十六

 真備は廂の床に敷かれた花氈の上に胡坐をかいて座った。

 母屋の寝所の中にいる吉備内親王と正対する形だ。

 他の者は演奏の邪魔にならないよう、離れた所に花氈を敷いて二列に並んで座っている。

「……しかし、また琵琶ですか……吾としては琴(ここでは軸のない古琴のこと)が良いですねぇ」

 真備はほわほわっとした顔ではないものの、厳しい顔と言ったわけでもなく、やや緊張した真剣な面持ちになっていた。

「駄目、真備。琴は駄目」

「何故です?皇子」

「経書が読みたくなる。いや、読まねばならない気になる」

「グエェ」

 鈎取王は蛙が潰れたような嫌そうな声を出した。

「この前の宴で広足に盃投げつけられたろ?琴を弾くなら旬試の時が良い。気力が増して結果が良くなるぞ」

「そんなに堅苦しくなるのですか!?下道、琴はいかんぞ!息が詰まるようでは吉備をますます弱らせてしまう」

「しかし、琴は孔子も嗜むべしと申しておりました。吾は博士の琴を拝聴したいです!」

 呆れ顔の長屋王とは逆に、葛木王は瞳をキラキラと輝かせる。

「ふぉえぇ~……」

 後ろの席に座る由利は話について行けず、疲れてきたのか目を回していた。

「琵琶に飽きたというのなら、違う物はどうだ?誰か!」

「ちょっと、他人の侍女を吾が物のように扱わないでいただきたい!……ってもう持ってきている!」

「真備、それはどうだ?できそうか?」

「勿論できます」

 侍女が持ってきたのは一面の阮咸げんかんだった。

 阮咸は全長百センチ程、現存する月琴という楽器に似てボディは正円だが、ネックは月琴よりも長い。

 そして、半年ほど前に真備が使用した五絃のように海老尾ヘッドは真っ直ぐな、四弦の琵琶の一種だ。

 海老尾や転手てんじゅ(ペグ)、背面や側面には小花文の装飾が施されており、中央の丸い捍撥かんばち(ピックガード)には玳瑁地に螺鈿で樹下に鹿と猪が跳ねる様が描かれている。

「これも琵琶の一種ではあるのですが……」

「叔父様は本当に意地が悪い。儒士である下道にそれを渡すとは!」

「意地悪ではないぞ。真備にも少し位遊び心を持って欲しいと思ってなぁ」

「吾は奥山で飲酒宴遊する気も時もありませんね」

「つれないなぁ。汝が潰れるとこの国も潰れるんだぞ。時には息抜きをしないと」

「今しております」

「おおお……」

 真備は侍女が恭しく差し出した阮咸を受け取ると、転手を握って調律し始めた。

「うーん、音が……大君の五絃もそうでしたが、こういった高価な装飾がなされた品は実際奏でるとなると……」

 そうつぶやきながら弦を指で弾いた。

「何?駄目なのか!」

「吾も知らなかった。しかし気にするな。真備の調べは音の質が気にならない程圧倒的な迫力だ」

「そうですかねぇ」

 真備は眉間に皴を寄せたまま調律を続ける。

「美しい調べですね!まだ調律なのに」

 後ろの席に座る葛木王は、落ち着きなく伸びあがって、前に座る皇子越しに真備の様子を見ていた。

「……真備をもっとよく見たいのか?ならば場所を代わろう」

 皇子はそう言うと、立ち上がって後ろに下がった。

「よろしいのですか!?」

「吾は何度も見ているからな。それに汝の後ろからでも吾は見える」

「ありがとうございます!」

 葛木王は嬉しそうに前の席に移動した。

「……ご親切な事じゃねーか!素直に従う愚兄も愚兄だが、まし、吾等のこと、殺すほど憎らしかったんじゃねぇのか?」

 皇子が胡坐をかくと、隣の鈎取王が小さく低い声で聞いてきた。

「ん?なんだ、また死にたいのか?」

「!?なワケねーだろが!!」

「ならば黙っていろ。心願は既に遂行した。何度も殺したりはしない」

「母様もか?」

「勿論。ただ……」

「ただ?」

「吾と真備に楯突くとなれば話は別だ」

 皇子も低い声で返した。

「……はぁ?ノスケもだと!?何考えてるか分からねぇ、気っ色悪い爺だぜ」

「鈎取、そろそろ黙れ。葛木も、あんまり食いつかんばかりに見ていると下道の邪魔になるぞ。肩の力を抜け」

「チッ……分かった」

「!き、気をつけます」

 隣の父の言葉を受けて、葛木王は深呼吸した。

「聞くに足ると思います」

「よし、では頼む」

 真備は琵琶の時よりもう少し高い位置に頸がくるように持つと、ホロンと指で弦をかき鳴らした。

 

