第2話:逸れる路
どこかから鐘の音が迫ってくる。その音が朝を告げるものだと、ウィリアム・ドレイクは知っている。粗末なベッドから身を起こし、大きなあくびを一つ漏らした。
つぎはぎの布といびつな木材で組み立てられたテント。それがウィリアムの家だった。扉代わりの布をめくると、恰幅のいい女性がフライパンとお玉を打ち鳴らして歩いている。ちょうど朝の報せが通り過ぎるところだったようだ。ウィリアムはくしゃっと人懐こい笑顔を見せる。
「カーターおばさん、おはよう」
カーターと呼ばれた女性がウィリアムに気が付く。彼女は呆れたように肩を竦め、笑った。
「おはよう、ウィル。すっきりお目覚めのところ悪いけど、あんたの家の周りだけ三周目だよ」
「え、本当? 全然気が付かなかった」
「やれやれ、寝坊助はノアに来てから変わらないねぇ」
豪快に笑うカーター。ウィリアムは恥ずかしくなったか、笑顔に苦々しさを映した。
ウィリアムはある種の異邦人なのだが、この世界の住人は彼をウィルという愛称で呼ぶ。歴史上初めての来客と言うこともあり、関心は元々高かった。ウィルがこの世界に迎え入れられたのは、それだけではなかったのだが。
「昨日はなにしてたんだい?」
「システムエリアでノアと話してた」
「またかい? 物好きな子だよ、本当に」
苦笑こそ浮かべているが、カーターの声音に悪いものは含まれていない。失われた文明への知識関心こそ、彼が歓迎された要因だった。
「ああそうだ。起き抜けに悪いんだけど、ちょっとおつかいを頼まれてくれるかい?」
「おつかい? いいよ、内容は?」
「あたしにはわからないんだけど、航路がズレてるらしいんだ。ハインさんが先にシステムエリアに向かってるから、あんたも行ってあげておくれ」
「わかった、支度するね」
頷き、カーターと別れる。ウィルはテントに戻り、カンテラのスイッチを押した。ぼうっと柔らかな光が中を照らし、ひび割れた姿見と向かい合う。
世界を表しているかのような深い藍色の短髪は元気よく跳ね回っており、まだあどけなさの残る大きな紅色の瞳。男性としては比較的小柄な体とそばかすが余計に幼さを強調しているものの、体付きはどこか洗練された雰囲気を纏っている。
乱暴に手櫛を通し、寝癖を最低限整える。それから長らく愛用しているゴーグルを着用する。腰に下げたホルスターにはシステムエリアに保管されていた銃を収めた。
「よし、行こう。ハインさん怒ると怖いからなぁ」
ただでさえ起床時間が遅れているのだ、ノアの実質的な船長でもあるハインは既に苛立ちを募らせているだろう。ぶるりと身を震わせ、駆け出すウィル。願わくば拳骨一発で済んでほしいところである。
道すがら、街並みに目をやる。ウィルの知るそれに比べれば随分と簡素なものだった。ぼろ布のテントが幾つも建ち並び、無邪気に遊ぶ子供たちの服装もまた汚れ、破けている。
それでも彼らは生きている。世界の最底辺で、健気に、逞しく。そんな彼らを、ウィルは密かに憧れていた。かつて絶望に打ちひしがれ、生きることを諦めかけた身だからこそ。
見上げれば、あの日と同じ薄い膜。人々はこれによって守られている。
遥か昔、ウィルたちの祖先が遺した狭く閉鎖的な世界。先人の叡智なくして、いまを生きられない。そう感じるからこその勤勉さでもあった。
システムエリアは船尾側にある。過去に存在していたであろう鉱石で造られた階段を一段飛ばしで駆け降りた。軽快な足音が響く。勿論暗いのだが、足元にはカンテラが等間隔で並べられている。焦らなければ転んだりしない――そう、焦らなければ。
「おわあああああっ!?」
目測を見誤ったか、着地したと思った足が前に滑る。尻餅をつき、そのまま階段を転げ落ちていった。最下層まで降りるや否や、痛みに悶絶する間もなく怒号が飛び込んできた。
「この馬鹿者! 階段は一段ずつ降りろとあれほど言っただろうが!」
ゴン、ゴンと力強い足音が迫ってくる。姿を見せたのは一人の大男だった。
短く刈り揃えられた洒落っ気のない白髪に、戦いの歴史を顔に刻んだような厳つい様相。身長はウィルより頭一つ分高く、鍛え上げられた肉体が余計に威圧感を与える。自身の体よりも大きな錆びついた槍を背負っており、鋭い金壺眼がウィルをぎろりと睨んでいた。
