第48話 男神と女神の最初の娘

 肌に感じる心地よい温もりに意識が浮上する。


 ゆっくりと瞼を持ち上げれば今にも泣きそうな顔のザイがいた。

 その顔に一瞬違和感を覚える。なんだろう、とぼんやりと見つめる。


「ざい?」

「フェイ……」


 壊れものを扱うようにそれでも精一杯抱きしめる大きな身体は震えている。


「どうした、ザイ?」


 ぼんやりとした意識のまま、ただただザイを抱き返し、その背を安心させるように撫ぜる。


 こめかみに唇が押し当てられる。

 額にザイの額が擦り当てられる。

 シャスタ鉱山の時とはまた違った様子にどうしたのかと疑問が浮かぶ。


 ぽつり、と頬に熱い水滴が落ちた。


「泣いているのか」

「……」


 ザイは答えなかった。


 肩口に顔を埋め、ただ小刻みに震える背を撫ぜる。


 どんな苦境にあっても、死に瀕してさえ怯えや恐怖を見せる事のなかった男が小さな子供のように怯えている。


 神核と身体を切り離されてからの状況は朧げにだがなんとなく察している。


 ザイが神核を取り返してくれてきょうだいが戻してくれた。


 私にできる事はザイが落ち着くまでこうして背を撫ぜてやるだけだ。


 そうして落ち着きを取り戻したザイが顔をあげ、改めて一瞬感じた違和感の正体に行きあたる。


「ザイ、お前、その目はどうした?」

「目?」


 訝し気に問い返すザイの深紅の瞳の中の縦長の瞳孔が金色に変わっていた。


 ザイがじっと私の顔を見つめる。


「特に変わった事はないが」


 その瞳の変容に気づいた様子のないザイに、ふと、黄金のきょうだいの言葉が蘇る。


オーガの因子の鍵を緩めた》


 鬼種の瞳に宿る金色は上位種の証。

 なんらかの切っ掛けを経てザイの鬼人としての『格』が上がったのだろう。


 身体を起こそうとして奇妙な違和感に困惑する。


 身体が重い。


 そう感じ、己の手を見る。

 何ら変哲のない白い手だ。

 だがおかしい。


「フェイ?」


 何かあったかと目で問いかけるザイの息遣い、己の身を抱く太い腕。


 自身を取り巻く全てが、希薄であった筈のそれらが今は何もかもが近い。


 己を守る壁が取り払われたような不安感が増す。


「フェイ」


 鼓膜を打つザイの声に肩が跳ねる。


 何だ、これは……。


「フェイ、落ち着け」


 混乱する私をザイの静かで冷静な声が引き止める。


「ザイ?」

「説明は後でする」


 ザイは私の身の異変について承知している様子だった。


 私をその場に立たせ、ザイが視線を向けた先には燃え盛る炎に囲まれて身動きの取れないアークとアリアがいた。


「フェイ、コイツらをどうしたい?」

「どう、とは」

「黄金の御使には簡単に殺すなとは言われているが、どうする?」


 ごう、と炎の勢いが増す。


「焼き殺すか斬り殺すか、四肢を順に切り落としてゆっくり時間をかけて殺してもいい。コイツらに何をされたか教えてくれたなら、それ相応の殺し方を考える」


 大きく開いた金の瞳孔がザイのやる気を雄弁に物語っている。


「選択肢が全て殺す事に帰結するのはどうにかならんか?」

「最終的には殺す。問題ない」

「問題だらけだ馬鹿者め」


 ザイの鋭い眼差しがこちらへ向く。


「腹立たしくはないのか?」

 俺は腹立たしい。と付け加える。


「確かに腹立たしく、許し難い」


 私とて怒る時は怒るのだ。


 きょうだいたちには生温いとよく言われるが。


「だが、いちいち私が腹を立てていれば、今頃ヒト種は滅びの途にあるぞ」


 きょうだいたちなら絶滅させている。

 その辺が私が生温いと言われる所以なのだが。


「それに、私が怒る前にきょうだいやお前が先に怒るせいで気勢が削がれる」


 先に周囲が怒っている姿を見ると逆に冷静になってしまう。

 そこまで怒らなくとも良いではないかという気持ちになってしまう。


 私の怒りが生温いのはきょうだいたちのせいでもある。今はザイのせいではあるのだが。


 燃え盛る炎の中でアリアを抱き抱えるアークと目が合う。


「あっ……、あなたは、い、一体、なな何者なん……!」


 ひっくり返った声を上げたアークの言葉が止まった。

 その首に炎の蛇が巻き付いた。