 神亀六(七二九)年二月、王に謀反の意ありとの密告により、長屋王とその妃である吉備内親王、二人の子である膳夫王、葛木王、鈎取王と母親の違う次子の桑田王は自尽した。

 真備がこの政変について初めて耳にしたのは、苦心惨憺の末ようやく長安に辿り着いた遣唐使達からだった。

 王自身触れていたが、真備を留学生として選定したのは当時式部卿であった長屋王だ。

 勿論武智麻呂達の推挙あってこそのことで、真備は留学生として長安へ行かせてもらったこと自体には感謝の心を忘れてはいないが、だからといって長屋王個人に深い恩義を感じているわけではない。

 式部卿として当然の務めだからだ。

 だから、長安に来た留学生達から政変についての話を聞いても、渡唐前は二人の大君と彼女達に支持された藤原不比等の庇護の下、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった王の栄枯盛衰に吾が国で国政を担うことの難しさを認識させられても、王個人に深い憐憫の情を覚えることはなかったし、他人から聞いた以上のことを興味本位で聞き出そうとは思わなかった。

 玄昉から話を聞いた時にも、まさか今これ程関わることになろうとは予想だにしていなかった。

 ……あの時、王や政変について、もう少し聞き出しておけば、今もっと有利に立ち回れたのではないか?

 今後何が己の役に立つか分からない。

 真備は、これからは何事にももう少し心に留め置くことを心掛けようと思った。

 ところで、詳しく聞き出していないために気になることが真備にあった。

 なぜ吉備内親王まで自尽しているのか、ということだ。

 吉備内親王は今の大君にとって伯母にあたるし、太上天皇にとっては妹という大切な存在ではないのか?

 皇子は先程「例え血が繋がっていても、憎しみ合い殺し合う兄弟もいる」とつぶやいていたが、太上天皇と吉備内親王の間に、見殺しにできるほどの深い亀裂があったとは聞いていない。

 長屋王が共にいて欲しいと願ったのか?

「……別に汝は女癖がひじょ――に悪かった、とまでは言ってないだろう?」

 皇子が長屋王にかけた言葉を思い出す。

 長屋王には罪を問われず生き残った子息も数多いると聞いた。

 皇子と同じ性質なのか――

 思わず頸を持つ手に力が入る。

 真備は依頼を受けたことを後悔し始めた。

 そう言えば、皇子にも山辺皇女という妃がいらっしゃったはずなのに、何故由利殿に手を出そうとするのだ。

 まさか、死んだから己は自由になれたとでも思って――

 真備は首を横に振った。

 こんな怒りの心境で弦を弾いて、本当に大丈夫なのか?