「まったく本当に落ち着きのない……男ならもう少しどっしりせんか」
「早く着いたんだからいいでしょ、ハインさんって本当に怒りっぽいったぁ!?」
反論を鉄拳で黙らせるのもこの男の悪い癖だ。などと口にすることは憚られる。言い訳する暇さえ与えてはくれないようで、大男――ハインはウィルの首根っこをむんずと掴んだ。
「カーターから話は聞いとるな? ノアの航路がズレておる。ワシ一人では奴と会話が出来ん、さっさと来い」
「行くって、行くから! 引っ張るのはやめてくれない!?」
ウィルの訴えなどそう通じるはずもなく。抵抗も出来ないまま引き摺られることとなった。
船内――特に、生活圏である背中から少し奥に入るとまるで違った風景が飛び込んでくる。明かりは足元ではなく天井に着いており、絶えずこの通路を照らし続けていた。床や壁も劣化が少なく、滑らかな感触の鉱石で造られている。
いずれもこの時代には存在しないものだ、それだけで胸が躍る。先人たちはどんな生活をしていたのか、それを知るにはこの巨大な船を徹底的に探索するしかなかった。
やがて二人はノアの最奥部、システムエリアに到着した。仰々しい大きな門となっており、ここだけはウィルにはどうしようもない部分だった。ハインは懐から小さなガラスの破片を取り出し、手のひらを浅く裂く。その手を門に押し当てて、初めて開くのだ。
ウィルでも仕組みを完全には理解できていないが、どうやらノアで育った者の血が必要らしい。部外者に船の制御権を奪われないようにするためなのだろう。
仮にそうだとするならば、部外者であるウィルがノアの最奥に触れられているのも皮肉な話である。この巨大な船に関する文献が残っていないのも原因の一つではあるのだが。
システムエリア内もまた未知の――ある種、神秘的な光景が広がっていた。壁には映像が映し出されており、それは天井に設置された物体が見せているものだった。部屋の中央には古代の文字が描かれた多くのボタンが幾つも並び、その傍には台座が鎮座している。
ウィルは台座に近づき、手をついて喋りかけた。
「ノア、おはよう」
その声に反応し、台座が音を立てて起動する。青い光の線が走り、そこから柱が立ち昇る。そうして、柔らかな光を放つ球体が現れた。
『オハヨウ、ウィル。前回お喋りしてから十時間二十七分六秒振りだネ』
「あはは、きっちりしてるなぁ」
「まったく、よくこんな得体の知れないもんと会話が出来るわい……」
ウィルの背後で呟くハイン。未知との接触に好奇心を刺激されないのは年寄りの特徴だ、などと内心毒吐く。ノアには聞こえていなかったようで、彼は淡く点滅する。
『今日はどんなお話をしてくれるノ?』
「今日のお話は後でね、聞きたいことがあって来たんだ。航路がズレてるみたいなんだけど、映像で見せてくれる?」
『ウン、ちょっと待っててネ』
人間でないことは確か。だがこうして会話が出来る。イントネーションが若干不自然ではあるものの、きちんと意志、思考がある。そう設計されたにしても、限りなく人間に近い存在だ。古代文明はどれほど栄えていてのだろう、ノアと話している時間は気持ちが無限に高揚していく。
少しして、壁の映像が切り替わる。ノアの現在地とその周辺、航路と進行方向が映しだされた。正確な距離はわからないものの、どのように情報を拾っているかは気になるところである。
ノアは楕円を描くように移動していたはずで、その航路も黄色の線で描かれている。しかし現在、進行方向はその線から外れているように見えた。本当に微かなズレなのだが、このままではそれこそ未知の領域に迷い込んでしまうかもしれない。それはウィルだけでなく、ハインやカーターたちも不安に思うだろう。
「やっぱり航路から外れようとしてるみたい。ノア、どこに行こうとしてるの?」
『こっちに“ナニカ”アル。それはノアに必要なモノ。だから進路を変更シタ』
「そんな理由で航路を外れられたら敵わんわい。修正せい」
「うーん……ノアに必要だとしても、そこが安全かどうかはわからないもんなぁ。設定された航路に戻ってくれる?」
