第3話 夏のある日 2

「は~~疲れた、っと」


ギッと音を立てる椅子から立ち上がり、俺は今日の仕事を終わりにした。


もう18時か。外はまだ明るかったが、ひぐらしが鳴き始めている。この声を聴くともう一日も終わるな、と少し物悲しいような寂しいような気持ちになる。


さて、今日の晩飯は何にしようか。


手足を伸ばして、凝り固まった肩や腰をほぐしながら考える。


この辺りには食事処はおろか、そもそもコンビニすらない。だから飯は基本的に自炊するか、冷凍食品など保存できるものを予め買っておかないとならない。


最初の頃は苦労した。何しろ今までほとんど自炊などせず、仕事帰りにコンビニで弁当を買うか、外食に頼っていたから。


今は、俺の自炊の腕はかなり上達したと思う。そして、自分で作ると、それがたとえ単に白米を炊いて味噌汁を付けただけの物であっても、妙な満足感を得られるものなのだと気付いた。

心が満腹になるとでも言ったらいいのか。


いくら品数が多くても、コンビニ飯では得られない満たされた感覚だ。

それに気付いてからは、自炊をするハードルが下がった。


最初はちゃんと大匙等できっちり調味料を計ったりもして、気合を入れていたが、どうせ食べるのは自分だけだ。


と思ったら、気楽に取り組めるようになり、今では冷蔵庫の不良在庫を一掃するメニューを考えたりも出来るようになった。


小鍋にうどんスープを入れて、うどんやおじやを作り、それを昼食にすることもよくある。

行儀は悪いが、小鍋のまま食べる。片付けも楽だし、熱々をそのまま食べるのが旨い。


「う~ん、麻婆茄子……は一昨日作ったしな。ゴーヤ……さすがに連続はちょっと」


大量にある夏野菜をなるべく減らしていきたい。が、ゴーヤはさすがに食傷気味だ。昨日も馬鹿の一つ覚えのチャンプルーにして食べたばかりである。


俺はスマホを手にした。メニューに困った時は、レシピサイトを見るのだ。


すると、メッセージアプリからの通知が来ていたので開いてみたら、朝、荷物を送った友人の一人からだった。


『野菜ありがとう、いつも助かってるよ。嫁が喜びます。またこっちに来る事があったら飲みに行こう』


絵文字も顔文字も無い、簡潔なたどたどしいメッセージ。喋り言葉と全然違う文章にいつも笑ってしまう。

とは云え、俺だって文章にすると似たり寄ったりだ。今もどんな風に返そうか悩んでいる。


迷った上に、どういたしまして、の一文を送った後、あまりに寂しいだろうか、と使いどころの難しい微妙なキャラのスタンプを捺しておいた。

このキャラをどういう意味に取るかはあっちに任せる。


その後、当初の目的通りレシピサイトを見に行く。


今日はナスやトマトを使った何かにしたいな。食材からレシピを探してみたら、ナス、トマトと豚肉のカレー炒め、というのが旨そうだった。

豚肉はこの前使った残りを冷凍庫に突っ込んでいるから、それを使おう。


メニューが決まったので、冷蔵庫のナスとトマト、冷凍庫の豚肉を取り出し、洗いカゴに伏せておいたフライパンを火にかける。


野菜をざっくり切って、凍ったままの豚肉と一緒にフライパンで炒める間に、塩やカレー粉などを戸棚から出して来てフライパンに投入した。

カレー粉の匂いは食欲が湧く。ある程度炒めたら、白ワインを入れて蓋をして蒸し煮だ。


煮えるのを待ちがてらグラスを取り出すと、さっきのワインを注いで飲んだ。


「はー、旨い……」


日が暮れて来たとはいえ、まだ少し暑い。冷蔵庫で冷えたワインが喉を通る感覚が心地良かった。


こっちに越してきてから通勤の煩わしさから解放され、気持ちに余裕が生まれたおかげか、最近は調味料や料理の素材にも拘るようになった。

さっき料理に使ったワインも、料理用などではなく普通に飲むやつだ。それを料理にも使っている。

どうせ使う量は知れているんだから、それなら良いのを使った方が料理も美味くなる。


収入の方は、会社勤めだった時よりは減った。だが、生活自体は豊かになったと思う。


東京に暮らしの拠点を置く。そこに居続ける。ただそれだけの事にどんなに金が掛かるか。大変な事なのか。こっちに来てからつくづく思う。


ここに住むようになって一番助かっているのが、家賃が要らなくなった事だ。これは物凄く大きい。年間100万円超の負担が無くなったのだ。


持ち家の有難さを噛みしめたものだ。代わりに固定資産税が取られるが、こんな田舎なので、2万円も掛からない。


さらに、地下水を汲み上げて使っているから水道代は要らない。電気代はどこに住んでも金額に大差はないし、ガス代だけは都市ガスからプロパンガスに変わった為に多少高いが、金銭的負担はかなり楽になった。

