昏き深淵のステラ
小日向佑介
第一章:それはまるで流星のように
第1話:深淵にて
世界に弄ばれている。無抵抗に、気の向くままに運ばれていく。
右も左もわからない、窓の外に見える光景は目まぐるしく移り変わり、時折大きな衝撃と共に船体が揺れる。海中を漂う文明の遺産が衝突したのだと理解した。
定員一名の小型船は決して乗り心地の良いものではなく、棺のようなものだった。死者を送る船とでも言うべきか。不都合なものを闇に葬るには、世界はあまりに都合が良すぎた。
世界の主に反旗を翻した結果がこのざまだ、誰を責めることも出来はしない。自嘲めいた笑いさえ、船体を叩くような天然の暴力が容易く掻き消した。
このままどこへ運ばれるのだろう。この世界は気紛れだ。特に、世界を隔てる五つの“壁”は極めて感情的に振る舞い続けている。
右へ叩きつけるように流れたかと思えば、左へ。天地が入れ替わるような感覚に襲われることもあった。平衡感覚は最早機能せず、何度吐いたかわかったものではない。
海の底へと、抵抗の余地もなく落ちていく。深淵へと真っ直ぐに、凶暴な“壁”さえ突き抜けて。凄まじい揺れに襲われ、強かに体を打ち付ける。受け身を取ることさえままならない中、ただ落下していく事実だけを受け止めるしかなかった。
三半規管が狂うほどの揺れに耐えていると、いつの間にか収まっていた。動いている様子もない。どうやら世界の底――六つ目の世界へ到着したようだった。
この世界について詳細な情報はない。静かで冷たく、荒れ果てた世界。確かに存在するのは暗闇だけ。計画を立てる気力さえ奪われる、可視化された絶望を目の当たりにし、ため息が漏れた。
そもそも人が存在しているのかも定かになっていないのだ、このまま死を待つしかないのか。などと疑問に思うことさえおこがましい。
これでいい。稀代の反逆者にはお似合いの末路だ。
――そうしてどれだけ時間が経過しただろうか。
最後に衝撃を感じてからしばらく経つ。食料、飲料、娯楽。そんな気の利いたものは積まれていない。ただじっと、死を待つばかりの時間が過ぎていく。
呼吸音しか聞こえない中、頭の中は一人の女性のことで一杯だった。
彼女は無事に逃げ果せられただろうか。自分と同じように、世界のどこかに棄てられていないだろうか。彼女もまた、歴史から抹消されてはいないだろうか。
孤独は不安を加速させる。初めてのことだった。体の震えが止まらない。どうか彼女だけは。そう願い、目を伏せる。
底知れない暗闇に身を委ねていると、窓の外の異変に気が付いた。柔らかな光を感じる。ここがまだ世界に含まれるのだとしたら、光を発するものなど一つしかない。衰弱しきった体を這わせて窓に擦り寄ると、巨大な“なにか”が漂っていた。
見覚えはある。ただ、知っているものよりもひどく劣化していた。尾びれはところどころ欠けており、胸びれと思しき部位もまた傷だらけ。背中にはドーム状の薄い膜が張られており、そこで人が生を営んでいることを知っている。
どうやって助けを求めればいいのだろう。“なにか”と直接意思疎通が取れるという話は聞いたことがない。
忘れかけていた生への執着が思考を加速させる。気付いてくれ、助けてくれ。どうにかして訴えなければ。そう思い、無心で叫んだ。乾いた声が船内に響く。外まで届いているかもわからない。
それでも叫び続けた。ここにいる、気付いてくれ。喉が切れ、血を吐いてまで叫んだ。
通り過ぎていく“なにか”。諦めかけたそのとき、微かな揺れを感じた。“なにか”の背中がどんどん近づいていく。なにが起こっているのかわからないまま、小型船は膜をすり抜けていった。
膜の内側には家屋が建ち並んでいた。こちらも既知のものとは大きく様相が異なり、木材や布で簡易的に設られた粗末なものだった。
そうして“なにか”の背中に着地する。小型船の扉がこじ開けられ、目を覆うような光が飛び込んでくる。慌ててまぶたを閉じるが、直後聴こえてきたのは懐かしさすら感じる音だった。
「おい、無事か!?」
「どこから来たんだ!?」
「話は後でいい! まずは休めるところに運ばんか!」
会話さえままならないほど、身も心も擦り切れている。
一方で、心を覆い尽くしていた孤独が拭われていく。人の声が温かく感じた。つい、涙を流してしまった。
不安は塗り替えられ、憔悴し切った心に安らぎを運んでくる。質問に答えることさえままならず、意識は海底より更に深いところへと沈んでいく。
ーーいつか、必ず。皆で海の果てへと至ります。
途切れつつある意識の中。
彼女の声が、聴こえた気がした。
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