一輪の薔薇

明日の夜。それが彼女の指定した時間だった。

一週間のうち、明日だけは早めに店を閉めるので少し時間があるらしい。


これは、ほんの些細な約束事に過ぎないかもしれない。女性に対し年相応の交流を重ね、

肉体的接触さえ厭わない同輩たちからすれば、歯牙にもかからないような小さい約束。


だが、その約束がどれだけ激しく私の心を惑わしたか。

雲に隠れていた夕陽は隙間からわずかに光を放ち、私の顔を鋭く照らしていた。

別れ際、ミーアさんは小さく手を振った。困惑した雰囲気でも、貴婦人のような上品さでもなく、あの幼女のような無邪気さの残る微笑みを浮かべて。

私が手を振り返して瞬きを二、三回する間に、彼女は雑踏の波へ消えて行った。その後も私はただ茫然と店先に立ち尽くしていた。もう見えなくなった彼女の背中を追い求めるように、いつまでも街道の人混みに視線を走らせていたらしい。

レイラさんが声をかけてくれなければ、本当に何時間でもそこにいただろう。


帰宅の途に着き、街のガス灯がほの暗い街道を照らし出す時間帯になっても私の心は平常心に場所を譲らなかった。部屋に着いてからも、帰り際に購入した一輪の薔薇を摘まんだり花瓶に戻したりを繰り返しながら、いつまでも部屋の中を歩き回っていた。


夕食をとり、この手記を書くために筆を手にした後も彼女の幻影は絶えず私の頭に浮かんでいた。


最後の別れ際。夕陽を浴びる彼女の背中が思い起こされる。

その背中を追いかけ、抱きしめ、隣に寄り添って、彼女と歩いて行けるような資格が私にあるのだろうか。彼女の心優しさにふさわしい善良な人間性など私は持ち合わせていない。

本当は語り掛けていいのかすら分からない。

私が近付くのは迷惑ではないだろうかと何度も考えてしまう。


それにも関わらず、抑えきれぬほどに、私はミーアさんのことが好きなのだ。


全てのものが小さく思える。かつての私を構成していたもの。

小説、音楽、嗜好品の摂取、遊戯場での享楽。

与えられたわずかな余暇をこういった物事に費やすことが私の喜びであり、それらに消費する時間をいかに長く確保できるかということが最大の関心事だった。


何かもっと他にやるべきもの、人生において果たすべき大きな目標というものが別にあって、その目標にこそ自らの才知や努力や時間を全力で捧げなければいけないという感覚は絶えず渦巻いていた。だが私は、それ以外の喜びを知らなかった。享楽に全ての時間を費やすことが最大の幸福であり、それで何も問題ないと思っていた。


数日前の夜。日付をまたいでも当分消える気配のない遊技場の明かりが目の前にあった。開け放しの扉からは中の様子が窺え、円卓を囲んでポーカーやブラックジャックに興じる労働者が大勢いる。


以前は魅力的に映ったその明かりを私は通り過ぎた。遊戯そのものを全く無益なものとか、二度と触れない代物だと感じた訳ではない。幾日かの時が過ぎれば、私も円卓を囲む労働者の一部となり、ストレートやフルハウスを狙う行為に熱中するだろう。


だがミーアさんへの恋心に比べ、手札のジャックやキングたちは余りにも小さかった。

友人、書物、音楽たちの語るかつては無関係だと思っていた言葉が、今なら身に染みて理解できる。


あなたさえいてくれれば、他には何もいらない。

ただあの人に会いたい。

例え全てを無くしてもあの人が欲しい。


明日の夜、私がどのような感情を抱えてこの椅子に座り、目の前の花瓶に生けた薔薇を眺めているのかは分からない。

身を震わすような喜びか。消えてしまいたくなるほどの苦痛や後悔か。


だがどのような結末を迎えようと、ミーアさんを心の底から好きになったということだけは疑いようのない事実として私の胸に刻まれている。


誰かを愛することの尊さ。それをミーアさんが教えてくれた。

たとえこの恋が実らなかったとしても、私が今抱いている感情だけは決して忘れたくない。

永遠に循環する輪の中に身を置き、途絶えることのない日常の雑事に従事するしかないとしても、この気持ちだけは忘却の彼方に消え去って欲しくない。


そのために私はこの手記を書いたのだ。


役目を果たせたかは分からないが、明日の為にもそろそろ筆を置くことにしよう。


嘘のように静かな夜だった。雲の晴れた空にくっきりとした輪郭の月が浮かび、わずかになびく風が心地良い。靴作りに使う諸々の機械の奴隷とならず、ただ自己の中に下り、心情を具現化するという行為が、日常では感じられない静寂と安らぎをもたらすものだと、私は初めて理解した。


目の前を照らしていた蝋燭は芯がほとんど溶けて崩れかけになっていた。

そのか弱い光を浴びる真っ赤な薔薇の花を今一度じっくりと眺めた。

私の心情と同じく、この薄暗い部屋にも訪れた確かな変化。

靴作りのためのハサミやトンカチ、食事のための鍋やスプーン。

時が止まったように使い古された道具類で埋もれ、暗い色合いで統一されていた部屋の中に、美しく咲く一点の薔薇。

それは私に大切なものを感じさせてくれる気がした。


ふと花瓶の中を覗くと水が入っていなかった。帰宅してからの私は宙に浮いたように心が落ち着かなかったので、水をやるのも忘れていたらしい。


これを補充してから眠りにつくことにしよう。

この部屋に生れた大切な変化を枯らさないために。

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暗がりに咲く花 イシカワ @kubinecoze94

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