第7話 師匠の教えの正しさ(病名の独り歩き)
とある月曜日、朝一番に近くの個人病院から循環器内科あてに「重症の肺塞栓」との病名で患者さんの診察依頼が届いた。その日はカテーテルを受ける患者さんが少し多かったので、坂谷先生から、
「保谷先生、患者さんが来たら、ERで造影CTなど初期評価をしておいて。結果が出たら僕にcallして。検査の合間に僕も見に行くから」
と初期評価を依頼された。僕はERで患者さんの到着を待った。9時ころに依頼が来て、すぐに受け入れOKの返事を返したのに患者さんはなかなか来ず、10:30ころにようやく救急隊から搬送の連絡が届いた。病院間の距離はそれほど遠くないので、しばらくして患者さんがやってきた。
患者さんは60代の男性、特記すべき既往症はないと紹介状に書いてあった。ERのストレッチャーに移すと、明らかに様子がおかしい。酸素を目いっぱい吸入しているにもかかわらず、全身はひどいcyanosisで紫色になっており、SpO2も80%台、血圧は60台で、頸静脈は臥位でもあまり怒張は目立たず(こんなに重症の肺塞栓なら、右心系に負荷が強くかかっているはずなので頚静脈は坐位でも怒張しているはず)。左の大腿はひどく腫れており、血性水疱が散在していた。
「いや、これ、本当に肺塞栓??劇症型A群溶連菌感染症(いわゆる『人食いバクテリア』と呼ばれている疾患)じゃないか?」
と一目見てそう思った。とはいえ、3年目になりたての後期研修医の直感だけではあまりにも根拠に乏しい。とにかく貼りつけられている「肺塞栓」のレッテルが本当かどうか、確認しなければいけない。肺塞栓と前情報が来ていたので、放射線科では造影CTの用意ができていた。当初は胸部の造影CTの指示を出していたが、すぐにCT室に連絡、胸部から下肢まで一度に撮像してもらうようにお願いした。採血、点滴+造影用のlineを確保し、すぐに造影CTを撮影。やはり肺に血栓もなく、下肢にDVTもない。しかし、この検査のために20分近く時間を無駄にした。血液検査は強い炎症反応を呈しており、やはり劇症型A型溶連菌感染症、壊死性筋膜炎の可能性が高そうだ。
坂谷先生には
「肺塞栓ではなさそうです」
と連絡し、すぐに外科に連絡。壊死性筋膜炎疑いで緊急のdebridementをお願いしたが、外科も手術中で手が離せず、
「ICUに上げて。手が空き次第、すぐにICUで処置をするから」
とのこと。酸素吸入中にもかかわらず、全身紫色になっているほどのcyanosisなので、すぐERで気管内挿管を行ない、人工呼吸器で呼吸管理を開始。その状態でERからICUに移動。血液培養を提出し大量輸液と抗生剤としてCLDM+MEPMを開始。そしてICUの指示出し簿に急いで指示を書いていると、
「先生、Asystole(心静止)!」
との声が飛ぶ。急いでACLS(Advanced Cardio-pulmonary Life Support:心臓マッサージ、人工呼吸に加えて薬剤を使用した蘇生処置)を開始し、総合内科の応援を呼び、CPR(Cardio-Pulmonary Resuscitation:心肺蘇生)を継続した。懸命にCPRを行なったが、患者さんの心拍が再開することはなかった。CPRを続けながら、ご家族の方に患者さんのそばに来ていただき、当院到着時からその時までの経過を説明。現在心肺停止状態で懸命に心肺蘇生をしていることを説明した。ご家族もその様子を見ているのはつらかっただろうと思ったが、今起きていることを見てもらわなければ、この状況を理解してもらえないだろうと思い、ご家族の目の前でCPRを継続した。そして、
「たくさんの薬を使い、スタッフみんなで救命のために力を注ぎましたが、心臓は動き出しません。もうこれ以上続けても、いたずらにお身体を傷つけるだけになります」
とご家族に伝え、ご家族の納得を得てCPRを中止した。
ご家族を控室に案内し、当院に紹介されるまでの経過を聞かせてもらった。4日前の木曜日までは普通にお元気に仕事をされていたとのこと。金曜日に
「しんどい」
とおっしゃり、傍で見ていてもすごくしんどそうなので、ご家族とともに紹介元病院を受診。血液検査を受け、その結果を見た医師から
「入院した方がいい」
と入院を勧められたが、ご本人が
「大丈夫」
と入院を拒否されたので、抗生剤の点滴を受け、その日は帰宅された。その翌日の土曜日に、
