夕暮れの店先で
この手記を書き始めてから、どれほど時間が経っただろう。
机上でゆらめく蝋燭の火を除いて、周囲に目立った明るさはない。
視線を外に移せば一日の終わりを告げる月が浮かび、窓辺に備え付けたベッドを青白く照らす夜更けになっている。眠りに落ちた街は静まり返り、酒場で深酒を浴びた行商人の声すら深い夜の底に沈んでいた。
今日ミーアさんに会ったのは、いつもと同じ夕暮れ時。
それほどの時間が流れたというのに、私の心は未だ彼女の幻影と共にあるのだ。
実際に過ごしたのは、ほんの僅かな時間。せいぜい十分にも満たないだろう。
店を訪ねると、彼女はちょうど客先へ届けるためのや鉢植えを二本足の木製荷車へ搬入していたところで、僭越ながら私もそれを手伝うことにした。
手にした鉢植えはずしりと重かった。隙間なく荷台へ積み込むだけでかなり腰に響く労働のはずだが、ミーアさんは終始笑顔を絶やさない。カラフルな花を植えた鉢植えが土色をした荷台に整列していく様を見ながら、私たちは些末な話題を共有した。互いの仕事のこと、市場に卸される生鮮品の値段が上がっていて苦しいこと、彼女の母親レイナさんの健康のこと。でも一番伝えたいこと、胸の内に宿って炎のように燃えている一言は、いつまでも引っ張り出すことができなかった。最後の鉢植えを載せ終え、私にお礼を述べたミーアさんは店には戻らずそのまま配達へ出るようだった。
「こんなに重労働だとは思いませんでした。ミーアさんもお体にお気を付けてください」
荷車の持ち手を掴む彼女にそう声をかけた。真夏の日差しではないのに、私の鼻筋には汗が垂れていた。慣れない重労働だけがその要因ではないだろう。
「ありがとうございます。でもご心配いりませんわ。あなたに手伝っていただいたお陰でえ、今日は随分と楽できましたもの。本当に感謝しています」
彼女はそう言って一度持ち手を離すと、例の貴婦人を思わせる仕種で丁寧にお辞儀をした。私もつられて頭を下げる。自然と額に溜まっていた汗が地面を濡らした。その汗を拭いながら顔を上げた瞬間、パッと輝く碧い瞳と柔らかな微笑みを携えた彼女が目の前にいて、薄いピンク色をしたハンカチを差し出してくれた。
その生地の感触が手先に伝わったとき、私は思わず泣き出してしまいそうだった。
この人はどうして、かくも慈愛に満ちた心で人と接することができるのだろう。
偽善や建前で塗り固めた表面的な愛想ばかり振りまく私とはまるで違う。
素直な優しさや感謝の念が言葉の節々に漏れ出している。本当にこのまま城主の奥方へ召使いとして従事しても充分に役割を果たせるだろうし、どんな暴君も彼女の屈託のない優しさに触れた途端、その微笑みの前へ自分の弱みを曝け出し、彼女の胸へ顔を埋め、一時の癒しを求めようとするだろう。
彼女はきっと誰とでも仲良くできる。
些細な苛立ちから生じた不快な感情を我慢できず相手にぶつけてしまったり、何か心配事を抱えた相手に思いやりの言葉一つすらかけることのできない私とは、根本的な心の性質が異なっているのだろう。
彼女と接するたび、その心優しさに対する深い敬慕と、私が持つ愚かな精神への軽蔑を感じずにはいられなかった。
教会の鐘が遠方から響き渡り、雲に覆われた夕陽で街道も少しだけ橙色に染まっていた。その陽が北西の空に沈むまで彼女と共に過ごしたいという願いは叶えられるはずもない。
だが甘い香りを放つライラックやアスチルベが荷台に揺られ遠ざかっていく直前。
荷台の持ち手を握るミーアさんの背中へ声をかけた。
私の声は、群衆が目の前にいれば大笑いを受けるほど、緊張と焦りで震えていたかもしれない。だがゆっくりと振り返った彼女の表情に嘲笑の色はなかった。いつもと同じ優し気な微笑みを浮かべ、小首をかしげながら私を見つめている。一度生唾を飲み込んでから私は言葉を続けた。
大事な話があるので、ゆっくり時間の取れる日はないかと。
そう言い終えた瞬間、小さな後悔が私の心を突き刺した。後戻りできない領域に片足を踏み出しているという実感があった。やはり呼び止めるべきではなかったかもしれない。このまま何もせず、ただ黙って彼女の背中を見送っていれば、いつまでも浸っていられたかもしれない日々。夕暮れ時に店を訪れ、花を選び、日常の喜びや苦悩を少しだけ共有する日々。そのささやかな幸福でさえ私には十分過ぎるのに、なぜそれ以上を求めてしまったのか。
限界だったのかもしれない。それほどまでに私は彼女の呪いに苦しんでいた。
彼女を想えば想うほど、決して手が届かないのだという実感が私の胸を締め付けるのだ。
呪いから解放される方法は二つ。
彼女のことを忘れるか。もう一歩先へ踏み出すか。
私が言葉を切った後、二人の間には沈黙が流れた。
「すみません、突然こんなこと」
耐え切れずに私の方から口を開いた。今思えば実際の沈黙はわずか数秒程度に過ぎなかったかもしれない。だが考え込むようにして俯くミーアさんの姿を見ていると窒息しそうなほど胸が苦しく、何かを喋られずにはいられなかった。
ミーアさんがハッとした表情をして私に視線を寄せる。
「いえ、私の方こそ、ごめんなさい。驚いてしまって」
そう言った後も彼女はまだ考え込むような雰囲気でしばらく黙っていたが、やがてその美しく滑らか唇をゆっくりと開いた。
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