暗がりに咲く花

イシカワ

呪いの発症

理由は分からない。子供たちの集まる噴水や婦人向けの装飾品を扱う店と同じように、あの小さい花屋も自分とは無縁の存在だと考えていた。でもなぜかその日は。客先へ納品を済ませ、ついでに一斤のパンと一日分のミルクを購入したあの日の帰り道は。


穏やかな夕陽が差し込み、店先の歩道へ整然とした影を落とす薔薇やラベンダーが、なぜか無性に私の心を射止めたのだ。甘い香りが鼻をくすぐり、多様な色を持つ花をぼんやりと見つめる。ライラック、アスチルベ、アマリリス。今となっては頭に浮かぶ花たちも、この時は彩りの輪を形成する一つの点に過ぎなかった。


単品売りもしているし値段も手頃。

だから何か買ってみようかと楽観的に考え真っ赤に染まる一輪の薔薇を手に取ったのだ。


思えば、このときから呪いは始まっていたのだろう。

両手を伸ばせば収まってしまうほど横幅の狭い店内の奥で、ミーナさんは淡い紫色のアジサイに水やりをしていた。彼女のしぐさは長年城主に仕えた貴婦人を思わせるほど穏やかで気品に満ちていた。水差しを置いて店先まで歩いて来る様も、舞踏会に出席しているかのように落ち着き払い無駄がない。


「どなたかへの贈り物ですか?よろしければお包みいたしますよ」

私の側まで来ると、彼女はにっこりと微笑んだ。その声は温かく、そして優しい。だが気品に溢れる動作と裏腹に、間近で見つめた卵型の小さい顔には、やや幼さが残っていた。大きな碧い瞳と二つに結んだベージュ髪が相まって、純粋無垢な少女に似た可愛らしさも感じられる。恋心以前に、自分とさほど歳の変わらなそうな女性が一つの店を切り盛りしているという事実が、私に奇妙な親近感と尊敬の気持ちを思い起こさせた。


「あ、いえ。そういう訳ではなく、自分用で」

恥じらいのせいで彼女の瞳を直視できなかった。震える声で何とか言葉を絞り出す。彼女の胸中は分からない。だが裾のほつれを直さないほど貧相な男、それも贈答品ではなく観賞用に薔薇を買いに来たという男を目の前にしても、嫌悪や億劫さを一切顔に出さなかった。その優しさが純粋に嬉しく、心に染みた。


「あの、この花はどれくらいもつのでしょうか?」

カウンターで会計する最中、純粋な疑問を聞いてみた。


「毎日お水を入れ替えてあげれば、最低でも一週間はもつと思いますよ。もしもう一度ご入り用でしたら、ぜひいらしてください。いつでも待っていますから」

そう言ってクリーム色の紙で包装された薔薇を笑顔のまま両手で手渡してくれた。


彼女の微笑みに呪いが仕掛けられていることは間違いない。今の私はそれを痛いほど自覚している。特に夜。全身を巡る血が沸騰したように熱くなり、彼女に会わない限り決して収まらないほどの苦しみが私を蝕んでいるのだ。


だがこの呪いには潜伏期間があって、最初のうちは、さほど激しい症状を引き起こすこともなかった。あの日は家に着いた後も、磨き用のミンクオイルを買い忘れたこととか、夕食のシチューをつくるのが面倒だとか、そういう日常的な雑念ばかりが思考の大半を占めていた気がする。


呪いが発症したのは、もっと後。いつ起こったのかは分からない。いつの間にか発症して、気付いたときには完治不能な段階に至るほど、私の心は彼女に侵されていたのだ。具体的なタイミングをぴったりと指で指し示せるほど、自分の記憶に明確な確証はない。だが確かなこともある。薄汚れたテーブルに置いた花瓶代わりのワインボトル。その中へ、もう一輪の薔薇が添えられるのに一週間もかかることはなかった。

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