第53話 そういう名前だから!
とある日のER。23時になろうとするころだったか、ホットラインが鳴った。隣の市の救急隊からだった。救急車には警察の方も乗っているようで、
「死亡確認をお願いしたい」
との依頼だった。何か変だなぁ、と思いつつ、
「わかりました」
と返答。当院に来ていただくこととした。その日のERメンバーは、私、1学年下の内科後期研修医の浦(うら)先生、そして初期研修医の仲埜先生の3人だった。
しばらくして救急車が到着、患者さん(と言っていいのか?)と、その息子さんが降りてこられた。患者さんのお身体を見ると、首には深い縄の跡があり、おそらく首をつって自死されたのであろうと推測された。お身体も冷たくなっており、関節は固く、両下肢には圧迫で消退しない死斑が認められた。おそらくお身体の変化からは、亡くなられて数時間は立っているのだろうと思われた。
しかし、息子さんはその事実を受け入れない(受け入れられないというべきか)。
「何度も親父に電話をして、ずっと『電波の届かないところにいます』という反応だったけど、親父のところに行く15分前に電話をかけたときは、呼び出し音が鳴ったんだ。だからその時まで親父は生きていたはずだ!」
と繰り返していた。
なるほど、それで状況が理解できた。どうして警察が出てきて、明らかに死亡している状態なのにこちらに死亡確認を依頼したのか。いくら警察が言っても納得しなかったのだろう。それでこちらに連れてきたのだろう。
「今、お身体を診察させてもらいましたが、体温もひどく下がっており、関節が硬くなったり、足に赤くなった皮膚の変化が見られます。関節が硬くなったり、足の皮膚の変化が出現している、ということは、お亡くなりになってから数時間は経っていることを示しています。残念ながら、命を取り戻すことはできません」
と言葉を選びながら伝えたが、当然相手は聞き入れるはずもなく、
「いや、親父はついさっきまで生きていたはずだ!早く蘇生処置をしろ!」
と怒鳴っていた。
死後硬直や死斑の出現などを総称して「死体反応」と呼ぶ。これは法医学の分野でそのように定義されているので、何か特別な意味を有したりしているわけではない。
前述のやり取りを数回繰り返していたが、何度目かのやり取りの時に死後硬直、死斑の出現をまとめてしまい、
「残念ですが、医学的にはお身体に「死体反応」が出ているので、命を取り戻すことは無理です」
と伝えた。
すると、息子さんは、
「死体反応」
という言葉尻をとらえて、
「お前、今、親父のこと『死体』って言うたな!俺の親父をモノ扱いするのか!お前、今の言葉許さんぞ!」
と今度は怒りを私の方にぶつけてきた。私の方は、モノ扱いなんて考えていなくて、「死体反応」が出ているから、
「死体反応が出ている」
と言っただけである。とんだ言いがかりであるが、出した言葉は引っ込めようがない。しかも、死体反応が出ているのは事実であって、私はありのままを言ったに過ぎない。さらに言ってしまえば、生きている人の身体を「肉体」と呼ぶのもいわばヒトをモノの側面からみている言葉で、この人も普段は普通に「肉体」という言葉を抵抗なく使っているのだろう。結局、「父の死」を受け入れられない気持ちが、私への怒りに変わったに過ぎないのであろう。
しかしそれはそれとして、ERは非常に険悪な雰囲気になってしまった。こちらも、
「別にモノ扱いしているわけではありません。医学的に、関節の強直や死斑の出現を総称して「死体反応」というのです。お身体に先にお話ししたような変化が出ているので「死体反応が出ている」と事実を言っただけです」
と返した。
まさにERは一触即発の雰囲気と化した。警察が来ているのに、警察は何をしているのだろうか、ただ言い合いしているのを見ているだけであった。そんな僕たちの中に
「まぁまぁ」
と割り込んでくれたのは、後輩の浦先生だった。
私と息子さんの間にはもう対立関係しかないので会話が成り立たない(もともと成り立っていないが)。そこで浦先生が入ってくれたのは大変助かった。
「保谷先生はどうぞ奥で休んでいてください」
と私をその場から外してくれ、浦先生が息子さんに対応してくれた。息子さんも、
「『親父が死んだ』という事実を認めたくない」
という気持ちよりも、私への怒りの方がはるかに強くなっていたので、もう
「親父はついさっきまで生きていた!」
と主張することはなくなり、ただ、
「さっきのヤブ医者、絶対許さんぞ!」
と怒鳴り散らしていた。
浦先生のおかげで、死亡確認も終わり、息子さんは捨て台詞を残して、お父様のご遺体と、警察の人と去っていった(隣の市には監察医制度があり、異状死の方は解剖となる)。
この話を読んで、
「保谷先生も、息子さんの気持ちを受け止めて…」
と言われる方がいるかもしれない。それは確かにそうだが、息子さん自身が、
「『父親の死』を受け入れられない自分」
を自分自身で認められないほど混乱しているので、基本的には息子さんはdialog(対話)ではなくmonolog(独白)を繰り返していただけであった。つまり本質的に会話は成り立たなかったと思われる。また、ERはそれほどゆっくりとした時間が流れることを許容できる場所でもない。患者さんやその家族が自分の気持ちを落ち着かせることができるのを待つほど、深夜のERは余裕のある場所ではないのである。
私は理不尽な怒りをぶつけられて、たいそう不快な思いをしたが、今振り返ると、私が悪者になって、父の死を受け入れられない、認めたくないという混乱した気持ちが、私への怒りに収束したので、その後がスムーズにいったのであろう。ということで、結局のところ、最も早く問題を解決できたのではないか、と考えている。
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