第2話 秋の始まり
キュゥゥンとモーターが回り、刃の付いた重たいヘッドを振ると、バリバリと激しい音を立てて茂った雑草が薙ぎ倒されて行く。
正確には刃ではなく、取り付けられたナイロンコードが高速で回転して、雑草をミンチにしていくのだが。
夏中取り掛かっていた仕事がやっと一つ終わり、次の仕事が始まるまでに間があるので、今日は夏の間放置していた、畑とその周辺の草刈りをしている。
草刈り機はこの家から15キロ離れた所にある、この辺りで一軒しかないホームセンターで購入した。
電源が無くても使える、充電式の草刈り機だ。3万円位して驚いた。草刈り機がこんなに高いものだとは全く知らなかった。
もちろん、電源ケーブルが付いていて、コンセントに差し込んで使うタイプの安い物もあったが、それだと必要な場所に届かない。
充電式の物と同じくらいの値段で、ガソリン式の草刈り機もあったが、そっちは手入れだとか始動のさせ方が面倒な気がして、結局充電式の物を買ったのだ。
初めて使った時は、普通にシャツとジーンズにスニーカーを履いてやったのだが、とんでもない事になった。
ナイロンコードを高速で回転させて草をちぎり、薙ぎ倒していくタイプの草刈り機は金属の刃の物より安全なのだが、これの欠点はミンチになった草が物凄く飛び散って来るという所だ。
ジーンズにもシャツにも、顔にも、とにかく全てにミンチ状の草が飛び散って来て、地味に顔は痛いわ、服に染み付いた草の汁は取れないわ、で酷い目に遭った。
なので、その次からは草刈り用のフェイスシールドと、ビニール製の作業エプロン、それに長靴を履いてやるようにしている。
これで服や顔が汚れる事もなくなり、やれやれと思ったものだ。
休みなく、重たいヘッドを左右に振って草を刈っていくが、1ヵ月近く放置していたから、最早ジャングルと化している。
草の丈が伸びすぎて、下の方を刈るとヘッドに巻きついてモーターの焼き付き防止機能が働いて止まってしまうため、丈の高い草は最初に半分くらいの所で刈っておいて、最後に下の方で刈るという面倒臭い事をしなければならない。
本当はこまめに刈っておけば、こんな面倒な事にならなかったのだが、そこまでの時間的余裕が無かった。そうすると今回のように、野生の植物の凄まじい生命力にあっという間に完敗となる。
夏の間食卓に上り続けていたゴーヤも、先日やっと畑から引いて整理した。
もう9月も終盤なので夏野菜ラッシュも終わり、貰い物の山もどうにか捌けている。
うちの畑では、今年は特にもう何も植えるつもりはないが、これからの季節はきっとまた去年のように、栗やサツマイモ、里芋を頂くだろう。
順調に高速回転していたヘッドの勢いが弱くなり、充電が切れて来た事を知らせるのと同時に、何とか刈りたかったスペースの草を刈り終えて、俺は一息ついた。
「はー、あっつ」
9月終わりと云えど、まだまだ暑い。それに加えてビニールのエプロンと軍手、フェイスシールドまで付けているので、滝のように汗をかいてしまった。
堪らなくて、急いでエプロンやシールドを外し、草刈り機を玄関の前のスペースに置いて、外の水道で手と顔をばしゃばしゃと洗う。
ついでに水も飲む。
その冷たさでやっと体がクールダウンして来たようだ。首元に巻き付けていたタオルで顔と手を拭いていると、どこか遠くから、誰かが草刈り機で草を刈っているブゥーンという音が聞こえて来た。
こんなに離れていても聞こえるのだから、これはエンジン式の草刈り機だろう。
「ご苦労様です」
何となく、同志のような気持ちになってしまう。
さぁっといい風が吹いて来て、庭の片隅にある銀木犀の良い香りを運んで来た。
この木は、俺が生まれた記念に父が植えたらしい。
最初は小さかったその木も、今では家の屋根に届きそうなほどの高さに育っている。
その銀木犀には今が盛りと満開の白い小さな花が付いていて、ここ1週間ばかり、その芳香がふとした拍子に漂って来て、俺はその度に深呼吸をして香りを味わっていた。
「ああ・・・いい匂いだなあ」
ひとしきり香りを堪能すると、俺は草刈り機からバッテリーを外してそれを持って家に入った。
