スポイトの一滴
恋とは無縁だと思っていた。誰かの手を握り、そよ風を頬に受けながら誰もいない早朝の公園を二人きりで歩く。週末に愛しい人の部屋へ出向き、食事をし、口づけをして一夜を共にする。友人や書物から得た知識を基にそういう情景を思い浮かべる度、そんなものは深い谷底を隔てた先にある向こう側の世界、自分とは袖を振り合うことすらない架空の世界の話としか思えなかった。
能動的な意志を持たない自分の性格では、谷底を飛び越えて向こう側の人々と戯れる資格がないことは自覚していたし、独りでいることは当然の帰結だと考えていた。
私の周りを流れるのは波風立たぬ平穏な日常だけ。
靴を作り、納品し、パンを食べ、ベッドに身を沈める。
それは身も凍るほど恐ろしい永劫。一つの輪の中を永遠に周回し続ける水の流れと同じだ。
私はその中に落とされたスポイトの一滴に過ぎない。
他の大量の水と混ざり、輪の中で循環を続ける。
なぜ周るのか?輪の外には何があるのか?
そんな純粋な疑問すら一生解くことが出来ないまま、いつしか蒸発して輪の中から完全に消え去る。私ごときでは、その流れに逆らうことは出来ない。
流れに身を任せ、流れに溶け合い、無味乾燥な感情を抱いたまま周り続ける。
自分にはそれしかないと思っていた。
今は明らかに違う。これほど激しく熱を持った感情に包まれたことは人生の中で一度もなかったと、はっきりそう断言できる。起きている間中、あの人のことが頭と心に住みついたまま決して離れないのだ。
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