「ザイ」


 チッ


 小さな舌打ちと共に蛇が離れ、炎の中に戻っていく。


「私が何者かと問うたな」


 その怯えの中にも隠しきれない好奇心。

 どこまでも業の深い事だ。


 ザイの言葉通りにこの場で始末してしまった方が良いかもしれない。

 しかし、アークがこの世界の未来に関わっている以上、安易な判断は躊躇われた。


「『男神と女神の最初の娘』だ」


 アークの瞳が大きく開き輝く。


「最後の、御使い……、だと言うのですか?」


 その震える声は恐怖ではなく興奮に歪んでいる。


「人は、御使に手が届くところまで来ている……」

「今の私であれば、お前でも手が届こうな」


 静かに告げてやれば期待に満ちた瞳が向けられる。

 それを受け止め、見つめ返せばその瞳の色は一瞬にして恐怖の色に染まった。


「しかし覚悟せよ」

「!」

「御使を手にかけた末の贖いはお前一つの魂だけでは収まらぬ」


 そう、鬼将ゼノンは確かに私の全ての呪いをその魂に受けた。

 だが、私という存在が消えた世界がそれだけで収まる筈がない。


「この世界の現在、過去、未来、あらゆるものを差し出そうともお前が許される時は永遠に来ない。一度きりの死で許されると思うなよ」



 §



 アークは固唾を呑んで固まった。


 神話よりもさらに昔、創世の御使いたち。その中でも特にヒトの間で語り継がれていた最後の御使いが目の前にいる。


 それも一度は自分が追い詰めた。


 ならば、他の御使いをも捕らえる手立てはあるのではないか。

 先程、突然現れた黄金の髪と瞳を持つ美しい存在もまた、御使いだったのだ。


 ヒトが神を超える存在に手が届きつつある。自身の置かれた状況も忘れ、アークはその事実に歓喜し、興奮した。

 だが、それも一瞬の事だった。


 こちらを見つめる最後の御使いの美しいかんばせの中で揺れ動く黒目がちの瞳から感情の色が抜けた。

 瞳の中の黒と白がぎゅるりと渦巻き、瞳が白く、白目であった部分が黒く染まる。


 光のない白い瞳に魂の奥底まで覗き込まれる感覚にアークは悲鳴を上げる事も忘れる程の底知れない恐怖を感じた。


 それは底さえ見えない白い闇だった。


 伝承にある最後の御使いは美しく、世界を愛する慈悲深い存在として描かれ、語られていた。


 だが、思い返せばその伝承を残した国々はこの世界のどこを探してもひとつとして残っていない。強いてあげるならばヴェストくらいなものだが、伝承を残した国ほど古くはない。


 彼女を尊重し、崇め、滅んだ国はきっとどこかで間違えたのだ。


 彼女の優しさを、慈悲深さをヒトの為のものだと勘違いしてしまったのだ。

 ただ、世界を愛するだけの無害な存在と勘違いしその身を滅ぼしたのだ。


 アークの目の前にいる可憐で美しい娘の姿をしたそれは欲深いヒトらにとっての厄災だ。

 例え手が届いたとしてもその手は伸ばしてはいけない。触れられようとも触れてはいけない存在だったのだ。


 アークやアリアもまた、ただでは済まない。

 もはや手遅れだ。彼らは触れてはいけない禁忌に手を出してしまったのだ。


 そんな確信がアークの心を占めた。


「この世界の現在、過去、未来、あらゆるものを差し出そうともお前が許される時は永遠に来ない。一度きりの死で許されると思うなよ」


 御使いの言葉が重くのしかかる。


 御使いの瞳がぎゅるりと逆巻き再び元の黒目がちの瞳に戻る。


「で、どうする?」


 御使いの異変と威容を傍で見、感じていたであろう鬼人の男は動じた風もなく、こちらを横目で見ながら彼女へと問いかける。

 黒目がちな瞳がこちらをじっと見つめながら考えている。瞳が元に戻ってもアークの根源から恐怖が湧き上がる。


 歯の根が合わない程の恐怖が魂を締め上げる。


「反省は十分促せたようだ」


 反省どころではない、今は死ぬほど後悔している。


「きょうだいは簡単に殺すなと言ったのだろう? 生きていてこその使い道はあろう。お前に任せる」

「わかった」


 鬼人の男、ゼノンがこちらをじっと見つめながら頷いた。




















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