玄関の上がり框に体重を掛けると、古いせいかギッと音を立てる。
いつか直さなきゃなあ、と思うものの、元来面倒臭がりの俺の事だから、このまま放置してしまうかもしれない。
草刈り機のバッテリーを充電器にセットして置くと、俺は汗だらけの服を手早く着替えて夕食の食材、それと今日の昼飯を買うために、財布とスマホ、それから車のキーを手にして玄関を出た。
そろそろ昼近くになる。ちょうどいい頃合いだ。
エンジンを掛け、家の敷地を出る。
今日も誰も歩いていない家の前の道をのろのろと走り、県道に出てからは時速50キロ制限の所をややオーバー目にスピードを上げて走り出した。
まさに秋空といった霞のない見事な晴天。フロントガラス越しでも、光が目に染み入るようだ。
煌めく太陽の光を反射して眩しい川面を、右手に見ながらハンドルを握っていると、釣り人が川の中ほどまで水に浸かって、長い釣竿を振っているのが見えた。
俺は魚に詳しくないから何を釣っているのかは分からないが、この辺りで川に入っている釣り人達は他所から来ているらしく、釣り人の姿を見かけるとその周辺の道路の脇に必ず彼らの車が停まっている。
俺は釣りをしたいと思わないが、好きなんだなあ、と思いながら眺めた。
10キロ程走ると、お目当ての小さなスーパーに着く。
広い駐車場には、ちらほらと車が停まっていた。
この辺りではスーパーはこれしかない。だから小さくても品揃えが少々物足りなくても、あるだけで助かる。
ハッチバックを開けて、積みっぱなしの保冷バッグを持って店内に入った。
昼少し前という事もあり、まばらに人がいる。多くは老年の女性や男性だが、今日はこの辺りの工事を請け負っているのか、作業着を着た壮年の男性が惣菜コーナーにいた。
俺も惣菜コーナーに近付き、今日の昼飯を物色する。
カツカレー弁当が目に付いたので手に取ったら、まだほんのり温かくて何となく嬉しくなる。それをカゴに入れ、ついでに鶏の唐揚げのパックも入れた。
そして今日の夕食の食材を探す。まずは鮮魚コーナーだ。
それが目に入ると、
「やった!」
と思わず小さく呟いてしまう。
この時間なら、と期待していたのだが、やはりお目当ての半額シールが貼られた食材がいくつもあり、喜んでしまった。
何しろ東京のスーパーでは、いつも寄る時間的にも全くお目にかかった事の無かった半額シール。
それがここでは、利用する人の少なさからか早い時間から貼られている事が多く、黄色地に赤で半額と書かれたシールを見つけると、宝探しの気分というか、レアな生き物を見つけたハンターのような気分になってつい、浮かれてしまう。
今日はホタテの刺身と、甘エビの刺身に半額シールが貼られていたので、カゴに入れる。今日の夜はこれと味噌汁、ほうれん草の胡麻和えでも作って、一緒に食べよう。
次に食肉コーナーに行くと、そこにも半額シールの貼られたパックがいくつもあった。
地元産の高級ステーキ用の牛肉が半額になっているのを見ると、見掛けた時にはつい買ってしまう。
その日に食べきれない分は、冷凍しておけばいい。サイコロくらいの大きさに切って冷凍し、カレーやビーフシチューに入れると、これが信じられない位美味いのだ。
さすが高級牛肉と唸ってしまう。
ちなみにこの話を東京の友人にしたら、物凄く羨ましがられた。
他に牛乳やキャベツ、豆腐、ほうれん草などを買って会計を済ませ、また車に乗り込む。
帰り道、今度は左手に川面を見ながら走っている内に、ふと川原で昼飯を食べようかな、と思いつく。食材は保冷バッグに入っているから少しくらい大丈夫だろう。
少し走ると、以前にも立ち寄った事のある、川原に降りられる路肩がある。
ちょうど大きな木が陰を作っていて、涼し気だ。
そこに車を停める。エンジンを切る前に車の窓を全部、全開にしておいた。
途端、ザーと力強く流れる水音が押し寄せて来る。
俺はカツカレーと鶏の唐揚げを持って川原に降りて行った。
道路から川原まで数メートルの高さがあるが、人が二人通れるくらいの細いコンクリートの坂道が付けられていて降りるのに難儀はしない。
他に誰もいない、民家もない。
川の水は澄み切っていて、川底の石や砂がはっきりと見通せる。