 今はとりあえず長安で流行りの宴饗楽(宴席に用いる民衆の音楽)を弾いてみているが、もっと他に相応しい楽があるのではないか。

 真備はしばらく逡巡しながら手を動かした。

「吾は『鴻門の会』が目に浮かんだよ。漢王と楚王の前で項荘と項伯が剣舞をする様がありありとね!」

 葛木王の言葉を思い出す。

 ……そうだ、良い題材があった。

 真備は曲調を替えた。


「……ねー母様、どうして皆いなくなっちゃたの?吾もう寝ても良いかなぁー」

 鈎取王は母の膝に頭を乗せた。

 鈎取王は小さい角髪に大きな瞳、赤みがさした丸い頬が愛らしい幼子だった。

 普段は乳母めのとや侍女達が沢山いて自由に母の傍に行くことはできなかったが、今日はなぜか寝所に母以外誰もいない。

 だから、鈎取王は遠慮なく母にしがみつき、頬を寄せて甘えた。

 寝所には灯明がなく暗かったが、扉から月の明かりが母子を照らしている。

「……どうしたの母様?怖いお顔!ねぇ、もうおやすみする?吾とおやすみする?」

 月明かりが陰った。

「!?」

 険しい顔をしていた母の吉備内親王は、突然鈎取王を抱きしめた。

「うぷぷ、苦しい!母様苦しいよ!!」

 母の胸に圧されて鈎取王は苦しがる。

「……どうするのだ?屋敷の周りは兵衛で一杯だ。もう逃げられんぞ」

「!」

 今まで聞いたことのない声が室内に響いた。

 母の腕の隙間からちらりと見ると、出入口を塞ぐようにして、黒い山が立っていた。

 赤黒い二つの点が爛々と光っているが、それ以外はよく分からない。

「今なら」

 黒い山から声がした。

「今なら逃げられるぞ。吾の力で何とでもできる」

「逃げるぅ?……」

 鈎取王は眠そうな顔で目を母の胸にこすりつけた。

「氷高も案じている。下らん政争に女のいましまで巻き込まれる必要は全くない。男だけが死ねばよいのだ」

 吉備内親王は鈎取王を強く抱きしめ、しばらく黙っていたが、

「……この子と葛木と共になら」

 と、絞り出すように答えた。

「それは駄目だ。子等は置いていけ」

「この子等こそ大人の事情に巻き込まれる必要はありません!たとえ今より貧しく苦しくとも、生きてさえいれば将来新しい道を切り開けましょう」

「それが駄目だと言っているのだ」

「なぜです!?」

「その子等は汝の血を引いている。生かしておけば、将来大君になるからな」

「!!吾の……吾の血を引いているから殺すのですか!?」

「そうだ。草壁の血を引く者が大君になること、吾は決して許さん。ここで死ね」

「!!」

「……どうしたの?母様?ねぇ!」

 吉備内親王の身体は小刻みに震えている。

 唇から血が滲む程強く噛みしめた。

 そして、鈎取王を置き、山を睨みつけて立ち上がった。

「……ならば、ならば!ならば吾はここに残る!!吾とて大倭根子天之廣野姫天皇(持統天皇)の孫にして日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の娘、太上天皇の妹、そして正二位左大臣長屋王の妃である!妃としての務めを果たさず、子等を置いて一人おめおめ他所へ逃れられるものか!!吾とて妃としての矜持がある!!妃の役目を放棄しろと言うならばここで死ぬ!!下賤なモノに成れ果てた怪異が吾を見下すな!!」

「なんだと!!」

 鈎取王には、大きな山は少し怯んで後ろに下がったように見えた。

 しかし、眼のような点の赤味が増したかと思うと、山は今にも襲い掛かりそうに膨らんだ。

「戯け!!ましに一体どのような才があってそのような口をきく!?草壁も、その子等も、先見の明もなく物事を動かすだけの頭も力もなく、為政者という立場にしがみついてうそぶくだけの全くの能なしだ!!そんなに死にたければどうにでもなるが良い!!吾にはあずかり知らぬ事である!!」

 山はそう言って怒鳴りつけると、扉から遠ざかり、夜の空に吸い込まれて言ってしまった。

「……う、うわあああん!!怖いいぃ!!」

 鈎取王は大泣きして母の足にしがみつく。

「あぁ、吾のせいで汝が死ぬことになるなんて!何もできない至らぬ母で本当に、ごめんなさい……大丈夫、母がおります」

 母は泣きじゃくる息子を抱きしめた。

 鈎取王が己のせいで母が死ななければならなくなったことを知ったのは、全て終わった後だった。


 漢帝国が滅び去って幾星霜、唐の長安に住む人々にとって、漢王劉邦と楚王項羽が命を懸けて戦った楚漢戦争は、酒と共に心を揺さぶり高ぶらせる娯楽の題材の一つとなっていた。

 勝者である劉邦の一生も人気であったが、敗者である項羽とその妻虞美人との今生の別れの話も有名で、聞けば誰もが涙を流し唐代でも詩の題材となるほどの人気ぶりだ。

 虞兮虞兮奈若何(虞や虞や汝を如何にせん)――

 真備は女性の心情を汲み取ることが決して得意とは言えない性格ではあったが、項羽のように長屋王が吉備内親王のことを心から大切にしている(だろう)という気持ちが届けばいい、と思ったのだ。

 真備が爪弾く指を止めると、物悲しい響きは終わった。

 瞑っていた眼を開けて、寝所の中を凝視する。

「なぜなんだ……」

 真備は思わず呻いた。

 寝所の中には、毒々しい瘴気が消え、もとどりが解けて白く長い髪を下ろし、時を経て傷み襤褸になった衣を身につけた女性、吉備内親王が碗を抱えて座っていた。


 屈めていた身を起こし、頭を上げる。

 やつれたその顔に化粧はなくとも美しい。

 目元は膳夫王や鈎取王と同じだった。

 口元が動く。

「……吾は正妃むかいめ。正妃とは務めである。正妃は妻ではない。そして今は正妃ではない。夫に愛されていないことも、妃の立場にないことも分かっている。己が何の役にも立たないことも分かっている。しかし、吾は母である。母であることだけが残った。幼い子を見捨て己だけが黄泉路を行くことはとてもできない。だからせめて、宿願成就の時を見届けたい。永劫の時を共に生きることができないのであらば、せめて……」