外食も殆どしなくなったから、なおさら金は掛からないという好循環だ。


なんて事を考えている間に冷凍庫から、小分けパックで冷凍しておいた白飯を取り出して、レンジで解凍する。


ブーン、とレンジの皿が回るのを何となく見つめながら、1年前の事を考える。


体調を崩し、会社を辞めざるを得なくなった時、同じ会社の先輩だった立花さんが俺を拾ってくれた。


立花さんには、先輩後輩の関係にある時から良くして貰っていた。

彼が独立して自分で事業を立ち上げたあとも関係は切れず、何かと相談に乗ったり乗られたりして、付き合いが続いていたのだ。


まあ俺の方は相談に乗るなんて言っても、ただ立花さんの話を聞いているだけだったが、「お前に話聞いてもらうだけで、俺は自分の考えをまとめられるんだ」と笑っていたので、少しは役に立っていたのだと思いたい。


そんな風に時々ガス抜きをしながらも、終電間際まで仕事三昧の日々を送っていたのだが、とうとう体の方が悲鳴を上げた。


いつ回復するのか、そもそも回復したところで今までと同じように会社で業務をこなして行けるのか、全く見通しが立たないでいた状況の時、立花さんが俺に自分の会社の仕事を外注という形で振ってくれる事になった。


同情でそんな気を遣って貰うのも悪いと最初は遠慮したが、立花さんの言葉を聞いてやる事を決めた。


「同情なんかじゃないよ、お前の仕事ぶりは俺が知ってる。実力もあるし丁寧だし、信頼できる奴だと思ってる。ただ、お前が偶々あの会社の環境に合わなかっただけだ。だからお前に依頼したいんだよ」


心身共にどん底にいた時だったから、電話越しの立花さんの言葉が本当に胸に沁みた。こみ上げる何かを必死に堪えながら、対面でなくて良かったと思ったものだ。


ピー。


感傷にふけっていたらレンジが出来上がりを告げ、俺はフタを開けて熱くなった容器を取り出した。


「あちっ」


気を付けていたのに、漏れた蒸気が手に触れて慌てて水道で冷やす。

そんな事をやっている内に、カレー煮の方もいい塩梅になって来たので、火を止めて味見をしてみた。


「うん、美味いな」


初めて作ったメニューだったが、上手く出来て良かった。

いそいそと、家と共に受け継いだ昭和時代の食器棚のガラス扉を開け、皿を取り出してよそう。


この茶色の食器棚……というより水屋箪笥と言った方がいいだろうか。レトロな雰囲気でなかなか気に入っている。


扉は全てガラスの嵌まった引き戸で、最近の食器棚のようなスタイリッシュさはないものの、昔の職人が一から丁寧に作ったのだろう。何の木なのかは分からないが、プリント合板では出せない温かみがあり、ガラス自体も立体的なストライプ状になっていて趣がある。


昔は正月行事や法事などで家に人が集まる事が多かったのか、大量の同じ湯呑や、10人前の刺身が盛れそうな大皿などが棚を埋め尽くしていたので、大部分を廃棄した。


使わない物でも何でも『これは買った時は高かったんだから』などと言っては、溜め込んでいた亡くなった母に見られたら、きっと目くじら立てて怒られ、捨てた物はまた棚に戻されていたに違いない。


懐かしさと、ほんの少しの寂しさを感じながら、食器棚と同じ木で造られている食卓に座り、湯気を立てる夏野菜のカレー煮を食べ始める。


腹が空いていたのもあり、あっという間に食べ終わってお代わりまでしてしまった。

もう若くはないのだし腹八分にしようと思っているのに、食べ始めるとついそれを超えてしまうのもいつもの事だ。


「はぁ……」


熱い緑茶をすすり、気怠い食後の余韻に浸る。


ひぐらしの声が響く。


さぁ、と風が吹いて来て、家の中に溜まった熱気を追いやってくれる。


一人きりなのに、東京に住んでいた時ほど孤独を感じないのは何故だろう。

もしかしたら、ここでは自分も自然の一部なんだと感じられるから、なのかもしれない。


柄にもない事を考えてしまって、可笑しくなった。


「……風呂でも沸かすか」


このままぼうっとしていたら、尻に根が生えそうだ。動くのが面倒な気持ちを追いやり、俺は少し気合を入れて立ち上がった。


19時過ぎでも、空はまだ青さを残していた。

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