渡辺政樹の最低最悪な結婚生活

橘塞人

F01:結婚式

「渡辺君、私の娘と見合いをしてみないか?」


 ある日職場の上長との面談で、岸本部長は僕にそう言った。彼の言葉は僕、渡辺政樹にとって寝耳に水で、驚きの言葉だった。

この会社に入って五年経ち、仕事では上が見え始めてきた頃合いで、仕事に対して充実感を強く持つようになっていた。その一方で、僕のプライベートはパッとしていなかった。大学時代の友人とはほぼ縁が切れ、休日一緒に遊ぶような友人はいない。そんな僕にとって彼女など、夢のまた夢。


「渡辺君には期待しているからね。だから、このような話をしてみたんだ」


 岸本部長の言葉に嘘はないと分かっていた。例えどんな娘であっても、父親として自分の娘が可愛くない訳がない。ろくでもない男に紹介などしたくないに決まっている。

 岸本部長自身も悪い人ではない。ネットなどでよく目にする理不尽な上司の話を考えると、寧ろ良い部類に入る。


「では、私もお目にかかりたく思います」

「ああ、期待しているよ」


 期待している。それは僕にとっても同じ。ある意味膠着していたプライベートをどうにかする、その状態をどうにかしてくれるかもしれない。

 そんな期待をしていた。








「渡辺さんがいい人で良かったわ」

 岸本部長の娘さん、杏里さんは僕のことをそう言ってくれた。悪い印象は抱かれずに済んだらしい。僕としてもその時、彼女に対して悪いイメージは抱いていなかった。僕への対応はずっと穏やかで、静かなものだったから。

 僕と杏里さんは毎晩LINEを少々し、土曜に週一でデートをするようになった。いつも土曜の昼前にあって、夕方くらいにさようなら。行く場所も映画館や遊園地、動物園といった場所で、まるで中高生のような健全極まりない付き合いだったが、僕は存外それを気に入っていた。


「渡辺。お前、部長の娘さんと付き合っているんだってな。どうだ、調子は? 順調か?」

「ええ、順調じゃないですかね」


 杏里さんと付き合い始めたことは、何故か職場では結構早くに知れ渡っており、先輩などからもこのように声を掛けられるようになっていた。

 恐らく岸本部長に隠す気がなかったのだろう。まあ、僕としても他人に顔見せできなくなるようなことをするつもりはないし、それ以前にそんなことをする度胸もないのでどうでも良かったのだけれど。

 そんな僕に声を掛けてきた仙波先輩は、笑顔を僕に向けてくれた。


「渡辺。お前はすっごい良い奴だ。だから、頑張って幸せになるんだぞ」

「仙波先輩、ありがとうございます。頑張ります」

「おう、頑張れ」


 もし杏里さんと上手く行かなくなったら、職場に居づらくなるかもしれない。そんな不安も頭の片隅にありはしたものの、仙波先輩に言った僕のその台詞もまた、本心ではあった。








「お父さん、お母さん、僕はこちらの方と結婚を前提にお付き合いをしています。必ず幸せになってみせます。必ず幸せにしてみせます。空から見守っていて下さい」

「…………」


 僕の両親は三年前、事故で亡くなってしまっている。両親の命日、僕は杏里さんを連れて僕は墓参りへと向かった。僕は墓石に向かって手を合わせ、杏里さんもそれに従う。

 静かで、穏やかな時間が流れていた。空は雲一つないくらいの青空で、少し離れた場所からスズメの鳴き声が聞こえた。両親の眠る墓地は閑静な住宅街の一角にあって、此処が変に五月蠅くなることはない。だから、そんなこの場所が僕達渡辺家の全員は気に入っていた。杏里さんもまた、気に入ってくれれば僕は嬉しい。そう思っていた。そうすれば良い夫婦になれるだろうと。

 そう、僕達の出会いがお見合いであった以上、僕達の交際は結婚を前提としたものとなっている。だから僕は、杏里さんへは交際を始めて早々に両親が既に事故で亡くなっていることを伝えていた。


「そう」


 その際、杏里さんが発したのはそれだけだった。それはパッと見冷たい反応のように思えるかもしれない。でも、僕としてはそれで同情してもらいたかった訳ではなく、ただ個人情報として伝えたかっただけなので、僕にとってはそれで良かった。

 両親が亡くなったばかりの頃、職場で大いに気を遣われ、同情されたりもしたのだが、それが完全に善意からなのだとしてもプレッシャーに感じてしまっていた。だから、そういうのは勘弁してほしい。ああ、杏里さんはそんな僕の感情を分かってくれていたのだろうか。そうだったら非常に嬉しいし、非常に有り難い。

 僕達は家族になるかもしれないのだから。








「杏里との交際が順調なようで、私は非常に嬉しいよ、渡辺君。あ、渡辺君ではもう余所余所しいか。政樹君と呼ばなくてはな、ハハハハ」

「そうですよ、あなた。嗚呼、こんな誠実そうな子が息子になってくれるかもしれないなんて、こんな嬉しいことはないわ」

「は、はぁ。有難うございます」


 それ以上、何て言えばいいんだ?

