第10話:“騙”

 アーク・プロメテウスを出発し、ウィルが操縦する小型船はノアへと足を急がせていた。


 彼女の言葉を信じるならば、いつポセイドンからの刺客が訪れるかわからない。一刻も早く帰還し、警戒を強める――あるいは規定された航路を外れる必要があった。

 なにより、ハインと刺客を鉢合わせるのが一番まずい。一方的とも取れる交渉に感情的にならなければいいのだが、ウィルには理性的に話し合うハインの姿が想像出来なかった。焦りは小型船を加速させる。


「ウィル、大丈夫?」

「俺は大丈夫。問題はハインさんだから」

「……アシュリー、無事だといいけど」

「大丈夫。ノアの人たちは俺が守る」


 ステラの声もいまは届いていない。ひとえにポセイドンの残虐性を知っているからだ、その身を以て。

 ポセイドンと冷静に話せるのは自分だけ。そう感じているからこその焦りだった。ハインは簡単に感情が揺れる、カーターもまた気の強い女性だ。


 元々ポセイドンで暮らしていた。彼らに協力していた。これらの条件から、まともに駆け引きが出来るのは自分しかいないと考えていた。

 ハンドルを握る手に力が入る。その手をステラはそっと撫でた。


「ウィル、落ち着いて」

「俺は落ち着いてる」

「落ち着いてない。私の話を聞いて」

「ゆっくりしていられないんだよ!」


 叫んで、気付く。振り返ればステラの表情が微かに歪んでいた。大声で拒絶するほど余裕がなかったのだと知る。

 ハインのことを気にしている場合ではない。冷静に話が出来るのは自分だけなどとんだ思い上がりだ。深々と息を漏らし、ハンドルを握り直す。


「……速度は維持する。話して」


 頷くステラ。彼女はウィルの手に触れたまま語り出す。


「ポセイドンのことを知っているのは確かにウィルだけかもしれない。だけど、それはウィルが一人で戦う理由にはならない」

「……俺以外、ポセイドンと戦える人間なんてノアにはいないよ」

「アシュリーたちは戦えないかもしれない。でも、いまは私がいる」


 ステラの手に力が入る。声音が熱を含んでいることにもいまは気付けた。

「どうしてあんな力が使えるのかは私にもわからない。だけどあれは戦う力。アシュリーたちの命を守る力。私を助けてくれたノアの人たちを、私は守りたい。だから私も戦う。一人で戦わないで」


 その声に既視感を覚えた。かつて“上”にいた頃の、赤黒く錆びついた記憶を刺激した。

 他人だなんて考えられない。やはりステラは――などと結論付けるのも早計。わかってはいた。それでも、信じてしまいたくなる力があった。


 アクセルを踏む力を緩め、またため息を吐くウィル。いったい何度“彼女”に救われるのか。


「……ごめん、相当余裕なかったみたい」

「見てわかった。だから伝えた」

「敵わないなぁ、本当に。ありがとう、ステラ。でも急ぐ気持ちは変わらないよ」

「私も早くノアに帰りたい。アシュリーたちの安全を確認したい」

「うん、同じ気持ち。そうと分かれば――全速前進!」


 ようやく笑顔が戻ったウィル。ステラも安心したか、ほんの僅かに口角を上げた。再びアクセルを踏みつけ、ノアに向かって一直線に突き進んだ。

 近づいてはいたようで、画面にはノアの姿が確認出来る。いまのところポセイドンの気配はない。安堵感から胸を撫で下ろした。

 その矢先。


「っ!? あれは……」


 突如、画面の中に巨大な反応が顔を見せた。ノアが十体並んでも届かないほどの幅、規格外の巨体に根源的な恐怖を思い知らされる。


 小型船に備えられたライトを点け、息を飲んだ。人間の小ささを気付かされるほどの圧倒的な存在感、ノアですら簡単に叩き落とせてしまいそうな立派なひれ。

 下から仰ぎ見るのは初めてだったが、見間違えるはずがない。この海において、あんなに大きな存在は知らない者の方が珍しい。


「ポセイドン!」

「……急ごう、ウィル。みんなを助けに行かないと」

「わかってる! 飛ばすよ、着地気を付けて!」


 アクセルを限界まで踏み、ノアに急接近。膜を突き破る勢いで潜り、空を駆ける。速度を落とさず住宅街に迫り――アンカーを射出した。

 それは住宅街のど真ん中に突き刺さり、小型船はその重さに従い急停止。船内の二人は前方に投げ出され、小型船は不格好に着地する。

 凄まじい音を立てて落ちた小型船、ウィルとステラが飛び出すと同時、住民たちが駆け寄って来る。


「ウィル、ステラちゃん! 無事だったのか!」

「ただいま、心配かけてごめん! みんなも無事!?」

「お、俺たちは無事だけど……そうだ、ハインさんが厨房の方に行ったみたいだ。光の柱みたいなものが降りてきて、その方向に……」

「……まずい!」


 ハインが厨房へ向かった。それに加えて光の柱。恐れていた最悪の事態だ。間違いなくポセイドンからの遣いが来ている。

 そして、厨房の方へ向かった。これが一番まずかった。そろそろアシュリーたちが朝食の準備に取り掛かる頃だ。無事でいることを願う。


 駆け出す二人。厨房は船尾側にある。騒ぎになっていないのが不気味で仕方がなかった。既に話がついてしまっている? だとしたらアシュリーたちの安否は? 焦りと不安でどうにかなりそうだった。


「ウィル」


 隣から聞こえる声。当然、ステラのもの。彼女はじっと前だけを見詰め、短く告げた。


「大丈夫」

「……! うん、ごめん。急ごう!」

「勿論」


 余計なことを考えている場合ではない。ステラの言葉にも視線にも迷いがない。記憶を失い、空っぽ同然のはずなのに、頑強な芯が通っているように感じた。

 なにが彼女を突き動かし、雑念のつけ入る隙を埋めているのか。ウィルにはわからなかった。


 そうして厨房付近へ到着すると、凄まじいほどの怒りで歪んだハインの怒号が飛び込んでくる。


「馬鹿げたことを抜かすな! いきなりやってきてノアを喰わせろ? いまより質のいい暮らしが出来るだと? 誰がはいそうですかと応じてやるか!」

「困りましたね。双方にとってメリットのみ存在する提案のはずですが……ちなみにハイン殿、断る理由を伺ってもよろしいかな?」

「気に食わんのだ! 小奇麗ななりをしとるからってわしらを見下しいるんじゃなかろうな!? 貴様らのような甘ったれた軟弱者にこの船をくれてやる理由がないわ!」

「おや、私が軟弱者であると? 力量を見誤っていらっしゃるようですね、相手を見下しているのは貴方の方ではありませんか?」

「黙れ!」

「……っ! 黙るのはあんただよ!」


 さすがにこれ以上聞いてはいられず、ウィルが飛び出す。ハインの口を強引に塞ぎ、思い切り後ろに引っ張った。バランスを崩し倒れるが、それがウィルの仕業だとわかった瞬間。


「誰に向かってあんただクソガキが!」

「拳骨は後で百発貰う! 小言も幾らでも聞く! だからいまは引っ込んでてくれ!」


 普段のウィルからは想像も出来ない剣幕でハインを嗜める。その迫力に気圧されたか、ハインの拳が止まった。ステラが彼の腕を掴み、告げる。


「ウィルに任せて」

「……どうにか出来るんだろうな?」

「してくれる。だから退いて」


 ステラの言葉は短く誤解を生みやすいものの、伝えたいことが端的でわかりやすい場合もある。今回は良い方向に働いただろう、ハインが渋々引き下がった。


 ウィルは改めて敵を見据える。真っ白の軍服に、三叉の槍の紋章。片眼鏡を身に着けた壮年の男性。彼がマルコム・シモンズであることはすぐにわかった。銃を突き付け、一切表情が変わらないシモンズを睨む。


「久し振りだね、シモンズ」

「おや、どこのどなたかと思えば。ウィリアムくんではありませんか。まさか生きていらっしゃったとは」

「奇跡的にね。それより、あんたたちと話したい。ハインさん……彼よりは会話になると思う。場所を移そう」

「それは好ましくありませんね。ノアのシェフに料理を振る舞っていただく約束がありますので」


 ノアのシェフ。その言葉が意味するところは――アシュリーとカーターが彼の人質になっている可能性が高い。


「……なら、料理が提供されたら彼女たちは解放してもらう」

「それは、ウィリアムくん次第ですね」


 気を悪くするような真似をすれば、彼女たちの身の安全は保証しない。

 暗に脅しているのだ。取引で優位に立てるように。シモンズはこういう男だった。彼が自分下手したてに出たところを見たことがない。


 あくまで対等、基本は優位。敵対すると極めて厄介。仲間でいた頃でさえ、敵に回したくないと感じていた。初めて対峙する彼は表情の固さも相俟って恐ろしく感じる。


「……わかった。俺としても穏便に済ませたい」

「いまの若人は聡明で助かります。……それにしても用意に時間がかかっているようですね。彼女の様子を見て来ていただけますか?」


 その提案を突っ撥ねる理由はない。静かに頷き、厨房の方へ駆け出す。ここから見える小さな小屋、いつもはアシュリーとカーターがそこでノアの人たちの食事を用意していた。


 ――おかしい。


 近づいても火の音も、調理中に立つ匂いもない。聞こえてくるのは、少女のすすり泣く声と嗚咽だけ。

 嫌な予感は当たるもの。蹴破る勢いで扉を開ける。


「アシュリー! ……っ!? え……」


 言葉を失った。


 アシュリーは横たわるカーターの胸に顔を埋めて泣いていた。彼女の母は、光のない目をウィルに向けたまま動かない。額から赤い液体が流れていた。

 すぐには状況を理解出来なかった。あの様子では、カーターは……。


 顔を上げたアシュリーは涙でぐしゃぐしゃになっていた。ウィルの姿を見て安心したか、一際大きな涙が頬を伝う。


「ウィル、くん……お母さんっ、お母さんが……!」


 縋るような声音。腹の底から湧き上がってくるものが拳を震わせる。握る手に力が籠る。爪が食い込み、血が滲むほどに。

 歪む表情。留めようのない怒りが呼吸を浅くし、冷静さを奪っていく。まともに思考が出来ない。


 そこに足音が近づく。呆然自失といった様子のウィル、その背後からシモンズが顔を見せた。


「おや、まだ手つかずですか。動かざるを得ない状況を作り出したというのに。ノアでは仕事もままならない者に食事の用意を任せているのですね」

「……お前ェ!」


 振り返り、シモンズの胸倉を掴む。そのまま厨房の壁に叩きつけ、荒い呼吸を隠さずに迫る。


「アシュリーに料理を作らせるためだけにおばさんを殺したのか!? 動かざるを得ない状況!? ふざけるな! そんなことのために殺したのか!?」

「人を支配する上で最も合理的な手法は恐怖を与えることです。故に、ご婦人を利用させていただきました」

「どこまで腐ってるんだお前は……!」

「こ、この人……ウィルくんの、知り合い、なの……?」


 沈黙を喫していたアシュリーが問いかける。

 いま伝えられることはない。片をつけてから――


「ああ、ああ。ウィリアムくんはご自身のことを明かせない身でして。代わりに私が彼を紹介して差し上げます」

「え……?」


 この男の魂胆が透けて見えた。口を塞ごうにも遅い。シモンズは淡々と、抑揚のない声でかたる。


「彼の名はウィリアム・ドレイク。アーク・ポセイドン技術開発局職員兼、アーク・ノアに遣わされた諜報員です」


 微かな希望さえ奪い尽くそうとするシモンズ。その嘘を見抜く手段を、いまのアシュリーは持ち合わせていなかった。

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