『変更、修正には管理者の許可が必要だヨ』
「チッ、人の血をなんだと思っとるんだ……」
不平不満を垂れるのに躊躇がないのも年寄りの特徴か。ノアが機嫌を損るようなことはないと思いたい。ハインは再び自身の手のひらを裂き、台座にかざす。
それが許可証となったのか、ノアが再び独自の音を立てる。
『管理者権限を確認。航路の変更を承認しまシタ』
壁の映像を確認すると、確かに黄色の線上に戻ろうとしている。これでおつかいは完了、ということになる。ハインも満足しただろうか、疲れ切ったようなため息を吐く。
「ワシはこれで帰る。お前もあまりここに入り浸るんじゃないぞ」
「はいはい、わかってるってばいったぁ!?」
「はいは一回でよいわ! まったく最近のガキは……」
脳天に拳骨を見舞い、そのまま去っていくハイン。うずくまって呻くウィルだが、ようやく一人になれたのだ。ノアと再び向き合い、困ったように笑う。
「ごめんね、ノア。あの手のおじさんってちょっと嫌味っぽいのが普通なんだ」
『ハインはとても人間らしくていいと思うヨ』
「寛容だなぁ……その懐の深さをハインさんにも分けてあげてほしいよ」
『ゴメンネ、ボクの寛容さは譲渡することが出来ないンダ』
「あはは、例え話だよ」
例え話に真面目に返してくる辺り、人間よりも融通は利かないのかもしれない。
それよりも、他に誰もいないいまがチャンスだ。下手に住人に知られるより、自分だけが知っていた方がいいことなのかもしれない。ウィルは改めて尋ねる。
「ところで、どうして航路を外れたの?」
『ノアに必要だと判断したからだヨ』
「目的地にはなにがあるの?」
『それはワカラナイ。でも、ノアが生きていくために必要なモノがあるヨ』
ノアの回答は要領を得ない。確かな目的があって航路を外れたのであれば、それは不具合ではない。目的地になにがあるかまではわかっていないものの、そこには必要なものがあることはわかっている。
いったいなにに惹かれて航路を外れたのか。規定されている動きに背いてまでそちらに向かおうとした理由は? ノアは先人が遺した文明の中でも最も規模が大きいものだ。文献が残っていない以上、現代に生きるウィルたちにはわからないことも多い。
とはいえ、それに不都合を感じる者はほとんどいなかった。なにせノアで脈々と血を繋いできた彼らにとっては生活の基盤。あって当然のものであり、長らく規定された動きを繰り返していれば気になる点も薄れていくのだろう。古代文明に関心のあるウィルだからこその懸念でもある。
「ねえノア、もう少し広い範囲を映したりは出来る?」
『範囲を広げるとその分曖昧になっちゃうヨ』
「そっかぁ。それでもいいや、やってみて」
『ワカッタ』
壁には記号や文字が羅列されていく。どれも読めないが、なにかを解析しているようだ。そうして少し経つと、先程よりも広範囲を示した図が表示された。
ノアの進行方向から考えるに、西の方へ向かっていたようだ。その先になにがあるのか、目で追っていくと奇妙なものを見つけた。
「すごく大きななにかがある……」
映し出された図の中で、ノアはそれほど大きくはない。せいぜい親指の腹程度の大きさだ。そしてノアが向かおうとした先には巨大な反応がある。それこそ、この巨大な遺産に匹敵するほどだ。
加えて、それに吸い込まれているような小さな反応がある。一つ、二つではない。相当な数だ。どうしてノアはこれに惹かれたのだろう。このまま進んでいれば、いったいなにに出会えたのだろう。
好奇心を突かれるが、余所者の自分がノアの舵を取るわけにはいかない。いつか出会えたらいいな程度に留め、心に蓋をする。
「ありがとう、ノア。それじゃあ俺も行くね」
『またお話しようネ』
「うん、勿論。ばいばい」
台座に向かって手を振ると、二度点滅したのちに球体が消える。門を潜ると、自動的に閉じた。
やはり仕組みはわからない。大方システムエリア内に人の気配がなくなったからなのだろうが、それだって推測に過ぎない。
「……もっと知りたいなぁ、この船のこと」
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