第39話

「…かもしれないけど」


暗闇の中で、ぽつっと小黒がいった。多分、今、手遅れっていった。

桃子ははじめて、男をぶった。つよい拳で何度も、背中も、額も、髪の毛も。そう。何度もぶった。


小黒は泣いていた。泣いているのに、その間一度も声を出さなかった。ただじっと、頬につたる雫をそのままにしていた。

さんざんぶった挙句、一緒に泣いた。


「許さない」

「許さない、許さない」

声が枯れた。


不思議なものだ。こんな時でもお腹はすく。さっきからずっとグーグーなっている。

なのに二人とも、ずっと泣いて抱き合っている。


「死のう」


小黒はつぶやいた。


「一緒に死のう」


銀行のこと、家庭のこと、桃子が問いただした多くのこと、を小黒は否定しなかった。段々、子供のような泣き顔に変わっていった。


一人で粛々と生きる人生、上も下もなく、真ん中を歩いて時が過ぎる人生。一人で遊べるツールが蔓延するこの世の中、それでも寂しくないのだと勝手に思い込んで30を過ぎた。

小黒との出会いは別世界への気づきだった。


一人で食べて、一人でシャワーを浴びて、一人で外出する世界なんか、戻りたくない。


小黒さん、絶対許せないけど。けど、私。けど、しょうがないって。

しょうがない、しょうがない、しょうがない…私は好きだもの。


小黒は背中を手につよく抱きしめた。桃子の手が微かに反応した。


近づいた理由も正直に告白した。

通院患者には高齢者が多い。そのデータを入手して、個室や特別室を利用する金持ちから、投資資金を得ようとしたのだ。


重役の娘をもらったばかりに嫉妬に囲まれ、経営が傾くと周囲の目を翻すためにわざと危ない噂のある部署に志願した。当初はうまくいっていた。投資の才能も感じ始めていた。しかしその安直なおごりが破滅への道程だった。


部長の暴走を尻拭いするために、仕手戦に近いこともやった。投資部門だけで収益を黒字化するのだと息巻く部長が、尋常な精神の持ち主ではないと気づいたのは2年もあとだった。部長はアルコール依存症で病院に入退院を繰り返す羽目になった。


毎日の不安で家庭でも当たり散らすようになり、義父から聞いているのか、妻も段々そっぽを向くようになっていた。


もはや会社が他行に吸収されるのは時間の問題という。仮に合併がうまくいっても不採算部門は解雇される。当然だ、利益をリカバーするために危険な賭けに出て、めでたく敗北したのだから。


その日、二人はじっと抱き合ったまま、朝を迎えた。

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