 まるで、六年間貯め込んだ思いを吐き出すかのようだった。

 そして、床に伏した。

「むっ!」

 真備は立ち上がり、駆け寄ろうとした。

「!!」

 鈎取王が先に駆けた。

 駆けながら瘴気が消え、あの日の夜の愛らしい姿が露わになった。

「かぁさま――!!」

 元の姿に戻った鈎取王は寝所に駆け込むと、母にしがみついて泣いた。

「母様ごめんなさい!吾のせいで母様が死ぬことになったなんて!母様だけでも逃げて下さればよかった!ごめんなさい!……!?」

 吉備内親王は弱々しながら、泣きじゃくる鈎取王の頭を撫でた。

なれはいつも、泣いてばかりね……」

「母様!」

「母様!!よかった、よかったです!!」

 葛木王も母に寄り添い、涙を流しながら抱き起す。

「葛木も、泣いてばかり……二人とも涙をお拭きなさい」

 起き上がった吉備内親王は弱々しいが優しく微笑んだ。

「……何の役にも立たないなどと……辛いことを言わんでくれ」

 袖手して寝所に入ってきた長屋王が言った。

「確かに生前は妻が何人もいた。しかし、最後まで吾についてきてくれた妻はなれしかいない」

「!!」

「吾は悟った。最後の窮地にまで隣にいてくれる者こそ、己にとって本当に必要な存在なのだと……才などいらん。隣にいてくれ」

 長屋王はそう言うと、母子から背を向け、壁の方を向いて肩を震わせた。

「……言われなくとも、そうさせていただきます」

「ふん……」

「……そうだわ、吾に白湯を与えてくれたお方は誰かしら。白湯がこんなに美味しかったなんて、初めて知りました。まるで甘露のようだった」

「外、外におります!!」

「今お連れしますから!!」

 泣いていた二人の王は慌てて寝所の外に走り出た。

「あ……アレ!」

 葛木王が空を指差した。

 大きな白黒の鳥が二羽、空をゆっくり旋回している。

 そのうちの一羽が、敷地の隅に植えられた松の木の傍に降り立った。

たづだ!!鶴が帰ってきた!!」

 鈎取王が鶴に近い所まで走り、欄干から身を乗り出して鶴を見る。

 頭の赤が鮮やかな白鶴だ。

 鶴が一声鳴くと、もう一羽の鶴も地面に降り立った。

 先に来た少し大きな鶴が、後に来た鶴を気遣うように毛繕いをする。

 寄り添うようにして互いに毛繕いをする様子は仲睦ましい妹背そのものだった。

「鶴が帰ってきたのか。また一つ、昔の宮に戻っていく……」

 吉備内親王の身体を支えて廂に出た長屋王がつぶやいた。

「!!ぼさっとするな葛木!郎女だ郎女!!」

 鈎取王が戻ってきて、葛木王を小突く。

「何で急にひそひそ声になるんだよぉ」

「それはいーんだ!……あれ!?」

 花氈の上に座っている者は誰もいない。

 由利が座っていた場所には、由利の代わりに阮咸が置かれていた。


「汝は会いに行かなくていいのか?母様に」

「どの面下げて会いに行けば良いのだ!……後で身なりを整えてから行く」

 膳夫王は涙を拭いながら、皇子の言葉に憮然とした表情で答えた。

 皇子と膳夫王は、真備達一同がいた廂の下に隠れて座っていた。

 膳夫王は土と血でドロドロに汚れていたが、顔や衣の隙間から見える皮膚に目立った怪我はなくなっていた。

 皇子は隣に伏せっていた瑤光に手をかざすと、薄緑色の火花がバチッと体を覆う。

「下の兄弟と違って可愛げがないな。一番下も見た目だけだが。よし、治った!」

 すると、鎗の穂先でズタズタだった瑤光の身体は元通りになった。

 瑤光はウォウと一声吠えると、かざしていた手を噛んだ。

「イタッ!何で噛むんだよ!?恩人だぞ!」

「恩人の前に敵なのだ、汝は!」

「……ところで鶴はどうやって呼び寄せた?幻術か?」

 皇子が噛まれた手を振りながら尋ねた。

「……吾が氷棺で隠しておいたのだ。吾等の宝を、羽根一枚だって下人達に渡すものか!」

「膳夫って慳貪けんどん(ケチ)だな!」

「なんだと!?」

「さて、戻るかぁ。まだ真備に話すことが残っているからな」

 皇子は天井に角が当たらないように気をつけながら腰を上げた。

「とりあえず、今日は休戦だ。次会った時こそ命がないと思え!」

「それは楽しみ。いい鍛錬になりそうだ」

 凄む膳夫王に、皇子は口の左端を上げて笑った。


 顔を真っ赤にした真備は、演奏中に疲れ果てて眠ってしまった由利を抱いて正門までやってきていた。

