田舎で暮らす

にあ

第1話 夏のある日

パチン。

「採れ過ぎだなー」

俺は目の前の立派に育ったゴーヤの実を、園芸鋏で切りながら呟いた。


野菜を育てるのなんて初めてだから、うまく出来なかったら、と思って多めに植えたんだが、良かったのか悪かったのか、みんな良く育ってくれた。


そして、到底一人では食べきれないくらいの量が、毎日収穫され続けている。


「近かったら、皆にお裾分けするんだけどな」


一瞬、遠い山をいくつも越えた向こうで今も頑張っているだろう、友人達を思う。腰を伸ばして、額に滲んだ汗を首元のタオルで拭いた。


空を仰ぐと、今日も抜けるような快晴だ。ミーンミーンと蝉の声が響く。さあっと風が吹いて来て、汗ばんだ体に心地良かった。


足元に置いた籠には、もう10本以上のゴーヤが溜まっている。


「これ、どうしようなあ」


はっきり言ってもう、ゴーヤチャンプルーは飽きた。カレーにも、しまいには味噌汁にも入れてみたが、結論。ゴーヤはチャンプルーが一番旨い。


俺は家を振り返った。築60年の古い日本家屋。古民家なんて言えば聞こえはいいけど、実際はただ単に古くなっただけの、傷みの激しいボロ家だ。


それでも、住む所があるだけでありがたい。

この家を残してくれた両親には感謝している。


「この辺の人達にお裾分けって言っても、近所の人、みんな作ってるしなあ」


そうなのだ。自分で食べきれなければ、誰かにあげたいところなのだが、このあたりの人達は皆畑を持っており、季節の野菜を育てている。

お裾分けどころか逆に、一人暮らしなのに山盛り貰ってしまい、腐らせるのももったいないので、何とか保存できる調理方法に四苦八苦しているのだ。


「・・・宅配便で送るか」


ふと思いつく。

都会に住んでいる友人達に、嫌がらせのように段ボールいっぱいのゴーヤを送ってやろうかと。


向こうでは野菜が高いから、こっちでは採れ過ぎてどうしようもない野菜の処理を押し付けているつもりでも、喜ばれるだろう。

実際、これまでも何回か、採れ過ぎた野菜を無理やり押し付けたが、大体喜んでもらえた。


よし。そうしよう。

そう思うと、処理に困って鈍っていた収穫の手が進む。


パチン、パチン、と小気味よく音を立てる園芸鋏で、食べ頃のゴーヤを切っていく作業を再開した。この園芸鋏はここに越して来てから買ったものだが、日本の老舗メーカーが昔から作っている逸品らしく、8千円もした。


さすがに躊躇したが、これからずっと使うのだから、と思い切ったのだ。物凄くよく切れるので、最初使った時は感動した。小気味良い、パチンという切る時の音も気に入った。

あまりに切り易くて楽しくて、庭木を剪定しまくったものだ。


今も、野菜を収穫する時にこの鋏を使える、と思うと、それだけで心が浮き立つくらい気に入っている。


あらかた、今収穫できそうなゴーヤは採れたので、重たくなった籠を両手で抱えて、開けっ放しだった玄関に入れていると、ふいに後ろから声が掛かった。


「おはようございます」


振り返ると、近くの家に住む杉本さんというおばあさんだった。近くと言っても、50mは離れている。広い田舎ならではの距離感だ。


「おはようございます」


挨拶を返しながら、杉本さんがにこにこと両手に抱えている段ボールを見て、ああ、と苦笑してしまう。


「ごめんねえ、真野さんところもいっぱいあると思うんだけど、うちでも採れ過ぎちゃって。真野さん若いから食べられるかなと思って持ってきたの。貰ってもらえる?」


段ボールの中を見せてくれるが、やはりゴーヤ、ピーマン、ナス、トマト、の夏の野菜がぎゅうぎゅうに詰められていた。


「ありがとうございます。さすがに一人なんで全部は食べられないですが、東京の友人に分けてやろうと思ってたので、ありがたく頂きますね」


「あら、そうなの?それじゃ、また持ってきてもいい?」


少し申し訳なさそうだった顔が、ぱっと明るくなった。

これはまた山盛り来るな。


それでも、捨てるのはどうしても抵抗がある。俺が受け取ることで、東京の友人たちも杉本さんも喜ぶのだし、こんなことで役に立てるのならいいだろうと思った。


「ありがとうございます。いつも助かってますよ」

そう言うと、杉本さんはにこにこ顔で帰って行った。


この家は元々両親の持ち物で、俺は生まれてからずっと東京で育ったから、この家で暮らしたことはない。


けど近所の人達は、この家で生まれ育った父にずっと親しみを持ってくれていて、その息子がここに住む、となった時も「そうかあ、きいっちゃんの息子かあ」そう言ってあれこれ世話を焼いてくれた。


