第27話 「トトロ先生」の話

 分子生物学を勉強すると、遺伝子はその上流にプロモーター領域、その下流にタンパク質をコードしている「エクソン」と、エクソンとエクソンのあいだに「イントロン」と呼ばれる、のちに切り捨てられる領域でできている。遺伝子の本体はDNA(ウイルスの場合はRNAのことも多い)で、グアニン(G)、シトシン(C)、アデニン(A)、チミン(T)の4つの分子で情報が記録されている。RNAの場合はチミンの代わりにウラシル(U)がコードされている。遺伝子はたんぱく質をコードしており、タンパク質を構成するアミノ酸は20種類とされている。20種類のタンパク質を4つの文字の羅列で表現しようとすると、2文字では4×4=16と足りず、3文字(64パターン)で一つのアミノ酸がコードされていることがわかっている。


 私が医学生の頃愛用していた「STEP 内科」の1巻は神経内科(今は脳神経内科というようになったようだ)の分野を扱っており、その中に、ちょっと不思議な一群の疾患群があった。” Triplet Repeat Disease ” と呼ばれる一群の疾患は、そのコードする遺伝子に存在するグルタミン酸をコードするCAGの繰り返し配列が異常に長くなることで発症する疾患群である。遺伝形式は常染色体優性(今は顕性というのか?)を取る。多くの疾患はエクソン領域のCAGリピートが長くなるのだが、プロモーター領域やイントロン領域のCAGリピートが長くなることで発症する疾患もある。また、興味深いことに、anticipationと呼ばれる現象があり、片方の親からその遺伝子をもらうと、リピートが長くなり、リピートが長いほど、発症が早くなり、症状も重くなる。これも、ある病気は父から遺伝子をもらうとanticipationが起き、また別の病気は母から遺伝子をもらうとanticipationが起きる、と病気によって異なっている。もちろん、正常な方でもCAGリピートを持っており、その長さが長くなることによって病気が重くなる、というものである。ある遺伝子が、母由来か、父由来か、というのは細胞の中で区別されていて、genome imprintingと言われており、分子生物学の視点でこれらの疾患を見ると非常に興味深い研究テーマがたくさん浮かび上がってくるのである。


 とはいえ、こちらは臨床家。患者さんを目の前にすると、不思議、とばかりは言えないのである。師匠から引き継いだ患者さんの中に、このtriplet repeat diseaseをお持ちのご家族がおられた。一度患者さんを経験すると、学ばせてもらうことはたくさんだった。常染色体優性遺伝の疾患なので、子供には1/2の確率で遺伝する。また、そのご家族の持っていた疾患は父から疾患遺伝子を受け継ぐとanticipationが見られることがわかっている。疾患そのものは公的病院でfollowされており、訪問診療では、胃瘻などの管理や、軽度の感染症に対しての対応をしていた。病気の経過は教科書通りで、まずお父様が発症されたのだが、年齢や症状から脳梗塞と診断され、定期通院をされていたそうである。その後、息子さんがけいれん発作などで発症し、その公的病院を紹介され、精密検査を受けtriplet repeat diseaseの一つである疾患を疑われたそうである。ご家族の遺伝子診断を行ない、お父様の症状もその疾患に起因すること、遺伝子は息子さん、娘さんに伝わっていることが分かったとのことであった。


 私が訪問診療を開始したときは、お父様はご自身でつかまり歩きではあるがスムーズに動かれ、お話もスムーズにできる状態だった。息子さんは胃瘻を造設されており、ご自身で意思表示することもできない、寝たきりの状態であった。娘さんはだんだん動けなくなってきているが、少しおしゃべりができる状態であった。主介護者は奥さん。息子さんのベッドの周り、娘さんのベッドの周りには二人がお元気であったころの写真がたくさん飾ってあった。お母さんの深い愛情を感じるものだった。


 私がずんぐりむっくりして、おなかがポッコリしている体形だったからなのだろうか、娘さんは私の往診のたびに、「トトロ先生が来た」とニコニコしてくれていた。しかし、時間の流れは厳しくて、徐々に息子さんの状態が悪化してきた。腸閉塞様の状態になり、胃瘻から消化管内容物が逆流するするようになってきた。全身状態も悪くなり、followされている公的病院に紹介、数か月後に永眠されたと伺った。20代だった。


 娘さんも、卵巣嚢腫が見つかり、手術を受けることになった。術前は、往診の時にニコニコしていた彼女も、術後、ご自宅に戻ってこられた時には、病気が進行し、表情筋も動かせなくなっており、胃瘻を造設されていた。時間とともに病状も進行し、浮腫もひどくなっていった。軽症だったお父様も病状が進行し、だんだん動けなくなってきた。その経過中、お父様が命にかかわる重症肺炎を発症、一気に衰弱された。何とか退院が決まったが、処方薬の管理などで、呼吸器内科専門医のfollowが必要となり、また師匠の訪問診療に戻ることとなった。最後の私の訪問診療を終えた後、長く二人の訪問看護を行なっていた看護師さんがボソッと、「彼女、前から『となりのトトロ』すごく好きだったからね」とつぶやいた。その時彼女が私のことを「トトロ先生」と呼んでくれていたことを思い出した。彼女がどうして私をそのように呼んでくれたのか、その真意はわからないままだが、それはそれでそっと胸にしまっておくことにした。ずんぐりむっくりで、おなかが出ていて足の短い私が、ドタバタと走り回っている様子を彼女はどこかで見て、あの笑顔をしているのかもしれない。


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