第56話 突然の悲劇、そして奇跡
とある日、ERの石井先生から電話がかかってきた。
「保谷、ERに今から来い!」
と。何だろう、何かヘマでもしたかなぁ、とドキドキしながらERに降りて行った。ERに行くと、ボスから
「20代の男性やねんけど、歯磨き中に後ろから呼ばれたので振り向いたとたんに四肢麻痺を起こして倒れてしまったそうやねん。MRIではわずかやけど延髄に梗塞性の変化があるんや。一応脊髄損傷のdoseでステロイドは流している。転院先を探したけど、受け入れ先がなくて、うちの脳神経外科に連絡したら『無理』、整形外科に連絡したら『無理』ということやから、総合内科でよろしく」
とのこと。え~~っ!!そんなん無茶振りやん!と思ったけど、ボスの言うことに逆らえるほど私は強くない。それに、私が診なければ、この人は誰が診るのか。そう考えると、私が診ざるを得ない。総合内科は、他科で断り続けられた人の最終的な受け入れ先となることもしばしばあった。それで、つらい思いをすることもあったのだが、それはそれとしてまた書くこととする。
そんなわけで、患者さんに挨拶、身体診察を行なった。意識は清明、心音、呼吸音には異常を認めず。自発呼吸は可能だが、呼吸苦があるとのこと(おそらくC4の横隔神経は障害を受けず、横隔膜での呼吸は可能だが、肋間筋などの呼吸補助筋がマヒしているためだと思われた)。感覚については頚部より遠位は消失、四肢の運動についても完全麻痺だった。直腸診を行なうが、肛門括約筋は弛緩。陰茎は勃起していなかった(脊髄損傷で、陰茎が勃起しているのは予後不良のサイン)。四肢の腱反射は消失。明らかに急性の脊髄損傷を示唆する所見だった。ERにご家族にも入っていただき、ご本人も含めて現状をお話。
「何が原因かはわかりませんが、振り向いた瞬間に頚部の脊髄の血流が障害されたようで、現在、脊髄が広く障害されています。今、首から下の感覚、運動が障害されています。今後、どの程度機能が回復するかは現時点では全く予測できません。場合によっては、このまま寝たきりになることも十分考えられます」
と。来られていた家族はお母様と奥様。ご家族のことを伺うと、3か月のお子さんが生まれたばかり。ご本人のお仕事は肉体労働をされていたそうである。現時点では楽観的なことを言える状況ではなかったので、病状説明は(口調や言葉は非常に注意を払っていたが)厳しいものだった。奥様も、お母様も、ご本人も涙を流されていた。
そんなわけで、総合内科に入院していただいた。嚥下機能は問題なく、介助で食事はとれていた。脊髄損傷に対するステロイド療法も1日で終わるので、あとは、患者さんが回復するのかしないのか、これは経過を見ないとしょうがない。あとは、脊髄損傷の方では尿路感染を起こしたり、尿閉から極端な高血圧を起こすなどの特徴ある症状があるので、そのような症状の有無の確認、褥瘡への配慮などを中心に管理することとなった。もちろん、毎日回診をして、ご本人のお話を傾聴するのも大切なことだった。
Bow-Hunter Syndrome(Bow-Hunterとは弓矢で狩りをする人のこと)という疾患があり、弓を放つ人の様に首を大きく横に曲げたときに、頚椎の横を走行している椎骨動脈が圧迫されて血流低下を起こし、めまいや失神を来す疾患である。今回の患者さんも同様のことが起こり、延髄付近に一時的に虚血を起こしたのではないか、と推測しているのだが、根拠のあることではない。
患者さんが入院して5日目だったか、朝の回診時に、「先生、僕の勘違いかもしれないけど、両手に、シーツが触れている感覚がするんです」とおっしゃられた。実際に、患者さんの指に触れて、「どの指に触れていますか?」と問うと、正しく答えられる。感覚が戻ってきていた。手は動きそうですか?と尋ねるとごくわずかだが、前腕の筋肉が収縮しているようだった。看護師さんに来てもらい、体勢を取って直腸診を行なうと、肛門括約筋の緊張も正常化している。脊髄損傷から回復してきているようだ。回復の兆しがあるのであれば、専門医に治療をお願いした方が絶対良いと判断した。今は病院名が変わっているが、当時の大阪厚生年金病院 整形外科が交通外傷などに起因する脊髄損傷の治療を多数担っていて、治療成績も悪くなかった。転院調整を行なうと同時にご家族に連絡、症状の改善の兆しがあるので、専門家のいる病院に転院の手配を行ないます、と告げた。面会時間に奥様、お母様が来られ、ご本人とも涙を流して喜んでおられた。もちろん、完全に回復する保証があるわけではないが、回復の兆しが見えたことが本当にうれしかったと思う。
患者さんは数日後に転院が決まったが、その数日の間にも目覚ましいような回復を見せた。まだ抗重力運動はできないが、明らかに指示した部位の筋収縮が見られるようになっていた。
そして、数日後、患者さんは転院されていった。小さなお子さんを抱えた若いお父さん、できるだけ元気になるようにと祈りながら見送った。
それから2年ほど経ち、患者さんの名前も忘れてしまっていたころに、患者さんが外来に受診された。入院時の経過、入院中の経過について、保険金請求の書類作成のために受診されたのだが、私もカルテを見て、ようやくあの時の脊髄梗塞疑いの患者さんだと気が付いた。それほどまでに麻痺は改善しておられた。歩いて診察に入ってこられたのである。「お元気ですか?その後の経過はどうだったのですか」と質問、リハビリを行い、ADLは改善し、麻痺もどんどんと改善。残念ながら、左の足関節にはマヒが残り、装具をつけないと足関節の不安定性で転倒してしまうそうだが、装具をつけていれば日常生活は問題なく可能となり、仕事についても事務職に配置転換してもらい、仕事も継続されているとのこと。ご家族の皆さんもお元気で過ごされているとのことだった。
「先生に助けていただき、本当にありがとうございます」
「いえ、私のできることは何もなかったのです。○○さんが頑張られた結果です。でも本当に良かったです」
と言葉と握手を交わして、患者さんは帰って行かれた。書類については、うれしい気持ちで作成することができた。
患者さんがお元気になられて、本当に、本当に良かったと心から思った。
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