よく、都会の人間が急に田舎に住むと軋轢が大変で、結局都会に戻らざるを得なかった、なんて話を聞くが、俺の場合はそんなバックグラウンドがあったおかげで、何の問題もなく、とてもスムーズに移住が完了した。


街灯もなく、夜になると本当に真っ暗になってしまうような所だから、俺が住んで、この家に灯りが点いているのを見るだけで心が安らぐ、と言われているくらい、受け入れて貰えていて、本当にありがたい。


本当にここに住むことに決めて良かった、と思っている。

足元に目を落とす。俺がさっき収穫したのと合わせて、野菜の量は軽く20人には振舞えそうなほどになってしまった。思わず笑ってしまう。


「早く送らなきゃな。鮮度が落ちるし」


俺は靴を脱いで家に入ると、洗面台で手と顔を洗って首のタオルで拭き、洗濯機にタオルを放り込んだ。


昭和の匂いがする台所に入ると、水道の蛇口を開いてしばらく水を出してから、水が冷たくなったのを確認してそのまま口を付けて飲む。


この辺りの家は、皆、地下水をモーターで汲み上げて使っている。

公共の水道などないのだ。


しかし、俺はこの地下水が物凄く気に入っていた。何と言っても美味しい。夏でも冷たいし、塩素の不快な臭いもない。この水を風呂にも使っているから、お湯はまろやかで単純泉の温泉に入っているような気持ちだ。癒される。


ここに越してきて一番感動したのが、この事かもしれない。

越してきてからミネラルウォーターなど1度も買っていないし、汲み上げたばかりの新鮮な水を、行儀悪く直接飲む爽快さを覚えてしまったら、汲み上げて時間の経ったペットボトルの水はもう飲めないかもしれない。


「ああ、旨い」

何度飲んでも、そう言ってしまう。


一息ついたら納屋に行って、引っ越しの時に取っておいた小さめの段ボールを3つ取り出して、玄関まで行った。


宅配便は集配を頼むことも出来るが、この辺りには1日1回夕方にしか回ってこないから、待っていると発送が遅くなる。

なるべく鮮度を落としたくないから、俺は野菜を詰めたら発送できる場所に自分で持って行くつもりだ。


隙間に新聞紙を詰めながら、何とか3つをパッケージした。


送る相手は、既婚者と、独身でも自炊する奴だ。

せっかく送っても、あっちで無駄になってしまうのは哀しい。

ちゃんと使ってくれる相手に送る。


宛名をスマホのアプリで入力すると、そのまま段ボールを車のトランクに積み、財布を持って玄関にだけ一応鍵を掛けていく。とは言っても、他の部屋の窓は全開なのだから、ほとんど意味はない。


どうせ取られるような価値のあるものも置いてないし、この辺りでは誰も家に鍵など掛けていないが、泥棒に入られたという話もない。

まあ、一応形だけ何となくだ。


最初、この辺りでは皆、鍵なんて掛けないよ、という話を聞いた時は、ぎょっとした。そうなんですか、と答えながらも俺は絶対鍵は掛けようと心に決め、出かける時は窓を全部閉めて鍵をしっかりしていたが、だんだん気が緩んでまあ大丈夫だろう、となってしまった。


田舎の緩い空気に完全に染まってしまっているが、まあいい。もう、都会に戻ることはないのだから。


車の運転席に座ると、鍵をイグニッションキーシリンダーに差し込み、右にグイと回す。

ガシュシュシュ、と音がしてブオンとエンジンが始動した。


車はここに来る時に、中古の程度の良さそうなのを買った。


あまり金を掛けたくなかったから年式の新しいものではなく、一昔前に流行った量産型のRV車だ。


最初は軽にしようかと思っていたが、山道を走ることも多く、ある程度たくさん荷物を積めて雪道でも問題なく走れることを考えて、古い4WDのRVにした。


キーは最近よくあるプッシュスタートではなく、昔ながらの差し込んで捻じるタイプのものだったが、何となく自分がこれから動かすんだ、という気分が味わえて、俺はこっちの方が好きだ。


