第16話 あちらを立てればこちらが立たず

 高齢者でよく見かける「心房細動」という不整脈は、心臓の中(特に左心耳)と呼ばれるところに血栓を作りやすい不整脈で、心臓内にできた血栓が血流に流れていろいろな部位の血管を詰めてしまうことが多い不整脈である。血栓が脳の血管を詰めれば「脳塞栓症」という広範に脳梗塞をきたし、腸に行く血管の根元に近い部分を詰めてしまえば「上腸間膜動脈閉塞症」という、広範に腸管壊死を来す致死的な疾患を起こす。高齢の方では、手や足に行く血管を詰めてしまい、そこから先が壊死して、ミイラの様になってしまうこともある。なので、心房細動の方は、当時はワーファリン、今はDOACと呼ばれる一群の薬を使って血栓を予防するのが一般的である。つまり、血液を固まりにくく、サラサラにするわけであるが、では、そんな人が出血性病変を来したらどうしたらよいのだろうか?


 12月も押し迫ったころ、ひどい腹痛と下血を主訴に一人の患者さんが入院してこられた。

 「おなかが痛くなって、便を出そうとウンウン頑張っていたら、便と同時に血液が出てきた」

 とのことであった。腹部CTを取ると、下行結腸粘膜が大きく、浮腫状に腫れていた。当然鑑別診断には出血性細菌性大腸炎も考える必要があるが、病歴を考えるとおそらく虚血性腸炎だろうと考えた。

 虚血性腸炎は一時的に腸管粘膜の血流が著明に低下し、腸管粘膜の壊死を来す疾患である。高齢の方に比較的多く、動脈硬化などの素因と、便秘など腸管内圧の上昇によって起きる、と考えられている疾患である。患者さんは心房細動を持っており、ワーファリンを内服されていた。入院時の血液検査ではワーファリンは適切な量で管理されている。患者さんの便培養を提出し、しばらく絶食点滴で腸管を休めてもらい、自然に出血が止まるのを待つことにした。虚血性腸炎では数日で下血も止まり、経口摂取を開始できることがほとんどなのだが、この患者さんは、なかなか下血が止まらない。もちろん便培養は陰性で、ほぼ、虚血性腸炎として診断は正しいと考えた。輸血が必要なほどではないにせよ、採血をするたびに貧血が進んでいく。もちろん、出血が止まらないことと、ワーファリンを服用中であることは関連していると考えた。絶食が長すぎるのも良くないので、低残渣食を開始、発症から1週間が過ぎたが、まだ下血は持続していた。

 「ワーファリンを止める?でも、塞栓症のリスクはどう考える?ワーファリンは続ける?じゃあ、下血は止まりそうにないよね」

 と自問自答を繰り返し、患者さんと相談して、しばらくワーファリンを止めることにした。ワーファリンを中止し、ビタミンKの点滴でワーファリンの効果を消した。いよいよ年の暮れ、年末年始の休業期間となったが、正月期間中も、当直をこなしながら、患者さんのところにも顔を出し、腹痛や下血はどうかと確認していた。1/3頃には下血もほとんど見られなくなってきたとのこと。

 「じゃぁ、明日からワーファリン再開しましょう」

 と伝えて回診を終えた。翌日、年末年始に入院したたくさんの患者さん(年末年始で、毎年60~70人の入院がある)の振り分けを終え、回診を開始。いつもの様に

 「おはようございます。調子はどうですか?」

 と声をかけるが返答がない。食事をとっている途中であったのだろうか、食べかけのままでスプーンを落とし、焦点が定まらない。左手に痛み刺激を与えると動かそうとするが、右手に痛み刺激を与えても動かない。

 「あぁ、脳塞栓症だ」

 と身体の力が抜けるのを感じた。しかも広範囲の。病棟の看護師さんに確認するが、朝食の配膳の時は普段通りだったとのこと。発症から極めて短時間なのだが、わずかながら下血が続いているため、当時行われ始めたばかりの血栓溶解療法は適応外。とりあえず、頭部CTを撮影。頭蓋内出血のないことを確認し、脳神経外科にコンサルト。消化器内科主科、脳神経外科共観という形で管理することとなった。一時は脳浮腫、脳ヘルニアで外減圧を考慮する時期もあったが、何とか急性期を乗り越えた。しかし、半身まひ、全失語、嚥下不能となり最終的には胃瘻を造設し、施設への退院となった。


 高齢の患者さんを管理していると、この患者さんの様に、一つの病気を治療すると別の病気が悪くなり、またそれを何とかしようとすると新たな問題が起こり、ということがよくある。相反する治療を行なわなければならない二つの病気が発症したりして、

 「どうすればいいんだ?!」

 と絶望に近い思いをすることがある。そういう視点で見ると、本当に人間をはじめとする生き物はすべて、微妙なバランスの上に生きているんだなぁ、と畏怖の念を感じずにはいられない。


 この患者さんのことは、今でも私がどうすればよかったのだろうか、と考えることがある。でも、正解はないのかもしれない、とも思う。人はそれを「運命」や「宿命」と呼んだりするのだろうが、人知を超えたものに左右されているのかもしれない、と思う。


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