十八

 翌日の夜。

 皇子は訳語田宮の園池が見える己の居室で几に向かっていた。

 竜の角に驥尾が生えた厲鬼の姿の皇子は、下衣に姉から捧げられた褪せた朱華色の古い袍を肩にかけるという姿で、熱心に灯火に照らされた典籍を読んでいる。

 東観漢記。

 後漢帝国について紀伝体で記された史書で、世祖光武帝以降の皇帝、皇后や諸王、忠臣といった人物についてだけでなく、大国を脅かした隣国や、それよりもまだ遠い西にある国についても記されている。

 この史書も、真備が唐から持ち帰った貴重な国の宝だった。

 真備はその東観漢記を大学寮の図書にも納本し、学生なら誰でも貸し出せるようにしていた。

 今日は旬試の日だったが、皇子は入学して数日だったため課されなかった。

 そのため、皇子はこの日もそれぞれの院を回って、学生達が試験に力戦奮闘し結果に一喜一憂する様を見て回った。

 四書五経については幼い頃から専属の文学に学んでいたので、そこまで悪い結果にはならないだろうと安く見ていた。

 しかし旬試を受けた学生達の消耗ぶりを見ているうちに、皇子の心にも徐々に焦りの気持ちが湧いて、

「吾も何か習学しようかな……」

 となり、真備に頼んで薦められた書を読んでいるのだった。

「西海(地中海)か……海の向こうの山野に果てはないと思っていた。西にも大きな海があるなら、その海にも吾が国と同じように海に浮かぶ島国があるのだろうか?じょう(副官)として長安よりずっと西にいたとはいえ、それよりもまだ西の果てまで行くとは。甘英という男はとてつもなく豪胆な男なのだな」

 腕を組んで感心する。

 しかし、ふと頭を上げて庭の方を見た。

「……ほほーぅ。ここが良く分かったな。なかなかやるじゃないか。通せ!」

 皇子は廂の方に向かって声を掛けた。

 程なくして、

「桑田王様がお成りでございます」

 鈴の音のような侍女の声が響いた。

 訳語田宮に来訪したのは、昨日真備に顎を切断された桑田王だった。

 地味な墨緑色の袍を纏った青年は、その性格や心情を示すかのように暗く沈んだ庭園内に同化していた。

「……この度は吾のような哀れな小人をお助け下さり」

「やめ止め!誰か灯りを増やせ! 桑田も吾と同じ血を引く親族ではないか。資人のような真似はやめろ。こちらへ来なさい」

 皇子はそう言って、白洲に平伏する桑田王に手招きした。

「は……」

 桑田王は居室の傍の廂の床に座る。

 灯火が増やされ、桑田王の整った白い顔が見えるようになった。

「身体の具合はどうだ?動けるようになったか」

 皇子は桑田王の方を向き、笑顔を見せた。

「おかげさまで……」

「それは良かった!昨日は災難だったなぁ。なれはただ使いを頼まれただけだろうに……そうだ。『人』のいない仙境では何かと不便があるだろう。米でも酒でも金でも、何でも持って帰りなさい」

「実は……大叔父様にお話が」

「ほぅ。いいぞ、何でも言いなさい」

「実は、吾も復讐がしたいのです」

「!」

「吾には、父や兄のような才がないため、頭数には入っておりません。しかし……しかし、ささやかな幸せを奪われた吾も、思いは同じ、矜持も同じです」

「……」

「とはいえ、本当に才がないため何もできず……父や兄には相談できません。どうか大叔父様の助言を頂きたく……」

 桑田王はそう言うと、深く頭を下げた。

「……」

 皇子は腕を組み、しばらく黙り込んで庭の池に映る月を見ていた。

 吉備内親王よりも身分の低い母の子として生まれていつも周りに気を使い、本来ならば死ぬべきではなかったはずなのに、内親王の子等と同じ運命を辿ってしまった桑田王を、皇子は気にかけていた。

 ささやかな幸せ――

「……一つ約束しろ」

「はい」

「真備は手に掛けるなよ。掛けようとした時点で汝は吾の敵となる。それだけは覚悟しておけ」

「滅相もありません!!とても無理です!!」

 桑田王はガバッと平伏して答えた。

「吾でも治せない程の深い傷を負ったな、心に……真備は敵に容赦がない」

 皇子はため息をつくと、

「大学は明日から休假に入り、真備は旬試の結果をまとめ次第田假を取る。まとめは明日には終わらないらしいから、ちょっと官衙の方へ行って適当な人間を見繕って見よう。真備に昨日念を押されたばかりだが、必要最小限のことだから構わんだろう……よし!」

「?」

「明日の夜、またここへ来なさい。門を開く」

「門、ですか?」

「門の先の場所、路傍にある、病で死んでいる者の衣か髪を取って来るのだ」

「えぇえっ!?」

 桑田王はのけぞって驚いた。

「殺された者や、寿命で死んでいる者は駄目だ。惨たらしく苦しんで死んだ者が良い。多分行けば分かる。惨めで卑しいと思うかもしれないが、復讐のためと思って耐えなさい」

 桑田王は険しい顔で黙っていたが、

「……やれます!」

「よし、よく言った」

「ですが、どちらに行くことになるのでしょうか?」

 桑田王は少し心配そうな顔で尋ねた。

「……大宰府だ」

 皇子は目を赤く光らせ、口の左端を上げてニヤリと笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

殿上の厲鬼(れいき) 遊鳥 @D_inDeep

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