東京にいた頃は完全なペーパードライバーで、運転する機会も全くなかったので、こっちに来る前に教習所で練習を重ねた。さすがにいきなり道路に出て運転できるとは思わなかったからだ。


最初は緊張したが、何度も乗っているうちにすぐに慣れた。


この辺りはそもそも車も少ないし、80のおじいさんでも車で移動するので、道路に人が歩いておらず、逆に運転しやすかったのだ。


免許を取った時以来の車の運転だが、緑が溢れ、綺麗な川を横目に見ながら、他にほとんど誰もいない道を運転するのは楽しい。


こっちに来てから運転が好きになった。特に用がなくても、なんとなくドライブに出かけるほどに。


あの頃の友人たちが今の俺を見たら、驚くかもしれないな、とチラッと考える。


アクセルを踏み込んでゆっくり家の敷地を出ると、幅の狭い道路をしばらく走ってから大きな県道に出る。

それでも、周りに人工物は殆どなく、目に入るのは緑ばかりだ。


ちらっとハンドル越しにメーターパネルを見ると、デジタル時計の表示は9:06だった。大分高くまで昇った太陽が目に眩しい。


ブルートゥースで車のオーディオに繋げているスマホで、好きな曲を流している。その音に心地よく酔いながら、7キロくらい走ったところに宅配便の営業所があった。


スピードを落とすと、俺は営業所の駐車場に車を停める。いつもながら、他に誰もいないので、一瞬今日は営業しているんだっけか?と焦るが、よく見ると、宅配便会社のステッカーがたくさん貼ってある窓ガラスの向こうに人影が見えるので、ああ、営業中だなとホッとした。


「すみません。荷物を送りたいんですが」

段ボールを3つ重ねて持っていこうとしたが無理だったので、とりあえず一つだけ抱えて入口のガラス戸を開けた。


「あ、こんにちは」

受付にいたのは、いつも荷物を送る時にお世話になる中年の女性だ。

もうすっかり顔を覚えられている。


「もう二つあるので持ってきますね」

言い置いて開けっぱなしている車のトランクから、残り二つの段ボールを運ぶ。


スマホアプリでQRコードを表示させると、ピッと読み取って貰い、手続きは終わりだ。

決済もオンラインで済んでいる。

ずいぶん簡単になったなあ、としみじみ思っている間に、預かりのレシートを貰ったので車に戻った。


とりあえず家に戻ったら、荷物を送ったことを友人たちに伝えておこうと思った。



♢♢♢




ざりざり、とタイヤで庭の砂利を踏みながら、いつもの場所に車を停めると、俺は車を降りて家に入った。

ミーンミーンの合唱が騒がしい。今日も暑い。


ポケットに入れる前に見たスマホの時刻は9:40。

そろそろ仕事を始めるか。


台所の隣にある居間は、和室が二間続きになっていて結構広い。20畳はあるだろうか。


その片隅に東京の2Kで暮らしていた頃から使っている、パソコンデスクと椅子が置いてある。畳の上に置くのもどうかと思ったが、どっちみち古い畳だし、今更、気を使わなくてもいいかとなった。


仕事道具であるパソコンに主電源を入れて起動するのを待つ間、友人にメッセージを送っておく。

「えーと、採れ過ぎたので皆で食べて下さい・・・と」


今の時間は仕事中だろう。送ったメッセージに既読はつかなかった。

パソコンが起動したので、スマホを置いて仕事を始める。


俺がここで暮らしていけるのも、これがあるおかげだ。


こんな夏の盛りでも、午前中はまだクーラーを付けなくても大丈夫なほど涼しい。

部屋という部屋の窓を開け放して仕事をするのが常だ。


風に乗って来る草の青臭い匂いが時折鼻をくすぐる。

ざわめく風、蝉の声、野鳥の声の賑やかさに、俺の叩くキーボードの硬質な音は吸収されて消えていくようだった。


コンクリート造りの息苦しい部屋に沢山の人間と閉じ込められ、耳に響く電話の呼び出し音やパチパチとキーボードを叩く音、絶え間なく鳴る雑音の中で仕事をしていた事が、遠い遠いどこか別世界での出来事のようだな、と思う。


このまま、夕方、時には夜まで。決まった時間に休憩はしないが、一息つきたくなったら、自分で休憩をとる。そしてまたパソコンに向かう。

いつもの日常がそこにあった。





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