キャップを被った男性

キャップを被った男性の隣に座った。スポーツキャップというものだろうか。私は運動音痴なので分からないが、若者風の動きやすい恰好をしている当たり、何かスポーツをやっている人なのだろう。その割に腕をはじめ体全体が細いのが少し気になるが。


彼は熱心にスマホの画面を見つめている。さも大切な宝物であるかのように、大事に端末を握っていた。別に覗き見しようとなんて思わなかった。だがあまりに見やすい位置にスマホがあるので、勝手に目線がそちらへいってしまう。



早坂:「すみません、気づきませんでした。買い物に出ていたものですから」

早坂:「どういったご用件でしたか?」

桜井:「大事な話があるんです」

早坂:「先月の会費の件ですか?遅れてしまって申し訳ありません。昨日振り込みましたのでご確認ください」

桜井:「そうではなくて」

桜井:「私と早坂さんの今後に関わることなんです」

早坂:「会の運営についてでしょうか?」

桜井:「いえ、もっとプライベートなことです」

早坂:「メールでは伝えられないことですか?」

桜井:「ええ」

桜井:「出来れば明日。直に顔を合わせてお話したいんです」

早坂:「申し訳ありません。明日はお友達とお出かけする約束がありまして」

早坂:「明後日なら特に予定はありませんが」

桜井:「出来るだけ早い方がいいんです」

早坂:「では本日の夕方ではどうでしょうか?」

桜井:「今日ですか」

早坂:「ご都合悪いでしょうか?」

桜井:「いえ、構いません。よろしくお願いします」

早坂:「分かりました。では場所は」



「あまり覗かないでくださいよ」

不意を突かれ、背後から心臓を鷲掴みにされる心地がした。辛辣な言葉を浴びせられる。直感的にそう思って恐怖したが、メールの内容に熱中して顔を近付け過ぎた女を過剰に追求することもなく、桜井さんはにこやかな表情を向けていた。

私にも自然と笑みが伝染する。誰かと顔を向けて笑いあったのは、随分久しぶりな気がした。


「ごめんなさい。つい視界に入ってしまったもので」

「いえいえ大丈夫ですよ。大した内容でもないですし。むしろ一つお聞きしてもよろしいですか?」


桜井さんは非常にゆっくりしたスピードで話す。その声音には何時間でも話を聞いていられるような心地よさがあった。普段接している会社員たちの早口とはまるで違う。

私は少しだけ彼に寄り添ってから首を縦に振った。


「女の方は、どういう風に告白されたら一番嬉しいと思いますか?」

わずかに悲しみを含んだ美しい声だった。

一瞬呆気にとられて真顔になったが、すぐ彼に笑い返した。嘲笑した訳ではない。桜井さんの風貌から『告白』という言葉が出てきたのを可愛らしく思ったのと同時に、彼の笑顔に見え隠れする不安の感情を少しでも和らげてあげたかったのだ。


「ご自分の気持ちを真摯に伝えるのが一番喜ばれると思いますよ。回りくどい言い方なんてしなくても、誠実な気持ちが伝われば、きっと相手の方も応えてくれます」

自分の声が震えているのが分かった。告白未経験なのにこんな話をする何て。恥ずかしさで胸が締め付けられる想いがする。冷房の効いた車内で私の身体だけ異常に熱かった。

それでも桜井さんは私の顔を見据えながら、笑顔で頷いてくれた。


「でもやはり少し不安ですね。お恥ずかしいですが、この歳になってもそういった経験が一度もないので」

「ではお花を持っていかれてはどうでしょうか?その方が桜井さんのお気持ちも伝わりやすいかもしれませんよ」

「しかしどういった花を選べば」

「一緒に選びます!学生のとき花屋でバイトしてたんです。でぜひお手伝いさせてください」

努めて明るい声でそう言った。桜井さんの目から見て、私はどのような女に写っているのだろうか。さも経験豊富そうに振る舞っているが、実は異性と手を握ったことすらない孤独な女だと見透かされたていないだろうか。


別にそれでも構わない。

私はただ純粋な気持ちで、初めての勇気を振り絞った優しい男性の恋心を応援したかった。


停車駅を告げるアナウンスが鳴って扉が開いた。ちょうど桜井さんが降りる駅だったので、私も同伴する。本来降りる駅は別だが、適当に買い物する予定しかなかったため特に問題ない。