「やっぱりしんどい」
と同院の時間外外来を受診し、入院を希望され、同日から入院になったとのこと。入院後は点滴(点滴の内容は不明)を受けていたが、月曜日の早朝に、急に状態が悪くなったと連絡を受け、ご家族が大急ぎで紹介元病院に駆けつけた、とのことだった。病院からの紹介状は、おそらく患者さんの急変で余裕がなかったのであろうか、2行程度の短い文章で、患者さんのご家族から話を聞くまで、どんな経過だったのかわからなかった。
ご家族の方にお願いし、病理解剖を行なった。肉眼解剖では主要臓器に明らかな変化は認めなかったが、血性水疱の内容物を迅速溶連菌検査キットで検査すると陽性となり、左大腿の脂肪織と筋膜のあいだには黒色壊死と思われる病変が認められた。脂肪織の組織培養を提出し、組織からはA群溶血性連鎖球菌が同定された。
師匠の教えの一つに
「病名がはっきりしないときに、無理に病名をつけてはいけない。病名が独り歩きして診断を遅らせることになるから、わからないときには病名ではなく、病態名で治療や入院を考えなさい」
というものがある。この症例はまさしく師匠の教えそのままであった。もし、患者さんが
「一側性の下腿の腫脹と血性水疱の出現、低酸素血症、ショックバイタル」
という病態名で紹介されていたら、私の第一印象で外科に紹介するのも許されていたのかもしれない。「肺塞栓」というレッテルをはがすための時間が不要だったかもしれない。この症例では、誤ったレッテルを貼ってしまうことの危なさを痛感した。
この経験以降、現在に至るまで、私が他院への紹介状を書く時には、明らかに診断のついているもの(例えば心電図で明らかに心筋梗塞、とか、明らかに川崎病の診断基準を満たしている)は紹介状に病名を書いているが、特に重症で、しかも診断がはっきりとついていない患者さんの紹介状については、病態名を記載するようにしている。受け取った二次病院の先生は
「いい加減な紹介状だなぁ」
と思われるかもしれないが、誤った病名に引っ張られて無駄な時間を取られるよりは患者さんのためになるだろう、と思っている。もちろん、2行紹介状、ということはなく、時間の許す限り、経過を丁寧にまとめた紹介状を作成している。
実際に難しいことは多くて、のちに、診療所で勤務していた時の症例だが、80代の女性、糖尿病を併存している方が、15時ころ、突然お隣さん家に飛び込んできて、トイレでひどい嘔吐と下痢を繰り返し、動けなくなったとのこと。患者さんも、お隣さんも診療所のかかりつけの方だったので、時間外で17時ころに患者さんを連れてきてくださったことがあった。いつもはお元気な方なのだが、ずいぶんぐったりして、話しかけてもうなずくことしかできず、血圧は70台で頻拍。側臥位が楽なようで、仰臥位にはなれない様子。心音、呼吸音は聞く限りでは異常はなさそう。腹部は平坦、軟で、臍周囲部に軽い圧痛を認めた。腹部に拍動する腫瘤は触れなかった。
来院された時間帯が、一番看護スタッフが少ないときで、帰ろうとしていた看護師さん一人と私とで対応したが、看護師さんは点滴路の確保と、採血が精一杯。私は心電図を取りたかったのだが、看護師さんからは「無理!」とのこと。診療所の構造の問題なのだが、心電図用ベッドから救急用ベッドに心電図を移動させる時には、電子カルテに接続されている配線を差し替えないといけないので、ちょっと手間がかかる。ご本人も仰臥位になれず、バイタルは不安定であり、診断をつけるよりも、高次医療機関で救命を優先すべきと考え、心電図を取らずに転送先を探し、紹介状を作成した。
「ひどい嘔吐下痢、ショックバイタル、腹部に圧痛がある」
と考えると腸炎など消化管の問題が浮かびやすく、その病名をつけたくなるが、頻度は多くないものの、心筋梗塞で迷走神経反射のため、消化管の運動が活発になり下痢をすることもある。なので、あえて病名をつけず、
「突然のひどい嘔吐下痢、ショックバイタル」
という病態名で転院先を探し、紹介状の病名も同じようにした。果たして結果は、
「急性心筋梗塞」
とのこと。無理に「腸炎」などとつけなかったことで、広く鑑別診断があげられ、無駄な時間を使うことなく、速やかに診断がつけられたのではないかな、と思っている。
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