第35話 何だったんだろうか?
ある日曜日のER、午後10時くらいだっただろうか?救急隊からホットラインがあり、強い右胸痛を訴えている60代後半の男性を搬送したい、と連絡が入った。バイタルサインは血圧の上昇と頻脈、軽度の低酸素血症を呈しているとのことだった。もちろん受け入れOKと返事。私が対応することとした。
鑑別診断としては、心筋梗塞、大動脈解離、緊張性気胸をまず考えた。スタッフに、搬送される患者さんの情報を伝え、点滴指示、採血指示、心電図や画像評価の指示を入力し、患者さんの到着を待った。
15分ほどで患者さんが到着、ERのストレッチャーに移動してもらった。バイタルサインは救急隊からの報告とほぼ変わらず、37.8度の微熱があり、SpO2は93%と低下していた。患者さんはひどく右胸を痛がり、身体をよじって痛みを訴えていた。両上肢の橈骨動脈の拍動に左右差はなかった。
すぐ点滴路を確保、採血してもらい、心電図を施行。心電図は明らかな異常を認めなかった。そして胸部の画像評価に行ってもらった。電子カルテに画像が飛んできたのですぐ確認する。大動脈の拡張はなく、単純CTではあるが、解離はなさそうであった。縦隔気腫はなく、気胸もなかった。右S6に胸壁と接触するようにair bronchogramを伴うconsolidationを認め、わずかに同部位に胸水が見られた。
血液検査では白血球増多、CRP上昇を認め、D-ダイマーは低値であり、肺塞栓も可能性は低いと考えた。検尿を提出しており、尿中肺炎球菌莢膜抗原は陽性だった。なので、右下葉の肺炎球菌性肺炎、胸膜炎と診断した。痛みが激しかったので、ペンタゾシンを使って除痛を行ない、抗生剤、持続点滴を開始し、私を主治医として入院とした。
翌日には胸痛は改善しており、その代わりと言っては何だが、38度台の発熱が見られた。患者さんの全身状態は改善しており、回診に行くと
「先生、昨日は助けていただいて、本当にありがとうございました。胸の痛みで死ぬかと思いましたが、今日は胸の痛みも改善し、昨日よりうんと楽になっています」
と仰られた。患者さんは今は定年退職後で。特に仕事はされていないが、数年前までは大手の企業に勤められていた、と仰られていた。言葉の荒いこの地域では少数派の「紳士」であるように感じられた。
呼吸器内科の研修が始まってすぐのころ、師匠だったか、栗岡先生だったか覚えていないが、
「『胸が痛い』と言って入院になった肺炎の患者さんは、必ず翌日胸部レントゲンを撮ること!胸膜炎を起こすと一日で大量の胸水が溜まるからね」
と指導を受けていたので、入院翌日に胸部レントゲンを確認した。すると、教えの通り、かなりの胸水が貯留していた。
患者さんにレントゲンの結果を説明し、胸水穿刺、排液を行ない、胸水の性状を確認するとともに、1Lほどの胸水を排液した。胸水は滲出性の胸水で、それなりに顆粒球が見られ、「膿胸」というほどではないが、「肺炎随伴胸水」として矛盾のない結果だった。
その日の午後に、奥様が来られ、病状説明の予定となっていたので、その前に外科の村野先生に相談、患者さんが膿胸となったときは、外科的に胸腔ドレナージ、胸腔内洗浄をしていただくようお願いした。村野先生も承諾してくださり、奥様が来られた時は、先に私が病状説明、その後、万一手術となった場合の対応について、村野先生から説明していただく流れとなった。
奥様が来られ、入院後からの経過、その日のレントゲンの結果、今後の経過の予測についてお話しした。奥様は「昨日は大変お世話になり、ありがとうございました」と仰られていたが、何となく雰囲気がおかしく、少し嫌な予感がした。私の方からの病状説明を終え、何か質問がないか、と確認したが、
「よく分かりました。特にありません」
とのこと。
「万一、膿胸となった場合は、先ほどお話ししたように外科的に治療が必要なので、外科の先生からもお話をしていただきます」
と伝え、村野先生と奥様とでお話を始められた。
村野先生は本当に信頼できる外科医なのだが、飄々とした雰囲気の方で、そこが奥様の気に障ったのか、「あの外科の先生の言うことは全く信用できません!」と怒って帰っていかれた。村野先生に話を伺ったが、「『万一膿胸になった場合はVATS(胸腔鏡補助下胸腔内手術)で手術を行ないます』と説明しただけやねんけどなぁ」とのことだった。村野先生は飄々としているが、患者さんやご家族に横柄な態度をとったり、失礼なことを言ったりすることは決してしない。ただ、奥さんとの相性が悪かったのだろう。
ただ、その後、奥様はこちらに対して敵対的な態度を取られるようになった。私は患者さんをERから診察し、診断、治療を行なっているので、まだ風当たりは強くないが、その他のスタッフに対しては強い不信感をあらわにしていた。そして、どういうわけか、ご主人も奥さんの影響を受けて、様子がおかしくなってきた。
普段は穏やかな目で、こちらの病状説明も正しく理解されているのだが、奥さんが来ると、その後しばらくは奥さんと同じような、少し狂気をはらんだような眼をされるようになってきた。
それから5日後くらいだっただろうか、奥様から
「先生にはよくしていただいたので、こういうことを言うのも失礼かとは思いますが、私たちはここの病院を信頼できません。公立のH病院(現在は名前が変わっているが、呼吸器とアレルギーを中心に治療する公的病院)に転院させてください」と言ってこられた。
入院後の経過は良好で、胸水も減少し、血液データも改善、全身状態も改善しているのだが、奥様は強く転院を希望されていた。奥様と一緒だと、ご本人も奥様と同じ目をされて、同じように言われる。
師匠にこの患者さんのことについて報告、相談したところ、
「わかりました。指導医としてこれくらいしかできず、申し訳ありませんが、転院の調整をつけましょう」
と言ってくださった。師匠はお若いころに一時、同院に国内留学をされたこともあり、また同じ地域で呼吸器内科を診療しておられるので、そのつながりも強く、H病院呼吸器内科の部長先生と連絡を取り、2日後に転院することが決定した。
ご本人には、2日後にH病院に転院が決まったことを伝え、電話で奥様にも転院のことを伝えた。ご本人は私に「いろいろお世話になり、ありがとうございました」と言ってくださったが、奥様からは何の言葉もなく、2日後にH病院に転院された。
不思議だなぁ、と思うことは、奥様がおられないところでは、穏やかな目をされ、こちらの病状説明も正しく理解しておられる様子だったご本人が、奥様と一緒の時には、奥様と同じように、少し狂気をはらんだような目に変わることであった。いったい何が起こっていたのだろうか。今でもよくわからない。
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