外の世界は日差しが光線のように容赦なく降り注いでいた。少し歩いただけで湿気を多量に含んだ空気が顔を取り囲んで額から汗が吹き出してくる。私は遠慮する桜井さんの手を引いて日傘に招き入れた。二人で徒歩10分ほどにあるフラワーショップへ向かう。


日傘が狭いので二人は、ほぼ密着して歩いた。汗の滴る素肌が時折触れ合う。

そのたびに桜井さんは頭を下げて謝るのだが、その顔は明らかに緊張して強張っているのが分かる。


緊張をほぐすため、早坂さんとの関係性について訊ねてみた。

二人は同じ社会人テニスクラブに所属している。桜井さんは会の運営をするリーダー。ラケットの握り方もおぼつかない早坂さんを優しく指導するうち、桜井さんの心はだんだん彼女を求めるようになったらしい。

二人はテニス以外の趣味、クラシック音楽や美術の好みも一致していて、今被っているキャップも早坂さんからの誕生日プレゼントだそう。

でも早坂さんをデートに誘うなんてことできなかった。

彼女には長年連れ添った心優しい旦那さんと、親思いのお子さんが三人もいる。

桜井さんが入り込む余地など全くなかったそう。


「でもあることをきっかけに告白する決心がついたんです」

桜井さんの顔から初めて笑みが消えた。

彼が胃ガンだと口にしたとき、さすがにショックを隠し切れなかった。体の各部位に転移して、余命いくばくもないという。頭を鈍器で殴られたような心地がした。

前方の歩行者用信号が陽炎のように揺らめいて見え、ふらっと倒れそうになるのを桜井さんが優しく支えてくれた。支えが必要なのは彼の方だろうに。


「迷惑なのは分かっています。叶うはずのない想いを伝えるのは我儘でしかありません。

でも私は、とても幸福な日々を過ごしていました。仕事一筋で何も築けなかった私に、神様が与えてくださった最後の施しではないかと。フォームの練習や雑談のとき、私の指と彼女の指が触れ合うことがある。たったそれだけのことなのに、私は家に帰っても一日中体が熱くて、これまで経験したことのない最も純粋な喜びで全身が包まれるのです。

朝起きると『あの人に会いたい』と心の中で叫ぶ。あの人に会うことだけが私の全てで、仕事でどんなに苦痛な思いをしても、あの人の笑顔を瞼に思い浮かべれば全てを忘れられる。

何かの雑談にあの人の名前が出れば、私の心は取り乱し、どんな噂が流れるのかと気に病んでしまう。彼女の瞳に見つめられたとき、その胸元を抱き寄せたいと何度思ったか。

仕事や社会的地位を全て失っても、夫にひどい糾弾を受けようとも、彼女を私の素肌で包み込みたいと何度思ったか。

年甲斐のない行動なのは分かります。決して手を出してはいけないと、理性は何度も命令を飛ばします。

でも死ぬ前に一度だけ正直になりたい。私に愛を教えてくれたあの人に、自分の想いを全て曝け出したいんです。だから」


桜井さんが言葉を切った。涙をこぼす私の顔を見たからだろうか。

夏の日差しが照りつける中、拭いても拭いても涙が溢れてくる。

桜井さんが刺繍入りの白いハンカチを差し出してくれたとき、私は彼の痩せ細った肩をそっと抱いていた。日傘が私の手を離れ、柄の部分を上に向けたまま道端に転がる。

彼の体は本当に細い。ギュッと力を込めると折れてしまいそうな肩や腕は、熱のこもった外気に触れてもなお冷たかった。

でも彼の心は。抑圧された生活の果てに最上の幸福を手にした彼の心は、私とは比べものにならないほど熱くたぎっていた。何不自由しない肉体を持っている私の心より、まもなく死を迎える桜井さんの心の方が、この世で尊ぶべき真理に近い位置にいる気がした。

私の身体をあなたと交換してあげたい。ろくでもない精神の器しかない私の身体などくれてやりたい。一瞬だけよぎった空想を振り払う。私は私ができることをしなければ。


炎天下の歩道で抱き合う男女を前方にあるフラワーショップの店員が怪訝な顔で見つめている。私は桜井さんに「ありがとう」と呟いてすっかり熱くなった日傘の柄を拾い、彼の手を引いて歩き出した。


階段を上がった先のロビーは思った以上にガランとしていた。白いビニール張りの長椅子に点滴台を付けた老人がポツンと座って雑誌を読んでいるだけ。患者番号を告げる電光掲示板も番号が空白のまま電源だけ付いていた。


受付へ向かう自分の足音だけが耳に響いてくる。

面会の処理を済ませ入院病棟の7階へ向かっている間、私は桜井さんにかけるべき言葉をずっと考えていた。彼と会うのは、これが恐らく最期。

たくさんお礼を述べたい。何かを伝えなきゃいけない気がする。

彼から聞いておかないと、一生後悔するような何かがあるかもしれない。


でも結局考えはまとまらなかった。

恐る恐る足を踏み入れた7階のとある4人部屋には、柔らかな夕方の西日が差し込んでいて、白く軽いカーテンから細長い影がいくつも伸びていた。


カチッカチッという時計の音以外、夜のように寝静まっている病室。右側の奥で肘掛け椅子に座り込んでいた女性は私の姿に気付くと、ゆっくりその場で立ち上がり深々と頭を下げた。事前に面会の時間と私の外見を伝えていてくれたらしい。


初めて目にした早坂さんはとても気品に溢れた人で。白髪こそ混じっているものの顔が皺だらけ何てこともなくて。白いセーターがよく似合っていて。とても60代には見えなかった。お土産のフルーツと花を手渡し、私は早坂さんの隣に腰掛けた。


「ごめんなさい。つい先程まであなたのことを嬉しそうに話していたんですけど。話し疲れたのか寝てしまったんです」


子供をあやすように、そっと静かに呟く早坂さんの視線の先で桜井さんは穏やかな寝息を立てている。半年前に炎天下の路上で抱きしめ合ったときより、ずいぶん頬が痩せている。

クリーム色の入院服の袖を通す腕も、もはやペンすら持ち上げられないのではと思うほど、か細かった。でも彼の表情は、あのときより何倍も輝きに満ちている気がした。


「ご結婚なさったんですって。おめでとうございます」

早坂さんが発した不意の言葉に思わず動揺した。

「ち、違います!付き合い始めただけで、まだ結婚は」

声のボリュームがつい上がってしまい慌てて口を抑える。早坂さんがフフッと笑った。

メールには結婚なんて一言も書いてないはずなのに、どこで解釈が間違ってしまったのか。

「私すごく臆病だったんです。想いを寄せる人がいても気持ちを伝える何て出来なかった。でも同じような悩みを抱える桜井さんを見て、有り体な言い方ですけど勇気を貰えたんです。どれだ年齢を重ねても愛に対する気持ちは変わらない。だったら私にも出来るって」

私の顔を笑顔で覗き込む早坂さん。

気恥ずかしいので一度咳払いをして話題を変えた。

「あの、桜井さんの告白に何とお答えしたんですか?」

一番気になっていたことだ。花を購入して待ち合わせ場所に向かう直前で別れたので詳しい状況を知りたかった。

「とても驚きました。私も夫も桜井さんには大変お世話になっていて。3人とも同い年で趣味も合うので、何度もお食事をご一緒していたんですよ。テニスクラブの方も、みんな桜井さんを慕っていました。分け隔てなく誰にでも優しく接する彼を。

桜井さんは心のこもった言葉で、ただ側にいて欲しいとおっしゃいました。最期を迎えるまでの間。出来るだけ近くにいて欲しいと。私はそれに応えるつもりです」

布団の上に投げ出された桜井さんの手に、早坂さんがそっと自分の手を重ねた。

早坂さんが次の言葉を紡ぐ前に、重ねられた二つの手の上に一粒の涙がこぼれた。


背後で身体を動かす音が聞こえた。カーテンに遮られたベッドの中から、『・・・ううん』という声が聞こえる。あまり長居しても他の入院患者の迷惑になる。


私は立ち上がり早坂さんに最後の伝言を伝えると、音を立てないよう静かに病室を出た。

伝言は『私も桜井さんのお陰で一度だけ正直になることができた。本当に感謝している』と伝えた。


病院のバス停で沈みつつある夕陽を眺めているとメールが届いた。

『今仕事終わりました。これからレストラン向かいます。楽しみにしてるね』

半年前に交流を始めた想い人。桜井さんがいなかったら決して手を握ることのなかった恋人。私も今、桜井さんの言う、最も純粋な幸福に満たされている気がする。

『ありがとう』そう心の中で呟いて、メールの返信を書き始めた。

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擬態する群衆 イシカワ @kubinecoze94

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