 腕の中の由利が目を覚ます。

「はれ、みんな……さんは?」

「!?」

 真備は由利をそっと地面に座らせると、慌てて三メートルほど離れた末、平伏した。

「誠に申し訳ございません!!お休みだったので起こしてはならないと思い!!そして先程から何度もふ、は、肌を……」

 恐縮しきって叫んで詫びた。

 すると、

「ノスケー!!まだ帰るんじゃねぇ!!」

「博士、じゃなかった大学助殿!!」

 鈎取王と葛木王が慌てて駆けてきた。

「こちらを……汚れや破れはこちらで修繕致しました。余計な事でしたら申し訳ありません。今お召しの衣も、よろしければこれからもお使い下さい」

 葛木王は抱えていた大きな筥を包んだ綾絹の包みを、立ち上がった真備に手渡した。

「衣ですか。あれは仲麻呂からの餞別で大切な物だったので、助かりました」

「良かった……」

 葛木王は、真備の顔がいつものほわほわっとした顔になっているのを見て、顔をほころばせた。

「そうです、みましのことで一つ忘れていたことがありました」

「?何ですか?」

「汝の願いとは何ですか?」

「!!」

 葛木王の顔が真っ赤になった。

「お、お聞きになられていたのですね……いや、その、もう母を救ってくださっただけで十分なんです、本当に」

「そうですか?」

「……はい……」

「……んな訳ね~だろが愚兄!!汝大学行きたいっつってたろうが!」

 鈎取王が兄の尻を蹴り飛ばした。

「痛っ!!鈎取、何で言っちゃうんだよ!!」

「学生になりたいのですか?」

「!!いえ、そのぉ……大叔父様のように……までとは行かなくても、その、紀伝の講義を拝聴したいな、と……」

 葛木王はモジモジしながら答えた。

「どちらも構いませんよ」

「……え?」

「皇子のように学生としてでも、紀伝だけ聴講されても。その代わり、どうするか報せを下さい。門を開けますので」

「?……!?……!!」

 葛木王は、まるでタップダンスを踊るように足をドンドンと踏みしめ始めた。

「……や、やったー!!わ、吾は信じておりました!学生のために東奔西走するお姿を見て、きっと吾等もお救い下さるだろうと信じておりました……良かった!吾の願いまでかなえて下さった!!博士は本当に素晴らしいお方だ!!ありがとう、ありがとうございます!!」

 興奮した葛木王は思わず真備に抱きついた。

「喜ぶのはまだ早いですよ。きちんと左大臣殿の許可を得て下さい」

「はい、はい!!」

「……あーあ、いい年してみっともねぇ、見てらんねぇわ!汝、吾が分かるか?」

 鈎取王が由利に聞いた。

「あ?えーと、独楽の」

「!そうだ、独楽だ。今度吾の独楽捌きみせてやるよ……それと」

「?」

「……それと、今日はありがとう。何があっても汝のことは忘れないし、何かあったら瑤光に乗って駆け付けるからな」

「!?……うん、ありがと、ございます」

 由利はぺこりと頭を下げた。

「鈎取!菖蒲剣をお返ししろ!いつまで持ってるつもりだ!」

「えー返すのか?勿体ねぇ……」

 鈎取王は、腰の革帯に差してズルズル引き摺っていた剣を鞘ごと引き抜いた。

「よく菖蒲剣とお判りになりましたね。……?待って下さい。その剣、折れているのでは?」

「へ?」

「王が軽々と持てる品ではないと思いますが」

「……」

 鈎取王は剣を鞘から抜いた。

 刀身は根元からぽっきり折れていた。

「ああああああああ!」

「何だよ使えねーじゃねーかよぉ!!」

「どうします?気に入っておられるのなら譲渡致しますが」

「え!?良いのか?」

「きっと左大臣殿なら修復可能です。それに汝も超常の才がおありのようですから、方士になれば折れた剣でも使い道は幾らでもあります。そして……先程のお詫びでもあります」

「先程?」

「鉾で刺しましたから」

「!……ノスケって、気が良いんだな。ありがとう、大事にする!」

「では夜も遅いので、もう失礼致します」

「そうなん、ですか?」

「家に帰れば真っ暗ですよ」

 葛木王と鈎取王は揃って兄妹に向かって拱手する。

 真備と由利は門を潜って作宝楼を出た。

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