 杏里さんとの交際期間がしばらく経ってから、僕は手土産を持って岸本家に挨拶へと向かった。手土産も東京の有名店ではあるがただの和菓子詰め合わせなので、大した金額のものでもない。しかし、この歓迎振りである。嬉しくもあるが、ちょっと引き気味でもあった。


「政樹君には非常に期待しているんだ。だからこそ、杏里を任せられると思ったんだ」

「父さんはこんな感じで、しょっちゅう政樹さんのことを家でも話しているのよ? ここまで言われると、ちょっと困るわよね。政樹さんがいい人だってのは一目瞭然なのだから」


 職場でよりもかなり饒舌で楽しそうになっていた岸本部長に、杏里さんは困った表情を見せた。僕もまた、それは同じだったかもしれない。

 これはプレッシャーだ。この期待は裏切れない。そんな気にさせるから。でも、そのプレッシャーが嬉しくもあった。両親を亡くしてしまった僕に家族はない。でも、また別の家族が出来て、そこで幸福になれるのかもしれないと。


「じゃ、またね」

「ああ、またね」


 岸本部長夫婦との話をしばらくして、あまり長くなるのも失礼だろうと僕は岸本家を失礼した。杏里さんに見送られ、玄関を出る。

 その際、僕は良い流れだなとチラッと思った。そして、軽いキスくらいならばやってしまっても構わないのではないか。そう思ってしまったが。


「それは結婚して、本当の夫婦になってからね」

「ああ、そうだったね」


 額を指でつつかれ、僕は止まった。止められた。

 ああ、そうだ。そういう約束を僕は杏里さんとしていた。所謂ABCは結婚して『本当の夫婦』になるまでやらないでおこう。出会いのキッカケがキッカケなだけに、下手にやって困ったことにならないよう存分に注意しておく為とのことだったが、そのことに僕は不満を持っていなかった。

 僕は未だに杏里さんと肉体関係を持っていない。キスすらしたことがない。それは『本当の夫婦』になるまで後回し。でも、そのことに対して僕は不満に思っていなかった。

 女性と上手く付き合えたことのなかった僕は、こういう交際もあるのだと思っていた。思っていたのだ。

 だからこそ、僕はこの交際がハッピーエンドな結婚に行けるのだと信じて、それから一週間後に杏里さんへプロポーズした。

回答は「Yes」だった。








「渡辺先輩、岸本部長の娘さんと結婚するって本当ですか?」

「ああ、本当だよ」

 職場の一つ下の後輩な女性、古田さんの質問に僕は正直に答えた。彼女は入社してから僕と同じ部署だったので、ちょっと上の先輩としてそれなりに面倒は見てきた。良い先輩だったかどうかは分からないけれど、嫌われない程度には少なくともやってこれた筈だ。

そんな彼女に嘘はつきたくなかったし、式の日程までトントン拍子に決まったので、特に黙っていなければならない秘密も、もうなかった。ならば、正直に話して祝ってもらいたい。僕はそう思っていた。


「そうですか。先輩にはまた家族ができるんですね。良かったじゃないですか」

「うん。それがちょっと地味に嬉しい」


 僕の両親が亡くなった時、古田さんはボロボロと泣いてくれた。僕にはそれがちょっと困りものではあったけれど、後々考えてみれば少し嬉しくもあった。

 感受性豊かで、ちょっと涙脆い古田さんはご両親から大いに愛されてきたのだろう。だからこそ、こんな良い後輩になってくれているのだと。


「結婚式には絶対行きますね。そして、大いに祝ってあげますから」

「有難う」


 古田さんは笑顔を見せてくれた。でも、感受性豊かでちょっと涙脆いから、泣きそうな顔ではあったけれども。








 ぴよ~~~~♪

 間延びしたような笛の音が聞こえた。都内屈指の有名神社で結婚式。僕と杏里さんの結婚式だ。

 結婚式が進んでいく。神主が祝詞を奏上し、三々九度の杯が交わされる。酒に弱い僕は少し表情を歪めながらも、杏里さんと式を進めていく。これは僕達の結婚式。カッコ悪いところは見せられない。みっともない姿は見せられない。まあ、隣の杏里さんはケロっとした顔をしていたが。

 式は進んでいく。指輪を交換し、誓詞を奏上する。酒に耐えながらも、僕は参列してくれた人達を想いながら述べた。僕の両親は不幸な事故があって随分前に亡くなってしまったので、この場にはいられない。兄弟や親族もいない。だが、義父となる僕の上司は、僕のことを本当の息子になるのだと言ってくれている。会社の同僚達も祝ってくれている。そして、隣には穏やかな表情でいてくれる妻。嗚呼、僕は幸福だ。幸福になるのだ。その感謝を込めて。

 こんな幸福が僕に来るとは夢にも思わなかった。女性と上手く付き合えなかった僕には、結婚なんて死ぬまで縁のないものだと思っていた。だが、こうして今日という日を迎えることが出来た。自分の娘さんとお見合いの機会を与えてくれた上司に、僕は死ぬまで足を向けて寝ることは出来ないだろう。

 玉串礼拝が終わり、巫女が舞い、親族盃の儀も斎主挨拶も無事に終わり、結婚式自体も無事に終わった。これで正真正銘、僕達は夫婦だ。僕、渡辺政樹は岸本杏里と夫婦になります。

 変わったところはないけれど、穏やかで平穏な夫婦。そういう夫婦になれればいい。その時の僕はそう願っていた。

 これが愚かな選択だったと知らぬままに。

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