第6話
毎週金曜日はきつい、きつい、エクセサイズの日だ。何がきついって、筋肉体操させた後に、ダンスやら、縄跳びやら、たった40分の教室なのに、おもいっきりしごかれる。インストラクターのおねえさんは、若い、とにかく若い。年は私よりずっと上なのに、身体能力は10代の頃の私より、優っている。
「はい、最後は深呼吸しながら、ヨガのポーズ!」
その日も、きっちりしごかれ、シャワーを浴びた後、ロッカー室でペットボトルを一気に口に差し込んだ。
「行員さんがすすめるから。日によって目減りしたり、もう面倒だからほったらかし」
なんのことだろうと会話に耳を傾けると、どうやら投資話らしい。桃子は口に含んだお茶をゴクリと飲み返して、額の汗をゆっくり拭き、聞き耳をたてた。
「私の投資信託はすごい増えてるわよ。半年たって、10%、それに分配金もでるから」
「そっちより、配当の方がよくない?配当貴族とか流行っているらしいじゃないの」
「え、配当、いくらあるの」
「配当性向7%だから、毎年70万引く税金、50万くらいよ」
「えー1000万もいれてるの」
「だって行員さんが絶対大丈夫だからって」
「投資信託の方が安全だって聞いたけど」
「よくわかんない。お金、増えてればいいでしょ」
50歳前後の集団だと見受けたが、そんなおばさん軍団が桃子の知らないお金の世界で先をいっているのが意外だった。どのおばさんも桃子とはあいさつ程度の仲だったが、容姿からは想像もできない大金を、憚ることなく口に出すのが不思議だった。
「今はねぇ、相場環境が良いんだよ。まだまだ儲かるわよ」
グループのリーダーらしき、ちょっと派手目の服装の人が囲みの真ん中で、そういった。多分、彼女がみんなを引き込んだのだろう、彼女への視線が妙に神々しかった。
「おばあちゃんの貯金もまわしちゃった、爆益間違いなし」
リーダーが力強くいった。
頭を軽くドライヤーで乾かし、肩にかかる髪をゴムで後ろに結ぶと、まだ終わらない投資話を後ろに桃子はビルを出た。
アパートに戻ると、いつもの鈴の音が待っていた。うち、そと兼用のマリがお腹を空かせている。周りの住人は黙っているが、排せつ物の臭いが充満でもしたらきっと文句をいってくるだろう。幸いお行儀のよいマリは部屋に用意した専用トイレでしか、用を足さなかった。
ミャーと一声啼くと、前足をジャンプさせて膝のすりすりが始まった。食器棚を開けてカップをとり、唐獅子模様の器にコロコロと餌を流すと、我慢しきれずに彼女は私の手を避けて飛びついた。
「ごめんね、お腹、空いてたね」
マリとはかれこれ4年の付き合いになる。この前動物病院に連れて行った時には、歯槽膿漏の歯をみて獣医は「5歳くらいですね」といった。工事中の下水道の奥でたたずんでいた頃が懐かしい。避妊を勧められて、毎朝苦しめられていた発情期の大啼きはようやく納まった。野良歴が長いと、成長してもなかなか人間になついてくれないようだが、マリは違う。ただ外の交流は欠かせないみたいで、それがあるから変にストレスを貯めず、自分のペースでワタシ付き合いしてくれる。
マリは食べ終わると、いつものように専用ベッドで丸くなり、薄目を開けて一睡した。
エクセサイズの帰りに食べた、チキン二つが今日の夕食だった。冷蔵庫のダイエットビールを取り出し、これだからまた太る、火照った体に一気に泡を流し込んだ。
ベッドに飛び込むと、登録動画の通知がきていないかスクロールした。
おひとり様動画、更新されてるかな。
指先をつらつらと動かすと、「始めて(^^♪株投資」なる動画が目に入った。タッチすると、黒メガネのイカガワシイ男が勢いよく、こんにちわ、さっそく始めます、と、ジグザグの細い線を背景にしゃべりだした。
「チャートのここが買いポイントです。下げ、下げ、そしてブレイク、わかりますか」
桃子はそれを見ながら、そういえば日本人の所得って毎年下がっているし、こんな国は世界広しといえども日本だけだというニュースを想い出した。フランスのある学者が書いた学術書がベストセラーとなり、金持ちはもっと金持ちになり、労働者はさらに貧乏になる世界が構築されている、なんてテレビで経済の専門家と称するおっさんが憤っていたのがよみがえった。
そういえば、連絡してなかった。
調度1週間前に会った彼に。
真澄と会って妙に尻込みしていた。私は美しくないもの。どうせ、どうせ、って言葉が何度も浮かんで、いつの間にか面倒になり、忘れかけていた所だった。
桃子は財布に挟んでいた名刺を取り出し、「試しに、試しに」って、微妙に震える指先でメールアドレスのアットマークに触れた。
{先日の件、ご相談してもよろしいでしょうか。確定拠出の書類は昨日、発送しました。}
桃子はメールを打ち終わって、何が本音なのか、投資がしたいから?そうではない感情の方を打ち消そうと、部屋で一人、勝手にドキドキしていた。
否定的に考える癖がついている。どうせ返事はこないとか、どうせ私なんか無視されるとか。でも嘘くさい儲け話に誘うなら一週間も客に連絡しないのはおかしいだろう、と妙に納得して結局、{送信}をタッチした。
すぐに微妙な後悔が起きたが、待つ不安をかき消すためにもう1本ビールをいただくことにした。酔って寝てしまえば、どうでもよくなる、どうせ些末な事だ。
桃子がプルタブを引く合間に、予想に反して、すぐに、返事がきた。鼓動が高鳴る。
{荒木様、お久しぶりです。お待ちしておりました。こちらから連絡するのも気が引けまして。ご興味いただき幸いです。ご提案したい投資案件がありますので、よろしければご予定をお知らせください。休日でもかまいません。よろしくお願い致します}
すぐに返事したら、相手のペースに乗せられる。ここは落ち着いて時間を置いて、明日の朝にでも。
?いや、これただの投資話でしょ。相手にとっては仕事でしょ。なんで緊張するのかしら。恋愛対象でも、何でもない。たまたま銀行で会って、確定拠出の説明をしてもらっただけ。
桃子はビールをさっきから一口も飲んでいなかった。口の中はカラカラなのに、それどころじゃなくて、頭の中が行ったり来たりで、事を決意するのに、まるで人生の岐路に立ったようだった。
{休日ならいつでもかまいません。荒木桃子}
不愛想。そっけない。
でもそうでもしなければ、このドキドキをごまかすことができない。
そして返信は、すぐに来た。
{それでは明日、お昼を御一緒しませんか。場所と時間は店を予約後にご連絡させていただきます。よろしくお願いします}
{こちらこそよろしくお願いします}
返信して後、誰にも見られたくない、変な癖、お相撲さんが勝負の前にやるように、頬を両手でパンパンと2回叩いた。
落ち着け。桃子。
?ランチ、よくよく考えてみたら…
ああ、もういい。雑念ばかりで。そう、これは彼にとって仕事なの。私にとっては老後不安の解消なの。それでいい。
桃子は疲れ果て、ぬるくなったビールを口が膨れるくらい含むと、炭酸の粒を奥歯で噛んで、エイヤっと布団をかぶった。
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