながらCPRを継続したが、それでも心拍は再開しなかった。その後も懸命にCPRを継続したが、心拍再開しなかった。心嚢液穿刺排液後から30分以上CPRを行なったが心拍は再開せず、モニターはasystole。これ以上のCPRは不自然に身体を傷つけるだけと判断し、CPRの停止を決定した。付き添いのご主人にERに入室してもらい、来院直後から心肺停止状態となられ、心肺蘇生術を継続したが心拍が再開しないこと、長時間の心肺蘇生術で肋骨もたくさん折れた状態になっており、これ以上CPRを続けても、いたずらにお身体を傷つけるだけになることを説明し、CPRを停止し、死亡確認とすることを説明し、同意を得た。同意を得て診察を行ない、死亡と診断した。


 その後、ご主人を電子カルテのそばに来ていただき、CTの写真について説明。胸部写真で、肺に多発する腫瘤影があり、胸水と心嚢液が溜まっていること、病名としては肺がんの多発転移と、心膜(心臓を包む膜)転移に伴う急性の心嚢液貯留とそれに伴う心タンポナーデが死因とお話しした。突然のことでご主人は茫然としていたが、こちらの説明には淡々とうなずかれ、事態を飲み込めないけど、何となく分かったような、という印象だった。来院時は生きておられ、明らかに致死的な疾患が見つかっており、異状死ではなく病死と判断し、私が死亡診断書を作成した。


 おそらく、当院到着時には心肺停止直前で、後輩がアンビューバッグで人工呼吸を開始したため、胸腔内が陽圧になったのがとどめになったのだと思われた。心臓は、肺循環と体循環を担っているが、最も低圧の右心房は内圧が10mmHg程度であり、心タンポナーデの状態で胸腔内圧が陽圧となれば、すぐ外圧で閉塞してしまう。そうすると循環のカギになる心臓そのものが閉塞機転となってしまうので、当然循環停止となってしまうのである。


 来院してからCPAになるまで、10秒程度だったが、その10秒で心タンポナーデを診断できたかどうか考えてみた。右心系のうっ滞があるので、頚静脈怒張はあると思うが、心不全かどうかは判断が難しい。頚静脈の拍動についてはちらっと10秒、患者さんの全身を見るだけで判断するのは極めて困難。心タンポナーデといえは奇脈と教科書に記載があるが、奇脈の評価方法は、まず血圧を測定し、マンシェットを収縮期血圧より10mmHg程度低いところで固定。深呼吸をしてもらい、コロトコフ音が聞こえるときと聞こえない時があれば診断、となるが、今回の症例の様に頻呼吸で、深呼吸ができなければ奇脈は動脈圧を観血的に測定できなければ不可能と思われた。あとは、外傷で来られた患者さんでなかったが、速やかにFASTを評価(このころは、外傷時の主要臓器損傷の評価目的としてFASTをする、ということが普及してきたところだった)する以外に心タンポナーデを診断することは難しいと思われた。ERに5-6人医者がおられる救命救急センターなどではいざ知らず、2人の医師で(しかも一人は初期研修医)ERを見ていれば、やはり難しかったのかなぁ、と思われる。


 とにかく、この患者さんは、来院されてすぐに循環動態の破綻が来たこと、良かれと思って開始した呼吸のサポートが命を失う最後の引き金を引いたこと、CTで予想もしていなかった多発性の肺腫瘍と心膜転移、心タンポナーデが見つかったこと、4日前に診た医師が、「風邪」と診断した理由は何だったんだろう、ということ、そして救命のためには何が必要で、何ができたのだろう、パッと見た10秒間でどう判断すればよかったのだろうと今も自身に問いかけている、という点で、忘れられない患者さんである。


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