この川は上流に位置するが、いくつか大きな岩や石はあるものの、あとは小さめの石ばかりなので割と歩きやすい。
水際に行くとそこは砂浜のようになっていて、綺麗な砂の上に俺は腰を下ろした。
海の砂とは違って、少し粒が荒い。
俺が座った辺りはちょうど川が緩やかにカーブしている所で、深い淵のようになっていた。
それでも川底の岩や砂まではっきり見えている。
深い所は暗めの緑色をしているが、手前の浅くなっているところは薄いエメラルドグリーンに近い色合いで、水面にうねりがあると流れている水なんだなと分かるが、うねりが消えると、まるでよく出来たエメラルドグリーンのゼリーのように見えて来て、不思議な気分になる。
時折何かの虫が水面をすれすれに飛んでいくのを眺めながら、俺はカツカレーの容器の透明なプラスチックの蓋を開けて、一緒に付いていた先割れスプーンでカツの部分とカレーの部分を大きく掬って口に入れた。
うん、ほんのり温もりが残っていて、旨い。ちょうど時間も昼だ。
午前中体を動かしたので、結構な勢いで食べてしまった。やっぱりカレーだけだと物足りないので、鶏の唐揚げの方も食べる。
口を動かしながら水中を見つめていると、10センチくらいの小魚が何匹か、水中の大きな岩の辺りを横切って行った。体の横に黒い線が入っているのが見えた。
魚に詳しければ名前も分かるんだろうな。
あとで調べようと思いつつ、いつも家に帰ると忘れてしまう。
あ、そういえばここで食べるつもりじゃなかったから、飲み物を買ってなかった。
喉が渇いたが、さすがに川の水を飲むわけにはいかない。
綺麗な水だが、川には独特の匂いがある。水の中の石に生えている茶褐色の苔の匂いなのか、水に住む生き物の匂いなのか。
俺はしばらく水中を泳ぐ魚や流れる水を眺めていたが、さすがに直射日光をずっと浴びていると暑くなって来た。
弁当殻を入れたビニール袋を脇に置くと、靴と靴下を脱ぎ、履いていたジーンズの裾をたくし上げる。
裸足になると、足裏の砂のザラザラした感触が妙に心地良い。
深く足を砂にめり込ませると、表面は熱いが下の方は冷たくて、気持ち良かった。
立ち上がると、水の中に足を進める。ジーンズが硬くてそれほど裾が上げられなかったから、あまり深い所には行けない。この透明な水は、深さを錯覚させて来る。
以前、浅いだろうと進んだら意外と深くて、太腿辺りまでずぶ濡れになった事がある。
「うわ、やっぱり冷たいな」
いくら暑くても、川の水は冷たい。8月でもそんななのだから、9月終わりともなれば長時間浸かっていられない位には冷たい。
それでも、自分の足が水中の白い砂を踏みしめていて、それをはっきりと見ていられる事が奇蹟のようで、じっと見つめてしまう。
すると、俺の足の傍にちょろちょろと茶色と砂色のまだら模様の小さな魚が寄って来た。
これだけは名前を覚えたのだが、清流にしか住まないらしい、ヨシノボリという魚だ。
腹の吸盤で岩にへばりつき、急な流れでも流されずに生きていく小さな命。
なぜかいつも俺が川に入ると、ヨシノボリが足に寄って来て、時には指をつん、と啄む。
餌だと思われてるんじゃないのか、と苦笑してしまう。
「おい、もう動くからな」
俺の足の周りをうろうろしているヨシノボリに遠慮してじっとしていたが、そろそろ冷たいので上がる。
ヨシノボリはぴゅっと素早く川の深みへ消えて行った。
タオルを持ってこなかったので、砂の上でしばらく足を乾かす事にした。
待つ間、片手で砂を掬ってサラサラと下に落としてみたり、何となく丸い石を手に取って撫でていたが、やがて足にくっついていた砂がぱらぱらと落ちる位に乾いたので、再び靴下と靴を履き、弁当殻を持って車に戻った。
今日はこのまま休日を堪能して、明日からまた始めよう。
冬までに一度、東京に行く予定がある。
毎日をこの緑と美しい水と空気の中で暮らしている俺は、久しぶりの東京に何を感じるだろう。
そんな事を考えながら、俺はキーを回してエンジンを掛けた。
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