Ⅹ   願い事

何もなかったところに、突如現れたその場所に、少女は立ち尽くした。

不思議と、なんの感情も湧かない。心ごと花畑に奪われてしまったかのよう。

少し間をおいて、はっとして、少女はゆっくりと、花畑に足を踏み入れた。

儚げな花々の中を、徐に歩いていく。そして、中央に腰を下ろすと、ふわりと微かに甘い香りがする。

その匂いに、頬が緩んだ。

もし、幼い頃にこの場所に辿り着けていたら、一体何を願っていただろう。

「………………」

再び風が、ざああと鳴く。

風が吹き止んだ時、何処からか白い花びらが——白い雪が降り出した。

髪に、肩に、手のひらに。足元の花々にそれは降り積もり、うっすらと辺りを染めていく。

雪を綺麗だと思ったのは、初めてだ。

これを、あのおとぎ話のように誰かと一緒に見られたら、幸せなんだろうな。

「……ふふ」

うつむきながら、垂れてきた髪を耳に掛ける。

伏せた目は物憂げだけれど、何処か清々しい色をしていた。

「ねえ、    」

少女は口にする。

彼女の、最初で最後の願い事を。

「私、」



————この世界から消えたい。



凍り付いた。

こんな筈ではなかった。彼女は、この世界で幸せになる筈だった。

幸せにならなければならなかった。

それなのに……

思わず零れ落ちた彼女の本音に、酷く驚いている。

目を見開くカミサマに気づかぬまま、少女は続ける。

「でも、存在ごと消えたいわけではないんだよ。この世界からは私という存在は消えることになるかもしれないけれど」

笑いたいのか、泣きたいのか分からない。

それはきっと彼女も同じ。

この胸から込み上げて、喉の奥に詰まっているものは一体なんだろう。

「別の世界でなら、きっと——」

にわかに風が吹きすさび、カミサマの視界を真っ白に染める。

顔を腕で庇いながら、もう一度少女の方を見ると、少女は吹雪の奥で一人、何かを語りかけていた。

まるで吹雪なんてないかのように。依然として座ったまま。

彼女の言葉は、カミサマに言っているようにも、自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

「待って」

苦し紛れに叫んだ声は上手く届けられず、空虚な白い世界に取り残された。


   *   *                      *

*          *   *   *

                       *   *

      *           *              *   *


視界を白い花弁が埋め尽くす。

しかしそれはすぐに飛んでいき、向こうに見知った場所が広がる。

森の奥にひっそりと佇む小さな教会。周りに人の気配はなく、庭には背の高い林檎の木が生えている。




『貴方、だあれ?』



暖かな春の日。


林檎の木を見上げて尋ねる少女が一人。


『僕? 僕はね、——』


少女の視線の先には、茶色い髪の悪魔が一人笑う。


『こんなところで何してるの?』

『あのね、林檎が欲しいの』

『林檎?』

『うん』


少女は語る。

修道院で孤児として育ったこと。

収穫祭のために、ここの林檎を収穫しに来たこと。

そして、自分だけご褒美の林檎を貰えなかったこと。


『だから、どうしても欲しくて、こっそり抜け出してきたの』


そのまっすぐで黒い瞳を見て、悪魔は目を丸くする。

嗚呼、この子も〝神様の御加護〟を受けたのか。


神様は気に入った人間を見つけるとまじないをかけることがある。それが御加護だ。

ただし加護とは名ばかりで、本当は守るふりして傷つける。運命を書き換えて狂わせる。そうやって人間で遊んで楽しんでいるのだ。

これじゃ、どちらが悪なのか分からないよね。


悪魔はふっと、大きく息を吸うと、少女に言う。


『残念だけど、林檎は、まだ、実っていないんだよ』

『そうなの?』


しゅんとして肩を落とす少女。

悪魔はするりと木から飛び降りて、悲しそうな彼女の頬を撫でる。


『ああそんな顔しないで。大丈夫、僕が君のお願い叶えてあげる』

『本当?』

『うん。林檎でもなんでも、好きなものをあげる』


少女はぱっと顔をほころばせる。


『じゃあ、一つしたいことがあるんだ』


何? と悪魔が聞くと、少女は純粋無垢に答えた。


『私を連れていってよ。ここじゃないところに』


悪魔にはそれが、いなくなった両親のところに連れていってほしい、と言っているように思えてならなかった。


『……一人は寂しいものね』

『?』


悪魔の中で過去の自分と、今目の前にいる少女が重なる。

人と違うことも、一人で生きることの辛さも、悪魔はよく知っている。


『ねえ、私のお願い聞いてくれる?』

『えっ。ああ、うん。そうだね』


このままこの子を一人にしたくない。

この子はきっと、幸せになれる筈。神様のお遊びのために、犠牲になんてなっていいわけがない。

絶対に、自分のようには——


『また僕と会った時、君がそれを望むなら』


この子はきっと、助けてみせる。

少女の前髪に乗った、白い林檎の花に触れながら、悪魔は目を細めた。

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無神論者の花だより 橘木葉 @Colors_

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