第35話

有栖谷のおばさまから、連絡があった。至急、会いたいという。

それも、ホテルの一室をわざわざ借りて、


「うちの公認会計士さん、弁護士さん、も立ち会うからね」

と連絡があった。


立ち会う?何か悪いことした?

胸騒ぎがした。なんだろう、突然…


病院の受付でよろめいて転んだ、ボケた金持ちのおばあさんの姿はとっくに消え去っていた。あれは仮の姿で、相手の用心を解くために馬鹿のフリをしていただけなのだ。食事を共にするようになって、気づいていた。


しかし暗雲立ち込める予感とともに、有栖谷のおばさまがずっと賢くて、ずっと狡猾な人、そんなふうに思えてきた。

桃子はスマホを置いて、なんとなく重くなった胸のあたりを手で押さえた。


「桃子さん、こちら弁護士の国田さん、お隣が公認会計士の西山さん」

「はじめまして、荒木桃子と申します」

「大事な話だから、よく聞いて」

「早速始めさせていただきます。わたくし弁護士の国田と申します」


黒々とした頭に、いかにもそれらしい黒縁眼鏡をかけた男が、見かけ通りの張りのある声で口を開いた。


「後ほど詳しく、西山先生から説明して頂きますが、東京新生銀行の合併については、荒木さん、ご存じでしょうか」

「合併?いえ、知りません」

「おそらく来年あたりになると思いますが、メガバンクに吸収合併される、その既定路線について」


おばさまは桃子の空気を感じ取ったのか、横から言葉を挟んだ。


「あのね、桃子さん、こういうことなの。東京新生は、過剰融資で経営状態がとても悪いのね。過剰融資っていうのは、そうね、無理やり変な会社にお金を貸してそれが焦げついた、つまり取り返せなくなったってこと。それでつぶれそうだから、大きな銀行に吸収されてしまう、ってことなの」


「…なくなるってことですか」

「合併後の詳細はまだわかりませんが、不正融資も指摘されており、おそらく刑事告発があるはずです。そうなると吸収したからといって東京新生の行員さんが残れるかどうかは微妙なところです。相当程度の従業員が整理解雇されるはずです。特に上層部は」


「整理解雇…」

「以上の話は業界話としては一般的に知られていることでして、この度、相談役の御依頼で調査した事項については、西山先生の方から説明させていただきます、西山先生、どうぞ」

「公認会計士の西山といいます。よろしくお願いします」


桃子は呑み込めていなかった。

身分も仕事もわからない人たちに囲まれて。

小黒さんの銀行がつぶれる?


「お水を…」

「桃子さん、落ち着いて。大丈夫だから、私がついてるから」

桃子はペットボトルの水をコップに注ぎ、吸いつくように音を立てた。なかなか呑み込めずに、目を八の字にして、苦い薬でも飲むようにして、ようやく喉にいれた。


「荒木様は現在、M支店で資金を運用されている、それは間違いないでしょうか」

「はい、支店長の方にお任せしてます」

「かしこまりました。それでは運用成績をご覧になったことはあるでしょうか」

「いえ、全面的にお任せしていて、うまくいっていると聞いてます」

「なるほど、そうですか…実は大変申し上げにくいのですが、荒木様の資産はほぼ8割減になっておると想定されます、あるいはそれ以上」

「8割?8割ってどういう意味ですか」

「東京新生の資産運用部門の責任者が投機的な運用をしておりまして、その一人に小黒支店長も入っております。最近、それが明るみにでましてね、某新興国のIPOしたての小型株にレバレッジをかけ、それも100倍のレバで、ありえない形で運用されており、一時は莫大な利益をあげたようですが、経済政策の転換で大暴落しましてね。具体的な損失は会社が未だ発表しておりませんが、現在までの当方の調査では概算で6000億の…」

「桃子さん、あの人たちはね、博打をしたの、ひと様のお金を使って」

「…6000億程度の損失を出したようです。おそらく会社自ら投資部門全体に対して刑事告発するはずです。黙認していたのか、足元の資金の流れを調査していなかったのか、一時的に莫大な利益をあげたことでフリーハンド化していたのかもしれません」


西山の淡淡とした話しりがかえって桃子の胸を突いた。抑揚のない話しぶりから、それがどうやら事実らしいことがいやおうなしに伝わってきた。

何もわからなかった。これ以上聞いていても、頭に入るはずもないのに。

立ってこの苦痛から逃れるために、睡眠薬でも買ってベッドに潜り込みたかった。経験したことのない緊張が手足の隅々まで鞭を打ったように走り、冷たくなった。


「…わたしはどうすれば」

「桃子さん、実はね、まだ続きがあるの。あなたの将来に関わること。残酷かもしれないけど。お金よりもっと大事なこと」

「よろしいでしょうか」


国田が口を開いた。言葉使いの丁寧さより、態度の方が怖かった。これから話すことが彼にとっては特段珍しくもない、日常会話のように思えた。


聞きたくない、聞きたくない、早くここから出して。


「大変申し上げにくいことでございます。当方で契約しておる興信所の報告でございます」


国田は黒いでっぷりしたロイヤーズバックから、分厚い紙の束を取り出した。

動きがとまり、全身が微動だにしなかった。こらえきれない胸の圧迫が次の瞬間襲ってくるのを予想した。


「小黒支店長の調査結果でございます。現在、東京都N区のタワーマンション在で、子供が2人、奥様とその妹、この方は障害をもたれているようで実家を離れ引き取られているようです。子供さんは長男が11歳で中学受験、次男が8歳…」


鈍い音がして、一瞬の静寂の後、救急車、救急車と叫び声が室内を駆け巡った。

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