第38話
「桃子さん、どうしてるかな」
「急にどうしたのよ」
「だって、もう2年になるし」
真澄はサイドテーブルの水をとって、
「さあ」
といって、一口飲んだ。
「あんなことしちゃ、無理じゃない。できることはやったよ。何度も説得したし。あんたって、意外に引きずるね。私、もう忘れてた」
「出所はいつだろう」
「当分、ないよ。控訴もせず、4年の判決受け入れたんだから。何回、同じこと聞くのよ、あんたも裁判でたじゃない」
「模範囚だったら、もっと早く出れるとか」
「最近はそんなこともないみたいよ。満期出所が多いって弁護士さんいってた」
「…そっか」
トオルは天井を見つめて、じっと黙っていたが、寝入りばなの真澄に向かってもう一度、話しかけた。
「手紙、書こうよ」
「…ええ?」
「手紙。寂しがってるよ、桃子さん」
「もう、何よ。いいよ、そんなこと。だってあっちが拒んでいるんじゃない。無駄よ、どうせ返事なんてこない」
「こなくてもさぁ」
「ったく、明日早いから!寝る!」
真澄はトオルの顔を背にして、寝返りをうった。トオルはようやく諦めたように、シーツを目元までかぶった。
しかし相変わらず気持ちのモヤモヤは収まらなかった。
「日銀総裁の退任はほぼ決まりました。それでは今後の日本経済について、解説していただきましょう。もと内閣参与で経済学者の高下さん、どうぞ」
「日本は長い間、デフレでしたから、これで空気が変わると思いますね。よくなりますよ、景気は」
「日銀の円安誘導は各団体から期待されてますね。総理もその目的で、民間初の三重野さんを日銀総裁に指名したようですね」
「大英断ですよ。前の政権がひどすぎましたから」
「ではマーケットをみてみましょう。先ほどのニュースで円が売られてますね。これはすごい、2円もあがってます」
「方向感からいって、110円はいきますよ。日本企業もだいぶ楽になりますからね。失業率は下がる」
噂は本当だった。
選挙の後、政権与党は案の定、大敗北を喫し、戦後、長期政権を担ってきた民主自由党が復権した。時期総理の阿部総裁は選挙前から、長い不況から抜け出すために、大胆な金融政策を実施すると宣言していた。
「ククク」
トオルは我慢できずに、さっさと寝付いた真澄を残して、「第二マンション」からタクシーで、「職場」に戻っていた。一人パソコンに向かい、背中をゆらす薄気味悪い姿になっていた。
選挙速報番組を手に汗握りながら眺めるのは、4年ぶりだった。前回は長期政権だった民主自由党が敗北した時。円高に振れるのを予想して円買い、FX(外貨取引)でぼろ儲けした。
今回はドル買いだ、これほどイージーな取引はない。
トオルはレバ100倍で、証券口座のボタンをクリックした。
「2億はいける」
次は株だ。円安誘導で飛ぶのは小型株だ。その前に景気浮揚の一番に暴騰する銀行株で玉を作って、「やれやれ売り」が起こるであろう、ウォッチリストの5つの小型に、タイミングをみてぶっこむ。
「キャハハ」
猿の奇声は続く…
この万能感は完璧だ。勝つのがわかっている相場の前では「キチガイ」のように幸福感に浸って良いのだ。危ない橋を渡るいつもの相場とは違う。明日の買い注文を終えると、放心したようにスマホを投げた。
資産の8割、20億…突っ込んだ。
高揚感の後は、なぜか胸の内にドロドロが忍び寄る。
いつもと違う。
桃子の姿が浮かんだのは、なぜだろう。
無論、恋愛感情じゃない。まったく、好みの女じゃない。
何事も引きずらない性格のつもりだったが。それはある意味、この「仕事」に就いて学んだ技術のようなものなので、間違った戦略ならすぐ損切し、考えと別方向にいっても執着せず、上昇に乗っていく。豹変こそトレードで勝つためのカナメなのである。
パソコンのクリックで金を右に左に振らせるだけで、一般人の手の届かないような金額を手にする。もちろん、リスクはある。そのリスクを承知の上で管理し、勝機を見逃さない。
機械的に動く、ただそれだけだ。感情を捨てることだ。
だが人間関係という沼は、自分のような人間の足首を捕まえて離さないのかもしれない。
面倒臭い。
今の資産で何が買えるのか。でかい建物や公共物以外はなんでも買えそうだった。
桃子は、金をだまし取られ、病院から患者名簿を盗み、挙句の果て、傷害事件まで起こしてしまった。
トオルからみればたいしたお金じゃなかった。トレードみたいに損切すればよかったのだ。将来不安のために銀行に出向いたのが諸悪の始まりだった。
真澄と一緒に裁判を傍聴したが、桃子は目を伏せたまま、一切目を合わせなかった。手紙を書いたが、返事はなかった。
弁護士を通じて、謝罪の言葉があっただけで、気持ちの整理ができないはずだから、今はそっとしておいてほしいと、彼はいった。
他人を憐れむのは、余裕のある証拠だ。権力はない、が、金はある。
同情、老婆心、おせっかい、親切、優しさ、憂い、ひょっとして隣人愛?
どれも違う。
大人化。いや老化。
多分そうだな。
トオルはもう一度、手紙を書くことにした。
真澄には内緒で。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます