俯く女子高生
俯いている女子高生の隣にそっと腰を下ろした。かなり小柄だ。歳の開きは相当あると思うが、周りから低身長と馬鹿にされる俺とほぼ同じくらい。女子高生なら普通なのだろうか。着ている制服は明るい水色なのに、彼女の放つ雰囲気は幽霊のように暗かった。顔の大部分が髪で隠れているせいだろうか。
膝に置いた両手を強く握りしめ、体全体に力を込めている。人差し指の先端が触れただけで爆発しそうな恐ろしさを秘めていた。下手に刺激しない方が良さそうだ。
俺は持参したお茶を一口含んでからゲーム機を取り出した。アイテム回収とレベル上げの作業をしておきたい。しかしイヤホンを耳に差し込んで電源を入れてタイミングで、女子高生はスマホを取り出した。彼女の手は小刻みに震えている。ゲーム機とスマホがほぼ同じ高さに並んだ。
できれば草原を歩くキャラクターの操作に集中したいが、彼女のチャット画面に表示された非日常的なメッセージからどうしても目を離すことが出来なかった。
美香:「なっちゃん」
夏子:「何?」
美香:「助けて」
夏子:「え、どうしたの!?大丈夫?」
美香:「今電車の中なんだけど、結構ヤバいかも」
夏子:「どこか痛いの?それとも何か別のこと?駅員さん近くにいない?」
美香:「漏れそう」
夏子:「え?」
美香:「おしっこ漏れそうなの」
夏子:「トイレ行きなよ」
美香:「ダメ使用中なのよ!さっきからずっと」
顔を上げ、車両の進行方向へ視線を移す。6両編成の急行列車に唯一存在するトイレ。淡く点灯する赤色のランプは一向に消える気配がなく、彼女に絶望と焦りを与え続けていた。
電車が揺れる。その度に彼女はスカートを強く握りしめ、頭の上から糸で釣り上げたように体をピンっとさせた。正面を向いてたことで、髪に隠れていた素顔が露になる。
何てことはない。普通の女子の丸顔。だが千切れるほど唇を強く噛みしめているため、彼女の我慢ゲージが爆発寸前であることは痛いほど伝わってくる。
夏子:「我慢できないの?」
美香:「もう限界」
夏子:「途中で降りなよ。急行でもどっか止まる駅あるでしょ」
美香は反論した。途中下車したら部活に間に合わなくなると。だがダムが決壊して洪水を発生させることがいかに生き恥を晒す行為であるかと説得されると一応納得したらしい。
停車駅まで約3分。彼女は窓の外に流れる郊外都市の街並みに目を凝らしていた。右手の親指と人差し指は、左手の甲を力強く摘まんでいる。上へと摘まみ、手の皮が伸びる。力を込め過ぎて明らかに皮が赤くなっていた。
サッカーで膝を擦りむいた友達が痛みを分散させるために小指を噛んでいたが、尿意にもそれは有効なのだろうか。意味ない気がする。女子高生というのは頭が良いと思っていたが、全然そんなことなさそうだ。
途中で力尽きないかと心配していたが、彼女はリタイヤすることなく停車駅の到着を告げるアナウンスを聞くことができた。
安堵の息を漏らす美香。
「あれ~美香じゃん!やっほ~!」
ふいに近づいてきた声に美香は体をビクッと硬直させた。
目の前にいる短いデニムスカートを穿いた茶髪の女は狡猾そうな笑みを浮かべながら、美香の隣席にドカッと腰を下ろす。微かに香水の匂いがした。
「同じ電車乗ってるなんて知らなかったよ。これから部活でしょ?こんなギリギリの電車に乗ってて間に合うの?」
「あ、あの先輩、あの・・・」
「もうホントあり得ないの!親父が二人いてさ、ほとんど座るスペースないのに私の隣に無理矢理入り込んでくるんだよ。美香がいなかったら股間蹴り上げてたかも」
甲高い音程で品のない言葉を口にする女の声は、周りにいるほとんどの乗客の耳に響いていただろう。己が味わった不快な感触を共有したくてたまらないといった感じ。隣に座る美香が膀胱付近を抑えて不自然な前屈みの体勢になっていることなど意に介していなかった。
「あ、あの」
「美香も部活辞めちゃえば~?すっごく楽になるよ。あんなハゲ親父の顧問に気使う必要なんてないって。それからさあ」
力なく愛想笑いを浮かべる美香の両手は、もみくちゃになるほどスカートを強く握りしめていた。今から走り出せば。吐き出される先輩の愚痴など無視して座席から立ち上がれば、大惨事は免れたかもしれない。だが女の軽快なマシンガントークは美香を座席にくくりつけて離さなかった。
希望の光を放っていた乗車口が音を立てて閉まった。
その瞬間、刺すような絶望感が俺の心臓にまで伝わってくる心地がした。次の停車駅までは20分以上ある。美香の額には汗が滴り、表情は完全に余裕がない。体全体をくねらせるように動かしているが、もはや自分の意志では止められないのだろう。あらゆる所に力を張りつめていなければ、膨張しきった圧力はすぐにはち切れてしまう。
隣の女は相変わらず意味のない愚痴を吐露して自己満足に浸っていた。美香の心は今何を思っているのだろう。行動しなかった自らを恨んでいるのか。拘束してくる相手の女に憎悪を燃やしているのか。粗相をやらかせば恥をかくのは自分だけ。はっきり意志表示しない美香も悪い。だが相手の先輩の女に本心を伝えづらいという気持ちもよく分かる。
俺も同じだ。年上の連中に拘束されても何一つ言い返せない。心の底で反抗の牙を研ぎ澄ましていても、相手の眼光や口調に威圧されれば終わり。牙はあっさりとへし折れてしまう。
相手の気まぐれに自分の運命が弄ばれる気持ち。どこにぶつけたらいいか分からない苛立ちだけが募る。
美香がそこまで考えているかは分からない。
だが、ただ頭の軽い女だと思っていた美香に対し、急に同情の念や親近感が湧き出てきた。なぜだ。女に対してこんな気持ちになったことが今まであっただろうか。
その時、緊張していた美香の顔が急にゆるくなった。空気の詰まった密室から外に飛び出して、新鮮な空気を吸い込んだときのような、晴れやかな表情。隣の女も言葉を途切らせる。
そして固く握られていた美香の両手がゆっくりと開いた。
数秒をおいて、女の甲高い悲鳴が響く。
赤い座席シートがどんどん濡れ始める。染みは広範囲に及び、女は飛びのいて美香と距離を置いた。
「ちょっと!あんた何してるのよ!」
女が信じられないといった表情をして叫ぶ。水滴はシートから床へ溢れだし、薄黄色の液が溜まり始めていた。俺の隣にいた乗客すら驚いて席を立つ。
「君、何をやっているのかね」
目の前の座席に座っていた中年の男が立ち上がった。
短く刈り込んで整った頭に、筋肉質な体。ガッチリしたスーツ姿に正義感が滲み出ていて、学校の教員か行政機関の職員のような雰囲気だった。
だが張りのある声で中年が質問を投げても、俺はただ黙っていた。
隣同士。美香と向き合い、互いの瞳を見つめ合っていた。初めて真正面から見据える顔立ち。丸みのある輪郭に埋め込まれた大きくて澄んだ瞳は、状況を上手く理解できないまま俺の視線を受け止めていた。なぜか心臓がドキドキしてくる。美香はその瞳の奥で、一体何を考えているのか。気になって仕方がない。
そして床に溜まった水滴の一部が向かい側の座席下にまで流れ出るころ、中年男が駅員を連れて俺たちの所までやってきた。
空調の効いた駅員の事務室から外に出ると、ピークに達した日中の日差しが全身に降りかかった。一瞬で汗が吹き出てくる。隣に立つ美香の母親が駅員に一礼したので、俺も軽く頭を下げた。駅員は殴りかかりそうなほど高圧的な口調で俺を詰問していたが、穏健派な美香の母親のお陰で大事にはならず釈放された。感謝しかない。
「いいか、もう絶対こんなことするじゃないぞ!!中学生だからって何やっても許される訳じゃないんだからな!」
駅長が声を張り上げた。改札をくぐる乗客の視線が集まったので、美香は恥ずかしそうに顔を伏せた。正義感を発揮し終えて満足気な駅員に解放された後、俺は二人に向かって何度も謝った。愚行を行ってしまって申し訳ないと。俺にとっては愚行ではないのだが。
「手が滑ってしまったのは仕方ないわ。気にしなくて大丈夫よ」
慈悲のこもった声で優しく答える母親の横で、ジャージ姿の美香は気まずそうに俺に視線を向け、そしてゆっくり頭を下げた。肩にかけたナップザックが前側へだらりと垂れ下がる。その中に濡れたスカートと下着が入っていることを想像して、思わずドキリとした。
母親に真意を伝えるつもりはない。単なる子供のイタズラで、美香がミスした訳ではないのだと。もし本当のことを話したら。母親は別に怒ることもなく慰めるだろうが、美香のプライドは深く傷つけられ、泣き崩れてしまう姿が目に浮かぶ。悪者になるのは俺一人だけでいい。
服を汚してしまったこと、部活に遅刻させてしまったことをもう一度深く謝り、俺は二人に別れを告げた。一度降りたホームへ向かい、再び電車を待つ。反対側に停車する車両の窓がカンカン照りの日に照らされて揺らめいているように見えた。ひどく暑い。
喉を潤そうとしてバッグを探る右手は、とっくに使い果たした空のペットボトルを取り出していた。結局一口しか飲まなかったな。そう思いながら新たなお茶を求めて最寄りの自販機に小銭を投入していると、階段を駆け上がってくる美香が視界に入った。躓きそうになりながら俺の前まで走ってきて、汗を拭いながらぜぇぜぇと息を吐いていた。
「あの、二人きりのときにちゃんとお礼が言いたかったんです・・・本当にありがとうございました!あなたがいなかったら私いまごろ・・・」
息が続かないため、途切れ途切れに話す美香。同じくらいのチビだと思っていたが、真正面で向き合うと美香の方が少しだけ身長が高い。彼女が無理なく話せるようになるまで、わざと適当に間を置いた。
「気にしないでください。それに敬語で話さなくていいですよ。俺の方が年下なんですから」
「あ、あの、何かお礼をさせてください・・・じゃなくて、お礼させてよ。君だけが一方的に怒られたままなんて納得できないから」
「いいですよお礼なんて」
「そんなこと言わないでよ。ねえ何かない?食べたいものとか、欲しいものとか、何でも遠慮せずに言ってよ」
まただ。彼女の瞳を正面から見つめていると、無意識のうちに鼓動が早くなる。明るく語りかける口元に視線を移すと異常に体が熱くなる。なぜだ。ホームには屋根があるから日差しは直接降り注がないのに。早くお茶が飲みたくてたまらない。
「じゃあ一つだけいいですか」
「うん、なになに?」
「もう一度俺と会ってくれませんか?」
俺は何を言っているんだ。口に出した途端に、この場から逃げ出したくてたまらなくなる。穴があったら入りたい。耳を塞いで大声で叫びながら、今の発言を取り消して欲しいと念じたい。
でも美香が笑顔で頷くのを見たら、羞恥の心が喜びに取って代わられるのを感じた。こんな感覚は人生で一度も味わったことがない。お互いに連絡先を交換している間、俺は宙に浮いたように心がフワフワしていて、気づいたら美香の背中を見送りながら、一人でホームに立っていた。
自然に顔がニヤけてしまう。気恥ずかしさもあるので止めたいのが、中々止められない。
電車の到着を告げるアナウンスが鳴る。俺は自販機に小銭を入れたままだったことを思い出し、慌ててお茶を購入した。
バッグに入れるとき、まだ空のボトルが入ったままなのに気づいた。捨てようかと思ったが、ゴミ箱に入れる直前で手を止めた。別に理由はない。ただ何となくもったいない気がしただけ。俺は二本のペットボトルをカバンに入れたまま、電車に乗り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます