第9話:脅威の影

「ウィルはどこに行った! あの娘もだ!」


 ハインの怒号がノアの背中を飛び交う。カーターも同様に駆け回っていた。彼らだけでなく、住民も騒然としている。突然姿を眩ませたウィルとステラを探しているのだ。

 事情を知っているアシュリーはいつ口を挟もうかと機を計っている状態である。どうにかして安心させてあげたい、その気持ちは勿論ある。

 ただ、実質ノアの船長とも言えるハインに黙って外出したのだ、事情がわかっても拳骨は免れないだろう。


 やんちゃなのは子供たちだけでいいのに、なんて思うアシュリー。ウィルと同じ異邦人なだけに、ノアの住民とは感覚が違っているのも仕方がないかもしれない。

 そんな折、カーターが駆け寄ってくる。


「アシュリー、二人の行方を知らないかい? 朝から姿が見えないんだよ」

「あー、それがね……」


 尋ねられたならば答えてもいいだろう。二人がどこに行ったかまでは知らないものの、なにか理由があってノアを出ている。少しすれば帰ってくるということを伝えた。

 カーターの顔がみるみるうちに緩んでいく。安心しきったのか、その場にへたれ込んでしまった。


「お母さん、大丈夫?」

「どうりであんたは落ち着いてると思ったよ。知ってたなら早く言いなさい」

「だってそれどころじゃなかったんだもん……ハインさん、話を聞ける状態じゃなさそうだったし」


 あの怒りようを見るに、迂闊な発言は避けるべきだと判断したのだ。実母であるカーターだから話せた節はある。

 なにはともあれ、二人が消えた理由がわかればこの騒ぎも収まるだろう。


「わたし、みんなに伝えて来るね。そろそろ朝ご飯も用意してあげないといけないから、お母さんはそっちの準備に向かって」

「ああ、わかったよ。ハインさんにぶたれたらすぐ言うんだよ」

「大丈夫だよ、さすがにわたしはぶたれないと思う」


 拳骨を見舞われるのは間違いなくあの二人だ。とはいえ、ステラは女の子ということもあり殴られる可能性は低い。ウィルは確実に殴られるだろう。帰ってきたときのことを考えると、他人事とは思えないほど恐ろしい。


 住宅街の方はいまだ騒ぎが広がるばかり。ここで二人の行方について語った場合、どうなることやら。すぐに落ち着くといいのだが。

 中心で腕を組むハイン。顔を見ただけで震えるほどの表情につい尻込みしてしまうが、アシュリーは意を決して声をかける。


「ハ……ハインさん、ちょっといいですか?」

「なんだ、いまはあのガキ二人の行方を……」

「それが……わたし、知ってて……」

「なんだと!?」


 ぐいっと顔を寄せるハイン。少しは表情を緩めてほしいものだが、ここで逃げたら騒ぎは一向に収まらない。


「……ウィルくんとステラは、ノアに必要なもののところに行くって、言ってました……」


 ハインの表情が固まる。周りの人たちも呆然とアシュリーたちを見守っていた。

 しんと静まり返る住宅街。そうして――


「……なぜ黙って出ていったのだあの馬鹿者共は!?」


 ハインの怒号が沈黙を切り裂いた。一番近くにいたアシュリーは脳が揺れたかと錯覚するほどの衝撃を感じた。

 これはただでは済まなさそう、直感がそう告げている。


「すっ、すぐ戻ってくるって言ってましたよ!?」

「そういうことではない! これだけ騒ぎになることを想像出来なかったのかクソガキ共めが! 帰ってきたら拳骨一発で済まさんぞ!」

「ス、ステラは女の子なのでお手柔らかに……」

「無論ウィルだけだ! 女に手を挙げられるか!」


 その辺りの理性は保てているようだ。内心安堵はしたものの、そうなるとウィルには同情してしまう。脳震盪を起こさないように、と祈るばかりである。

 アシュリーの言葉を聞き、住民も安心したようだった。なんだー、と呆れたように笑う人々。ある種、これがウィルへの信頼の証拠とも取れる。

 必ず帰ってくるだろう、ハインの拳骨が待っているが。そう感じたからこその表情だと感じた。


 異邦人であるウィルがこうして受け入れられていることに安心する。いまではすっかり元気なウィルだが、ノアに流れ着いた頃はとにかく心を塞いでいた。

 なにがあったのか、どうして海底に沈んでいたのか。誰も触れることはしなかった。それがハインの心遣いであったことを、ウィル本人は知らないだろう。ハインとしても言うつもりはないと思う。

 なんだかんだ、親と息子という見方も出来てしまう。きっとたくましく生きていくのだろうと思わされた。


「じゃあわたし、お母さんのお手伝いしてきます」

「ああ、頼んだ。ウィルの分は抜いていいぞ」

「もう、意地悪言わないでください。心配してるくせに」

「心配なんぞしとらんわ」


 ふい、と目を逸らすハイン。本人がいなくても素直になれないようだ。つい笑みが漏れる。

 踵を返して走るアシュリー。厨房は船尾側にあり、小さな小屋のようになっていた。そこでロット親子は住民たちの食事を用意するのだ。


 ウィルとステラが帰ってきたときに、ほっと一息吐けるような場所。ノアが彼らにとってそういう場所になってほしいと願うアシュリー。


 早く帰って来ないかな。などと考えていると、妙なことに気が付いた。


「……なんか、暗い?」


 見上げれば、勿論なにも見えない。当然だ、光の届かない海底に存在しているのだから。だが今回ばかりは事情が違った。

 とてつもなく巨大な“なにか”がノアの頭上を覆っているのだ。海獣ではない。敵意は感じられない。どころか、襲ってくる気配もない。ただ、ノアを逃がさないように泳いでいるようにも思えた。


 理解の範疇を超える出来事に足が竦む。

 生まれて初めて、本当の恐怖を知ったのだ。体がまともに動かない。力なくその場に座り込んでしまう。


「なにが……起こってるの?」


 震える声で呟くと同時、頭上からなにかが降りてくる。ゆっくりと、アシュリーのすぐ傍へ。

 それは人のようだった。とても綺麗な身形をした男性。ノアで暮らしていればお目にかかることの出来ない、高級そうな素材で作られたものだ。


 そうして着地したのは壮年の男性だった。片眼鏡を装着し、整えられた髭は品の良ささえ感じさせる。身長は高く、ハインよりは細身なものの、どこか洗練された雰囲気を纏っていた。

 それに、男性が着ている服には――正確には、服にあしらわれた紋章には見覚えがあった。ステラが着ていた服のものと同じだったからだ。


 男性はアシュリーを見下ろす。目の奥にはなにも映っていなかった。不気味だと直感的に感じ、アシュリーの全身が粟立つ。


「失礼、驚かせてしまいましたか」


 屈んで手を差し伸べる男性。その手を取ることさえ出来ず、喉からは短い息が漏れるだけだった。男性は訝るように首を傾げる。


「如何なさいましたか?」

「……あ、あなた、誰……?」

「ああ失敬。まずは名乗らねば」


 男性は立ち上がり、畏まったような動きで頭を下げた。


「私の名はマルコム・シモンズ。第一海層首都、アーク・ポセイドンからの遣いでございます。さて、アーク・ノアの責任者はどちらにいらっしゃいますか?」

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